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社畜令嬢ですが断罪されたので本日から定時退勤します  作者: 渚月(なづき)


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第1話 十年分の残業と一秒の断罪

私の一日は、誰よりも早く始まり、誰よりも遅く終わる。それが十年間、一日も欠かさず続いた日常だった。


王宮の東棟、財務局の廊下は夜明け前でも冷えている。石壁に染みついた埃っぽい空気を吸い込みながら、私——イルゼ・ヴェストは今日も書類の束を抱えて執務室の扉を開けた。


蝶番の軋む音が、暗い廊下にやけに大きく響く。この音を聞くたびに、また一日が始まるのだと思う。嬉しくもなく、悲しくもなく、ただ体が自動的に動き出す。もう十年もそうしてきた。この音は、私にとっての目覚めの合図だ。


机の上には昨晩のうちに積まれた決裁書類が、小さな塔のように聳えている。その横に、昨夜の残務——外国使節への支払い承認の控えが三通。どれも期限は今日中だ。さらにその下には、先週から溜まっている地方領への交付金の計算書が五枚。


(……また増えてる)


溜息をひとつ。けれど手は止まらない。止めたら、この国の予算執行が遅れる。予算の遅延は軍への補給の遅れを生み、補給の遅れは国境の警備に穴を開ける。たった一枚の決裁の遅れが、巡り巡って人の命に関わることもある。


だから私は、止まらない。止まれない。十年間、ずっとそうしてきた。


「イルゼ嬢、もう来ていたのか」


白髪交じりの老文官——ゲッツ次官補が、温かい茶を片手に現れた。この人だけが、私の出勤時間を知っている。三十年以上この王宮に仕えてきた生き字引のような人で、私が十七歳で財務局に入ったときから、ずっと見守ってくれていた。


「ゲッツ様、おはようございます。第三四半期の支出報告、昨夜のうちに修正しておきました」


「……また夜通しか。体を壊すぞ」


「壊れるより先に決算が来ますので」


ゲッツ様は苦笑して、私の机に茶を置いた。湯気がふわりと立つ。茶葉の香りが、冷えた執務室にじんわりと広がった。


こういう小さな優しさが、この場所で働き続ける理由のひとつだった。王宮の文官は、基本的に孤独な仕事だ。手柄は上に取られ、失敗は下に押しつけられる。けれどゲッツ様だけは、私の仕事を正当に見てくれていた。


私はペンを取り、最初の決裁書に目を通した。軍事費の四半期報告。書式に不備がある。提出元の元帥府はいつもこうだ。赤インクで修正を入れ、差し戻しの付箋を貼る。


次。建材の発注承認。金額に端数が出ている。計算をやり直し、正しい額を書き添える。


次。外国使節への支払い。為替の換算率が古い。今週の公示レートに更新する必要がある。


この繰り返しを、一日に何十回。十年間で何万回。私の二十代は、この机の上で過ぎていった。爪の隙間にインクが染みついて、いくら洗っても落ちない。それが私の勲章だと、自分に言い聞かせていた。



その日の午後。私は大広間に呼び出された。


普段なら年度末にしか足を踏み入れない場所だ。黄金の燭台が並ぶ広間には、見慣れない顔ぶれが揃っている。貴族たちが壁際にずらりと並び、ひそひそと何かを囁き合っていた。


中央に立つのは王太子エルヴィン殿下。金糸の刺繍が施された白いマントを纏い、氷のような表情をしている。その隣に——私の婚約者、宰相の息子ハインツ。


そしてハインツの腕に寄り添うように、知らない令嬢がひとり。金色の巻き毛に、白い肌。社交界の花がそのまま歩いてきたような、華やかな佇まい。


(……なんだろう、この空気)


胸の奥がざわつく。けれど表情には出さない。十年間、この王宮で感情を顔に出さない訓練は十分に積んできた。どんな無茶な案件が降ってきても、眉一つ動かさず処理する。それが財務局文官としての矜持だ。


「イルゼ・ヴェスト」


王太子の声が広間に響く。冷たい声だった。


「財務局における職権の濫用、ならびに国庫からの不正な資金流用の疑い。本日をもって、汝の職務を停止する」


空気が凍りついた。いや、凍りついたのは私の思考のほうだ。


不正? 資金流用? 十年間、一銭の誤差も出さないように——休日も祝日も返上して——。毎晩、蝋燭の灯が消えるまで机に向かい、指先にインクの染みが取れなくなるまで働いてきた。その私が、横領だと?


「ハインツ」


思わず婚約者の名を呼んだ。彼なら知っているはずだ。私がどれだけこの国のために——。


けれどハインツは視線をそらした。隣の令嬢の手を、そっと握り直しただけだった。その指先の動きが、言葉よりも雄弁に全てを物語っていた。


「あわせて、ハインツ・ローゼンベルクとの婚約も本日をもって解消とする」


王太子がそう告げた瞬間、広間にざわめきが走った。壁際の貴族たちの視線が、同情と蔑みを半分ずつ混ぜたような色で私に注がれる。扇の陰でくすくすと笑う令嬢がいた。哀れむように目を伏せる老貴族もいた。


私は唇を噛んだ。噛みすぎて、鉄の味がした。


手が震えている。でも泣かない。この場で泣いたら、彼らの思うつぼだ。


十年間の献身。休みなく働いた日々。婚約者への信頼。それが全部、たった一秒の宣告で——。


(……いいえ。泣くのは後でいい)


私は背筋を伸ばした。震える手を、スカートの中で握りしめる。


「承知いたしました」


それだけ言って、頭を下げた。


広間を出る私の背中に、誰かのくすくす笑いが刺さった。振り返らなかった。振り返ったら、きっと何かが壊れる。


執務室に戻ると、すでに荷物がまとめられていた。丁寧に、というよりは乱暴に。私が十年かけて整理した書棚は空になり、引き出しの中身は紙袋に突っ込まれていた。ペン立てが倒れて、インクが少しだけ机に滲んでいる。十年間使い込んだ机が、もう他人のもののように見える。


(……ああ、用意周到なことだ)


つまり、今日のこの「断罪」は、前もって準備されていたということ。私が何か弁明をする前に——いいえ、弁明する機会すら与えないように、周到に仕組まれていた。


ゲッツ様の姿はなかった。あの温かい茶の湯気が、まだかすかに残っている。


荷物を手に、私は東棟の廊下を歩いた。すれ違う同僚たちは目を合わせない。昨日まで笑顔で挨拶してきた人たちが、まるで見えない壁を作っている。一人だけ、若い文官が小さく会釈してくれた。けれどすぐに目をそらし、足早に去っていった。


正門に差しかかったとき、ふと足を止めた。


西の空が赤い。茜色から紫へと移ろう空のグラデーションが、城壁の向こうに広がっている。この時間に王宮の外にいるのは、十年で初めてのことだ。


(……こんな色だったんだ、夕焼けって)


不思議と、涙は出なかった。代わりに、乾いた笑いがこみ上げてきた。


十年間、この国の財務を支えてきた。予算編成も、外国への支払いも、軍事費の調整も。全部、私が回していた。


そして今、私はいなくなる。


(三日。いえ——二日かしら)


この王宮が私なしでまともに機能できる限界を、私は誰よりも正確に知っている。


明日からは、定時で帰ろう。いや——もう、帰らなくていいのか。


「お疲れさまでした、私」


夕焼けに向かって、小さく呟いた。風が頬を撫でた。冷たくて、心地よかった。


——けれどこのとき、私はまだ知らなかった。私の「定時退勤」が、この王宮に眠る巨大な闇を暴く鍵になることを。


第一話お読みいただき、ありがとうございました!

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