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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第三章 零札解体編

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第五十.五話 雪割りの日(1)

 門の前に、荷車が三台並んでいた。


 最初に目に入ったのは粉の匂いだった。挽きたての粉がうっすら空気に混ざっていて、砦の石壁の匂いとはまるで違う。次に来たのが、鉄と煙の混ざったもの。三台目からは、燻された肉と魚の匂いが布を通して漂っている。


 カイ・フォン・ヴォルフは門前に立ったまま、荷車から降りてくる男たちの顔を見た。


 ミルストーンの村長が最初に降りた。粉まみれの外套、深い皺、でも目がいつもと違う。カイが知っている彼の目は、もう少し奥に渋みを溜めていた。今朝のそれは、渋みの代わりに、妙なおかしみを含んでいる。


「団長殿」


「おう」


「今日は寄せてもらう。雪が割れたからな」


 言い方は短かったが、声の底がわずかに弾んでいた。


「雪割りってのは、毎年やってんのか」


「毎年やるもんだ。冬が明けたら、三つの村で持ち寄って飯を食う。もう何十年も続いとる」


 村長は荷台から粉の袋を引きずり出しながら言った。


「ただ、ここ十年くらいは村ごとにやってた。集まる体力がなかったからな」


「今年は違うと」


「今年は違う」


 村長はカイを見た。皺の奥に、さっきのおかしみとは別の色があった。


「港から帰ってきたって聞いた。誰も死なずに」


「……ああ」


「なら、砦でやるのが筋ってもんだろう。おかげさまで、うちの若い連中も顔色がだいぶ戻った」


 言い方はあくまで淡白だったが、「おかげさまで」の一語に、村長なりの重みが載っていた。カイはそれを受け取って、短く頷いた。


 その後ろから、アイアンストリームの男たちが荷台の鉄鍋を降ろしている。大きい。二人がかりで持ち上げている鍋は、砦の食堂にあるどの鍋よりも一回り大きかった。


「なんだ、その鍋」


「祭り用だ。普段は使わねえが、こういう日のためにとっておいてある」


 鍛冶師が鍋の縁を掌で叩いた。鈍い、よく響く音がした。


「こいつで汁を炊けば、七十人分はいける」


「七十人」


「足りねえかもしれんが、まあ、何とかなるだろ」


 もう一人が酒瓶を四本、腕に抱えて立ち止まった。


「こいつは何だ」


「雪割りの酒だ。こっちの習わしだ、団長」


「砦に酒を持ち込むのか」


「今日だけだ。祝いに酒がなかったら、夏でも冬は明けねえ」


 カイは鼻を鳴らしたが、拒みはしなかった。


 三台目の荷車から降りてきたのは、シルバークリークの女たちだった。布に包んだ燻製肉と、干し川魚の束を抱えている。あの村の燻製小屋が冬を越して回り始めた、その最初の成果物だ。肉の色が濃い。煙のかかり方が均一で、仕事が安定してきた証拠だった。


 年配の女が、燻製肉の束を木の台に降ろしながら言った。


「団長さん。うちの小屋がここまで回るようになったのは、あんたらのおかげだ」


「俺は何もしてねえ。小屋の設計は文官だし、実際に回してんのはあんたらだ」


「口が下手だねえ」


 女は笑った。笑い皺が深い。でも、去年の冬に見た顔より、少し肉がついている気がした。


 子どもが三人、女たちの後ろから砦の門をくぐった。


 目を丸くして、上を見ている。砦の石壁は、村の木の塀とはまるで違う高さだ。


「でっけえ」


「しっ。静かにしなさい」


「でも、すげえよ」


 一番小さな子が、門柱の石を手で触った。冷たい。指先で撫でてから、後ろの大人を振り返る。


「ねえ、ここに住んでる人たち、寒くないの?」


「寒いに決まってるだろ。だから飯を持ってきたんだ」


 アイアンストリームの男が笑いながら言った。子どもは納得したのかしていないのか、また石壁を触っている。


 カイは、門前のざわめきをしばらく聞いていた。


 三つの村が砦に集まるのは、初めてではない。冬のあいだ、食糧や資材のやり取りで何度も行き来している。だが、それは全て「必要」で来ていた。不足を埋めるために来る。補給を持ち帰るために来る。足りないから来る。


 今日は違う。


 足りないから来たのではなく、持ってくるものがあるから来た。


「ゲルト」


 後ろへ声をかける。


「荷の受け入れ、頼む」


「了解。食堂か中庭か、どっちに広げます」


「両方だ。人数が食堂に入りきらねえだろ」


 ゲルトが頷いて、兵士たちに声を飛ばし始める。荷台から降ろされた食材が次々と運ばれていく。粉の袋を担いだ兵士の横を、酒瓶を抱えた村の男が歩く。普段なら見ない組み合わせだ。


 カイはもう一度、門前に並んだ荷車を見た。粉の白と、鉄の黒と、燻製の茶色。三つの村が、三つの色でそれぞれに持ってきたものが、砦の門前で混ざっている。


 (迎える側、か)


 そう思って、少しだけ背筋を伸ばした。


*


 シュアラは執務室で荷の検分をしていた。


 中庭に並べられた食材の量を一覧にして、砦の倉庫の在庫と突き合わせる。祭りの後で倉庫が空になっては意味がない。


 紙の上に数字が並んでいく。パンの数。粉の量。燻製肉の重さ。酒の本数。干し川魚の束の数。


 書いていて、一つ気づいたことがあった。


 どの村も、「ちょうどいい量」を持ってきている。


 多すぎない。少なすぎない。三つの村がそれぞれ、自分たちの冬越しの蓄えを崩さない範囲で、かつ砦の人数をおおよそ計算した上で、持ってくる量を決めている。


 (……天秤を分かっている人たちですね)


 帝都の貴族がパーティーを開くときは、見栄と格式で量が決まる。残った食材は捨てるか、使用人の取り分になる。ここでは違う。三つの皿の上に載るものを、全員が数えている。


 ペンを置いて、窓の外を見た。中庭では、もう準備が始まっていた。鉄鍋が火に載せられ、湯気が立ち始めている。兵士たちが木の台を運んでいる。その横で、村の女たちが包丁を研いでいる。


 (記録は、後で)


 そう思って、帳簿を閉じた。閉じてから、もう一度開いて、一行だけ書いた。


 『雪割り祭——三村より持ち寄り。量、適正。在庫影響、軽微』


 書いてから、ペンを置いて立ち上がった。


*


 中庭には、昼前から人の声が充満していた。


 普段は訓練の掛け声しか響かない石畳の上に、木の台が三つ並べられ、その上に食材が山になっている。ミルストーンから来たパンは、まだ焼きたての匂いを保っていた。アイアンストリームの鉄鍋は中庭の火に載せられ、女たちが汁を仕込んでいる。根菜を刻む音が、石畳に小さく跳ね返っている。シルバークリークの燻製肉は布を解かれて台の上に並び、ナイフで切り分けるのを待っている。


「リュシア」


 シュアラの声が、食堂の入口から聞こえた。


「はい」


 リュシアは計算棟から出たばかりだった。砦に村人が押し寄せているのは聞いていたが、自分の席がどこにあるかは分からなかった。中庭の賑わいは、計算棟にも届いていた。笑い声と、鍋を叩く音と、子どもの走る足音。その音の中に、自分が入っていい場所があるのかどうか、分からなかった。


「お願いしたいことがあります」


 シュアラは盆に紙を一枚載せていた。中庭の食材の一覧表だ。


「三村分の食材を、人数割りにしてください。砦の兵士も含めて」


「……何人ですか」


「砦が四十三。ミルストーンが十二。アイアンストリームが八。シルバークリークが十一。子ども三人を含みます」


 七十四。


 リュシアは一覧表を受け取って、数字を上から順に目で追った。パンの数、肉の量、汁の分量。頭の中で割り算が動き始める。端数が出た。パンが一切れ足りない。


「パン、一個足りません。七十三人分しかない」


「分かりました。パンは砦の倉庫から一つ足します」


「端数の計算、先にやっておきますね。汁は一人あたりこのくらいで——」


 指が空中で数字を描く。シュアラが小さく頷いた。


「肉は均等に切ると一人あたり薄すぎるので、汁に入れる分と、そのまま出す分に分けた方がいいです。汁に三割、直接配膳が七割。燻製は汁に入れると味が濃くなるので、直接の方が多くていい」


「……細かいですね」


「返済の範囲です」


 言い方はいつもの調子だった。が、視線は紙の数字に落ちたまま、少しだけ速く動いていた。


 横で聞いていたミルストーンの男が、目を丸くした。


「嬢ちゃん、速いな」


「……別に。計算は得意なので」


 リュシアは紙を手に、中庭へ歩いた。


 台の前に立つ。燻製肉の前で、シルバークリークの女が包丁を握っていた。


「切り分け、手伝います」


「あんた、砦の子?」


「……砦で働いてます」


 女がちらりとリュシアの手を見た。インクの跡がある。計算棟の子だ、と分かったらしい。


「じゃあ、こっちの魚を頼める?骨のところだけ、気をつけて」


 干し川魚を手渡される。リュシアはそれを受け取って、木の台の端に並べた。骨に沿ってナイフを入れる。手が小さいので、魚の方が大きい。


「器用じゃないか」


「……計算棟では、自分でご飯を作ることもあったので」


 嘘ではない。孤児院の計算棟では、配膳も片付けも自分たちでやっていた。年長の子が包丁を使い、年少の子が皿を並べる。食べ物の分配も自分たちで計算した。上の棟からの支給量は毎月変わる。変わるたびに、一人あたりの量を計算し直す。あれは訓練だったのか、それとも——


「ねえ、嬢ちゃん」


 女の声で、思考が切れた。


「切り方、ちょっと力が入りすぎてるよ。魚は逃げないから、もう少し軽くていい」


 言いながら、女がリュシアの手にそっと自分の手を添えた。指の当て方を、ほんの少しだけ変える。


「こう。引くように切ると、身が崩れない」


「……はい」


 手が温かかった。孤児院で、こういうふうに手を添えられたことは——あったかもしれない。なかったかもしれない。思い出そうとして、思い出せなかった。


 隣では、フィンが鉄鍋の火を見ている。リュシアの横を通るとき、「嬢ちゃん、包丁の持ち方ちょっと危ないぞ」と言って、そのまま通り過ぎていった。指摘だけして、直さない。直さないのが、フィンなりの距離感なのだろう。


「フィンさん、さっきの人に直してもらいました」


「そりゃよかった。俺は包丁より剣の方が得意なもんでな」


「嘘でしょう。さっき玉ねぎ切ってたじゃないですか」


「あれは剣術の応用だ」


「なわけないですよ」


 フィンが肩をすくめて笑った。リュシアは魚に視線を戻しながら、口の端がほんの少し上がっているのを自分で感じた。


 中庭の向こう側で、シルバークリークの子どもたちが樽の周りをうろうろしている。三人とも、リュシアより少し年下に見える。十歳か、十一歳か。一人が樽の蓋を覗き込んでいる。もう一人が樽を叩いて、中身が入っているかどうかを確かめている。三人目は少し離れたところに立って、砦の石壁を見上げている。


「それ、何杯分だと思う?」


 リュシアの声が出たのは、自分でも少し意外だった。


 子どもが顔を上げた。


「え?」


「その樽。汁を入れたら何杯分か、当ててみて」


 少年が樽を見る。少女が首を傾げる。もう一人が指を折り始める。


「……三十杯?」


「惜しい。四十二杯。底が浅いから見た目より少ないんだよ」


「なんで分かるの」


「計算した。高さと幅と、椀の大きさから」


 子どもたちの目が変わった。


「すげえ」とは言わない。でも、三人ともリュシアの方を向いている。


「もう一個。あのパンの山、全部食べたら何人分?」


「それは見れば分かる!」


「じゃあ、数えてごらん。わたしより速く出せたら勝ちだよ」


 子どもたちが走っていった。パンの山を指で数え始めている。


 少年が「十四!」と叫んだ。少女が「十五だよ、バカ!」と返した。三人目が黙って数え直している。


「十五で合ってるよ」


 リュシアが声をかけると、少女が振り返って笑った。少年が「くそー」と悔しがっている。


「お姉ちゃん、もっと難しいの出して」


「お姉ちゃんじゃない。リュシアです」


「リュシアさん。もっと出して」


「……じゃあ、この中庭の石畳。端から端まで何枚あるか、数えないで出せる?」


「無理だよそんなの!」


「無理じゃないよ。一列だけ数えて、縦と横を掛ければいい」


 子どもたちが石畳を見下ろした。少年がしゃがんで、一列を指で追い始める。


 リュシアは、その背中を見ながら、川魚の骨を抜き続けた。手が止まらない。止まらないことが、今は少しだけ楽だった。


 孤児院では、こういう遊びは禁止されていたわけではない。ただ、遊ぶ相手がいなかった。計算棟の子どもたちは、計算を「評価されるもの」として使っていた。速さが価値。精度が生存。遊びに使うには、数字が重すぎた。


 ここでは——数字が軽い。


 間違えても、誰も怒らない。速くても、評価が変わらない。ただ「面白い」


「もっと出して」で終わる。


 それだけのことが、少しだけ不思議だった。


*


 昼下がり、シュアラは中庭の隅で、シルバークリークの年配の女と並んで座っていた。


 石の段差に腰を下ろし、準備の喧騒を少し離れたところから見ている。女は燻製肉の切り分けを終えて、ようやく手を止めたところだった。


「文官さん、でいいのかい」


「はい。シュアラです」


「うちの村の燻製小屋、あんたが考えたんだろう」


「設計はしましたが、実際に建てたのは村の方々です。回し方も、皆さんが試行錯誤して」


「試行錯誤って言うほどのことかねえ。煙の入り方を変えたのと、吊るす高さを直したくらいだ」


 女は手のひらをさすった。燻製を扱い続けた手だ。指先が少し黒ずんでいる。


「でもまあ、初めてだよ。あの小屋が回ったのは」


「初めて」


「うちの村で、冬の間ずっと肉が保ったのは初めてだ。いつもは年明けのあたりで尽きて、最後の一月は根菜と雪解け水で凌いでた」


 シュアラは何も言わなかった。ただ、女の手を見ていた。黒ずんだ指先と、爪の間に残った煙の跡。帳簿に書ける数字ではない。


「港の話も聞いたよ。誰も死なずに帰ってきたって」


「ええ」


「あんたの手柄かい」


「いいえ。全員の手柄です」


「そういうところが、あんたらしいねえ」


 女は笑った。それから、中庭の鉄鍋の方を見た。湯気が太くなっている。


「今日くらいは、いい顔してなよ。あんたの顔、いつ見ても白すぎるんだ」


 シュアラは少しだけ口元を緩めた。笑い方が不器用なのは自覚している。


「……善処します」


「善処って言葉を使うところが、もう白い顔してる証拠だよ」


 女は立ち上がって、鍋の方へ歩いていった。


*


 夕方には、食堂の席が足りなくなった。


 中庭の台をそのまま使って、外でも食べている者がいる。石畳の上に座って汁椀を膝に載せている兵士と、その隣で燻製肉をかじっている村の男が、何かを言い合って笑っている。何を言っているかまでは聞こえない。ただ、笑い声の種類が、いつもと違った。冬の砦で聞く笑い方よりも、もう少し奥から出てくる声がした。


 鉄鍋の汁は、七十人分をきっちり超えた。アイアンストリームの鍛冶師の言った通りだった。根菜と干し肉と、ミルストーンの粉で作った団子が入っている。匂いが中庭全体に広がっていて、石壁にまで染みつきそうだった。


 カイは席を回っていた。


 まずミルストーンの村長のところへ行った。村長は酒を一杯だけ飲んでいて、顔が少し赤い。


「団長殿、うちの粉はどうだ」


「うまい。去年よりうまい」


「去年は粉が足りなかったからな。今年は水車が冬の間も回った。あんたのところの兵が、凍った川を割って水路を通してくれたおかげだ」


「あれはゲルトの判断だ。俺は後から聞いた」


「誰の判断でもいい。うちの粉がうまくなったのは、事実だ」


 村長は杯を掲げた。カイも杯を受け取って、一口だけ飲んだ。酒は強い。喉の奥が熱くなる。


 アイアンストリームの鍛冶師の肩を叩いた。鍛冶師は椅子の代わりに鉄鍋の蓋をひっくり返して座っていた。


「いい鍋だな」


「だろう。うちの親父が鍛えた鍋だ。もう二十年使ってる」


「二十年」


「鉄ってのは、使えば使うほど馴染むんだ。人間と一緒だ」


 シルバークリークの女たちには「燻製、うまい」と短く言った。女たちは笑った。


「もっと褒めてくれていいんだよ、団長さん」


「……うまい。すごくうまい」


「棒読みだねえ」


 言葉は少ない。でも、顔を見せて歩くだけで、場の空気が少し変わる。兵士たちは背筋を伸ばし、村人たちは安心する。それがカイの仕事だった。


 フィンが食堂と中庭の間を行き来しながら、場を回していた。


「おーい、汁のお代わりはこっち。肉が欲しい奴は向こうの台だ。パンは……あー、もう残り少ないぞ。早い者勝ちだ」


 声が大きい。声が大きいだけで、宴が一段賑やかになる。フィンにはそういう才覚があった。


 兵士の一人が鉄鍋の前で立ち止まった。砦に来て日が浅い若い兵だ。


「これ、本当に全部食っていいんですか」


「いいに決まってるだろ。何のための祭りだ」


「いや、なんか……砦にいると、いつも倉庫の残りを気にしてるから」


 フィンが若い兵の背中を叩いた。


「今日は気にするな。明日からまた気にしろ。メリハリだ」


 若い兵は少し迷ってから、椀を差し出した。汁が注がれる。湯気が顔にかかって、目を細めた。


 そのとき、パンの台の前で小さな揉め声が上がった。シルバークリークの少年が二つ目に手を伸ばし、配膳していた兵が「待て、まだだ」とその手首を止める。少年は唇を尖らせた。


「だって、まだあるじゃん」


 後ろでは、別の子が椀を抱えたまま立ち止まっている。


 リュシアは立ち上がって、パン籠と人の列を一度に見た。


「今あるパンは、全員に一つずつでちょうどです。二つ目は団子を配ってから」


「でも——」


「でも、じゃない。先に数を揃えるの」


 言ってから、自分の声が少し強かったことに気づいた。孤児院の配膳で、遅れた子の皿が引っ込められる光景が、一瞬だけ喉の奥に戻る。


 兵が気まずそうに手を離した。少年はむくれたまま、パンを一つだけ取る。


「二つ目が欲しいなら、あとでわたしと勝負しなよ」


「勝負?」


「石畳の数。さっきの続き。勝ったら、大きい団子の場所を先に教える」


 少年は少し考えてから、手を引っ込めた。後ろにいた子に、パン籠が回る。


 中庭の端の方では、リュシアが子どもたちと一緒に座っていた。石畳の上に直接座って、膝に皿を載せている。子どもたちも同じ格好で並んでいる。少年が燻製肉にかぶりついている。少女が汁を飲みながら、リュシアの方を見ている。


「リュシアさん、計算以外に何ができるの?」


「……計算以外?」


「絵とか。歌とか」


「歌は下手です。絵は描いたことがない」


「えー、つまんない」


「つまんなくて悪かったですね」


 少女がけらけらと笑った。リュシアは少し口を尖らせたが、怒っているわけではなかった。


「じゃあ、何が好きなの?」


「……好き」


 問いが、一瞬だけリュシアの中で止まった。


 好きなもの。孤児院では、そういうことを聞かれたことがなかった。得意なものは聞かれた。使えるものは聞かれた。好きなものは——


「……数字、かな」


「それ計算じゃん!」


「数字と計算は違います。数字は——並んでるのを見るのが好き。計算は、並べるための道具」


 少女が首を傾げた。理解はしていない。でも、「ふうん」と言って、汁をもう一口飲んだ。理解しなくても会話が続く、ということを、リュシアは少し新鮮に感じた。


 少年が「石畳、数えた!」と叫んだ。


「縦が二十三で、横が十七。だから——えっと——」


「三百九十一」


 リュシアが先に答えた。


「ずるい!」


「ずるくないよ。掛け算が速いだけ」


「教えて。速くなるやり方」


「いいよ。でも、それは計算だよ?つまんなくないの?」


「つまんないのと速くなりたいのは別だもん」


 リュシアは少し目を見開いて、それから「……そうだね」と言った。


*


 食堂の端の席で、シュアラは帳簿を開いていた。


 今日の食材の消費量と、倉庫の在庫変動を記録するつもりだった。ペンを持って、一行目に日付を書いた。その下に、「雪割り祭——」と書きかけて、止まった。


 何を書くべきか分かっている。消費量、在庫影響、明日以降の補給計画への反映。いつもの手順だ。


 ただ、食堂の中の声が、ペンの先に入ってこない。


 目の前の帳簿と、周りの喧騒の間に、薄い膜が一枚あるような感覚がした。膜の向こう側で、誰かが笑っている。誰かが杯を合わせている。膜のこちら側で、自分はペンを持っている。


「嬢ちゃん」


 ゲルトの声が、背後から落ちてきた。


「今日くらいペンを置け」


「……記録は、早いうちに」


「記録は明日でも書ける。汁は冷める」


 シュアラはペンを持ったまま、ゲルトの顔を見た。ゲルトは腕を組んで、真面目な顔をしている。その「真面目な顔」が、いつもの苦虫を噛んだ顔とは微妙に違っていた。少しだけ——柔らかい。


「……ゲルトさん、少し酔っていますか」


「酔ってねえ。酔う前に言ってんだ」


「記録を怠ると——」


「怠るんじゃねえ。後回しにするだけだ。嬢ちゃん、あんたは後回しが下手すぎる」


 シュアラが返事を探しているあいだに、汁椀が一つ、帳簿の横に置かれた。


 カイだった。


 いつの間にか席を回り終えて、食堂の端まで来ていた。何も言わない。汁椀を置いて、隣の椅子を引いて座る。


 シュアラはペンを見た。汁椀を見た。カイの横顔を、一瞬だけ見た。


 カイは前を向いたまま、自分の椀を手に取っている。こっちを見ない。促しもしない。ただ、椀を置いた。それだけだ。


 ペンを帳簿の上に置いた。


 椀を手に取る。一口飲む。温かい。ミルストーンの粉で作った汁だ。根菜の甘みが最初に来て、その後から団子のもちもちした食感が舌に触れる。玉ねぎの甘さが、妙に舌に残った。


「……おいしい、ですね」


「だろ」


 カイはそれだけ言って、自分の椀を傾けた。


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