第2話 定時退勤宣言
翌日の午後——。私は財務局の前に立っていた。
「あら、驚いた顔。解任されても引き継ぎはしなければならないでしょう?」
受付の文官が目を丸くしている。無理もない。昨日あれだけ派手に断罪された女が、翌日に出勤してくるとは思うまい。
けれど手続きは手続きだ。十年分の業務を、後任に引き継がずに放り出すほど私は無責任ではない。王宮の財務規則第十二条には「担当者の交代時には、最低五日間の引き継ぎ期間を設けること」と明記されている。私を解任した側が、この規則を無視するわけにはいくまい。
(……もっとも、引き継ぎができるものなら、の話だけど)
執務室に入ると、案の定だった。
私の後任として座っていたのは、昨日ハインツの腕にいた令嬢——ルティア・フォン・メルツ。メルツ伯爵家の三女で、社交界では「可憐な花」と呼ばれているらしい。
けれど今、その花は萎れかけていた。
「あなたが……イルゼさん?」
ルティアは不安げに私を見上げた。机の上には、開かれたまま放置された台帳が広がっている。インク壺が傾きかけていて、思わず手を伸ばして直した。もう少しで台帳の上にインクが零れるところだった。
台帳の開かれたページは、今月の歳出一覧。金額の桁が一つずれている箇所が、ぱっと見ただけで三つ。赤インクでの修正もされていない。このまま決裁に回されていたら、どうなっていたことか。
「引き継ぎ資料を置きにきました。業務の一覧と、今週中に必要な決裁事項をまとめてあります」
「……あの、これ、全部ですか?」
ルティアの視線が、私が持ってきた書類の束——腕の太さほどの厚みがある——に釘づけになっている。
「ええ。今週分だけ。月末までの分は、後日届けます」
彼女の顔から血の気が引いていくのが見えた。唇が微かに震えている。
悪意はない。本当にこれが通常業務なのだ。私はこれを毎日——いいえ、毎日これ以上を、十年間こなしてきた。
「あ、あの、イルゼさん——!」
踵を返しかけた私を、ルティアの声が引き止めた。
「この、外国との支払い手続きの書式が、どこにも見当たらなくて……」
「第七書庫の三段目、左から四番目のフォルダです。背表紙に赤い紐がかけてあります」
「そ、それと、軍事費の四半期報告の提出先は——」
「元帥府直轄管理室。ただし、今期から書式が変わっています。旧書式で提出すると差し戻されますので、お気をつけて」
「換算率の——」
「毎週月曜に、商業管理局が公示レートを更新します。掲示板は東棟の階段横。古いレートで処理すると、相手国との間に差額が生じて外交問題になることもあります」
ルティアの手がぷるぷると震えていた。その手にはペンが握られているが、メモを取る余裕すらなさそうだ。
気の毒だとは思う。けれど、これが現実だ。財務の仕事は華やかさとは無縁で、一つの間違いが国の信用を傷つける。社交界で磨いた笑顔では、一枚の書類も処理できない。
(でも、それはもう私の仕事ではない)
そう自分に言い聞かせて、私は執務室を後にした。廊下を歩きながら、ふと振り返ると、ルティアが書類の束を呆然と見つめているのが見えた。
◇
正門を出たのは、午後五つの鐘が鳴った直後だった。
定時退勤——いや、引き継ぎに来ただけなので「退勤」ですらない。それでも、この時間に王宮を出ることの新鮮さに、足が軽くなる。
城下町の通りは夕刻の活気に満ちていた。露店が並び、焼き栗の香ばしい匂いが漂っている。職人たちが仕事を終えて酒場へ向かい、子供たちが石畳の上を走り回っている。花売りの少女が籠を掲げて声を上げ、鍛冶屋の煙突から白い煙が立ち昇っていた。
(十年間、この匂いを知らなかった。この景色を見る余裕もなかった)
歩きながら、ふと気づいた。足の痛みがない。毎日深夜まで石の廊下を歩き回っていた頃は、靴を脱ぐたびに足の裏が悲鳴を上げていたのに。たった一日の「定時退勤」で、足がこんなに軽い。十年間、自分の体がどれだけ悲鳴を上げていたのか、離れてみて初めて気づく。
「一つ、もらえますか」
露店で焼き栗の包みを買った。温かい紙袋を両手で包むと、じわりと熱が伝わってくる。
こんな些細なことが、こんなに幸せだなんて。十年間、私は何のために働いてきたのだろう。国のため? それとも、ただ止まるのが怖かっただけ?
一粒、口に入れた。甘い。栗の実は収穫後に低温で寝かせると、澱粉が糖に変わって甘みが増すという。この露店の栗は、きっとそうやって丁寧に仕上げられたものだ。温かさが口の中から喉へ、胸へと広がっていく。
「——失礼。少し、よろしいか」
不意に声をかけられた。振り返ると、長身の男が立っていた。
黒い外套、銀のブローチ。整った顔立ちに、感情の読めない灰青色の目。夕暮れの雑踏の中で、この男だけが別の空気を纏っている。周囲の喧騒から切り取られたような、冷たく澄んだ気配。
「あなたは——」
「王家監査局のアルヴィン・クレーフェだ。イルゼ・ヴェスト嬢、少し話がある」
監査局。王宮の不正を取り締まる独立機関。王太子直属で、宰相府からも独立した権限を持つ。財務局にいた頃、その名前だけは何度も書類で目にしていた。けれど、直接顔を合わせたことはない。
私は焼き栗の包みを握りしめた。
「……監査局が、解任された文官に何の御用ですか」
「財務局の件で、いくつか確認したいことがある。あなたが不正を働いたという告発——あれは事実か?」
単刀直入な男だ。世間話も前置きもない。こちらの気持ちを慮る素振りすらない。けれど不思議と、それが嫌ではなかった。むしろ、同情の目で見られるよりずっと楽だ。
「事実ではありません」
「根拠は」
「十年間、私の担当した案件で一件の誤差も出ていません。記録は全て残してあります」
アルヴィンの目が、一瞬だけ細くなった。
「記録を、残してある?」
「はい。控えは私個人の手元にも保管してあります。……万が一のために」
それは財務官としての習慣だった。西洋の宮廷財務では、担当者が自分の業務の写しを個人的に保管することは、古くから認められてきた。万が一の監査や紛争のとき、自分の身を守る最後の砦となるからだ。信頼よりも記録を。言葉よりも証拠を。それが、財務に携わる者の鉄則だ。
沈黙が落ちた。彼は何かを考え込んでいるようだった。灰青色の目が、私の顔を——いや、私の目の奥を見透かすように見つめている。
やがて、アルヴィンは小さく頷いた。
「明後日の午後、監査局に来てほしい。あなたの記録——見せてもらう」
それだけ言って、彼は人混みの中に消えていった。振り返ることもなく、真っ直ぐに。その背中には、私情も同情もなかった。ただ事実を求める者の、乾いた空気だけがあった。
焼き栗が、少し冷めていた。
(……監査局が動いている?)
つまり、私の解任劇は——単なる婚約破棄のついでではなく、もっと大きな何かに繋がっている可能性がある。
残りの栗を一粒ずつ口に運びながら、考えた。
明後日か。
(引き継ぎは——最低限で済ませよう)
もう、この国の財務を一人で背負う義理はない。けれど、濡れ衣は別だ。
十年間の仕事の記録が、私の無実を証明する。そしてもし——もし、その記録の中に「誰かの不正」が隠れているのだとしたら。
それを見つけるのは、十年間この仕事をしてきた私にしかできない。
夕暮れの風が、少し冷たくなっていた。
——けれど翌日、私を待っていたのは、ゲッツ様の訃報だった。




