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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第二章 マリーハイツ公約編

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第五十話 鑑定

 勝ちは、歓声ではなく荷車の軋みとしてヴァルムへ戻ってきた。


 雪解けの進みかけた道は、まだところどころ白かった。砦の外壁の下では、昼の陽を吸った泥が黒く光り、馬の蹄がそのたび鈍い音を立てる。門の前にはゲルトが立っていた。肩に残る古傷のせいで少しだけ傾くあの体は、遠目にも分かる。


 その隣には、村長たちが二人。あとは当番の兵が数人。大げさな出迎えではない。けれど、若い兵のひとりがこちらの荷を見て、もうひとりが人数を数え、最後に視線がリュシアのところで止まったのを見て、シュアラは少しだけ肩の力を抜いた。


 無事に戻ったことを、まず目で確かめている。


 それだけで充分だった。


 門をくぐったところで、ゲルトが一歩前へ出る。


「遅かったな」


 最初の言葉は、それだった。


「海の上で祝勝会でもやってきたか」


「やってたら、たぶん沈んでました」


 カイが答える。声はいつも通りだったが、疲れは隠しきれていない。肩の奥に残った重さが、そのまま立ち方に出ている。


 ゲルトの目が、その後ろへ流れた。


「で、そっちの増えた一名は」


 リュシアの肩が小さく揺れた。


 寝不足と泣き腫らした目のせいで、年相応よりさらに幼く見える。だが、その目はもう昨夜みたいに海の方を見てはいなかった。ひどく緊張しているくせに、逃げる場所だけは探していない。


 シュアラは青い航路帳を抱え直し、先に言った。


「帝国海務院少技士、リュシア・フォン・クラウゼさんです。いまは当方預かりとします」


 村長のひとりが眉をひそめる。


「預かり、ってのは……あの港の件のか」


「はい」


 シュアラは頷いた。


「勝ちは持ち帰りました。その処理も、です」


 処理、という言葉が口に出た瞬間、自分の胃のあたりがわずかに冷えた。けれどここで他の言い方を探すより、その冷たさごと引き受ける方が早い。


 ゲルトは何も聞き返さなかった。


 代わりに、門番へ顎をしゃくる。


「開けろ。立ち話で済む話じゃなさそうだ」


 重い門が内側へ開いていく。木と鉄の擦れる音が、砦の中庭へ長く響いた。


 帰ってきた、と思ったのは、その音を聞いた時だった。


*


 執務室の空気は、海辺よりも乾いていた。


 濡れた外套を脱ぎ、机の上へ青い航路帳と数枚の仮記録を並べる。炭火の熱があるはずなのに、指先はまだ冷たい。海の湿り気を持ったまま紙を触るのが嫌で、シュアラは一度だけ掌を擦り合わせた。


 部屋には、ゲルト、村長二人、カイ、そして壁際にフィン。リュシアは扉の近くに立っている。座れと言われても座れない子どもの立ち方だった。


 シュアラは帳面を開いた。


 黒いインクで書いた一行の上に、昨夜落とした砂の細かな粒がまだ少しだけ残っている。


 誰も沈まなかった航路。


 文字を見た瞬間、昨夜の潮の匂いが一瞬だけ鼻の奥へ戻ってきた。海に立つ暗い背中。冷たい手首。泣き崩れたあとの、不揃いな呼吸。


 それらを押し込めるように、シュアラは次の紙を広げる。


「報告します」


 言葉を置くと、部屋の空気が少し締まった。


「マリーハイツ側との再検証航海は完了。帝都案、現地案、当方提示案を比較した結果、深海契約なし、追加損耗なしで帰還条件を満たす航路が確定しました」


 村長のひとりが、そこでようやく息を吐く。


「つまり……」


「通せます」


 シュアラは答えた。


「今度は、書けます」


 短い沈黙のあと、ゲルトが低く言う。


「損耗、ゼロか」


「はい」


「そりゃあ、異常値だな」


 笑ってはいなかった。けれど、その声音には去年の冬のような重さがなかった。


 ゲルトは帳面の一行を見たまま、ぼそりと続ける。


「で、その異常値を、砦の帳簿にはどう載せる」


 そこだった。


 シュアラは別の帳面を引き寄せた。ヴァルム砦の業務記録簿。分厚い紙、硬い表紙、擦れた角。この砦が死にかけていた冬から、少しずつ積み上げてきた生存の記録だ。


 羽根ペンを持つ。


 インクの先が紙に触れた。


 北方海路臨時再検証。

 帰還条件確定。

 人的損耗 零。


 乾ききらない黒が、白い紙の上でじわりと沈んでいく。


 数字はたったそれだけだ。


 けれど、その「零」の中に昨夜ひとり死ななかったことまで入っているように見えて、シュアラは一瞬だけ目を伏せた。


「これで、ヴァルム側の履歴書になります」


 顔を上げて言う。


「一航路守った、ではなく、人を減らさずに帰せた。その記録です」


 ゲルトは短く頷いた。


「帝都に出せるな」


「出せます。逃げたら逃げたで、逃げた記録が残ります」


 村長のひとりが腕を組む。


「ずいぶん嫌な言い方だ」


「数字の話をしている時は、だいたい嫌な言い方になります」


 そう返すと、フィンが壁際で吹き出しかけ、それを咳払いで誤魔化した。


 部屋がほんの少しだけ緩む。


 その隙に、シュアラは視線をリュシアへ向けた。


「次です」


 たった二文字で、空気がまた締まる。


 リュシアの喉が小さく動いた。


「リュシアさん。前へ」


 呼ばれて、彼女は一拍遅れて歩いた。以前の彼女なら、もっと早かったはずだ。呼ばれた瞬間に最適な位置へ立ち、必要な書類を差し出し、正しい答えを返していた。


 今は違う。


 足は動く。けれど、その間に考えている。怖がっている。迷っている。


 それでいい、とシュアラは思う。


 機械の速さは、この子をここまで壊したのだから。


「あなたには、今日から二つ仕事をしてもらいます」


 リュシアの肩がこわばる。


「ひとつ。マリーハイツ被害額算定。船、網、倉庫、油、休業日数、港湾作業の停滞分まで含め、一銭も漏らさず拾ってください」


 机の端に積んであった紙束を押し出す。昨夜のうちにまとめた現地聞き取りの走り書き、破損箇所の簡易見取り図、損耗品目の仮一覧。


「もうひとつ。ヴァルム便再運用における航路管理補佐。比較条件の洗い直し、点呼手順の再固定、貨物重量のばらつき補正。こちらは私と共同です」


 リュシアは紙束を見たまま、何も言わない。


 紙の上に落ちる視線が、昨日までと少し違って見えた。数字へ逃げ込もうとする目ではある。だが同時に、その数字がどこへ繋がるのかをもう知ってしまった人間の目でもあった。


「……わたし、に」


 声がかすれる。


「はい」


「でも」


 その先が続かない。


 シュアラは一呼吸置いた。


「罰としてではなく、返すために働いてください」


 紙束の向こうで、リュシアの睫毛が震える。


「あなたは昨夜、死んで終わる方へ行きかけました。ですが、こちらはそれを認めていません」


 淡々と言う。淡々としか言えない。


「ですから今後は、死んで帳尻を合わせる代わりに、生きたまま返してもらいます」


 カイが、壁にもたれたまま腕を組み直した。何も言わない。ただ、昨夜と同じ顔でそこにいる。


 リュシアはその気配を背に受けたまま、やがて小さく頷いた。


「……はい」


「返事が小さいです」


 半分は意地悪で、半分は確認のために言う。


 リュシアは目を閉じ、もう一度息を吸った。


「……はい」


 今度は、ちゃんと音になった。


*


 午後、机はすぐに紙で埋まった。


 被害額算定は、感傷の入る余地がほとんどない。むしろ、入った瞬間に数字の筋が濁る。


 破損した漁船一隻。船材の市場価格。修理に必要な工数。網の継ぎ直しにかかる日数。倉庫の壁材。濡れて使えなくなった油樽。漁に出られなかった日数分の逸失。積み下ろし停滞に伴う港湾収入減。


 紙の上には、現場で起きたことが別の名目で並ぶ。


 リュシアは最初の三枚ほど、指が震えていた。数字を書き間違え、訂正し、また止まる。そのたびに自分で自分の息を詰まらせているのが分かる。


 だが、四枚目に入る頃には変わった。


 速くなったのではない。むしろ逆だ。


 以前より一拍遅い。


 紙に書き込む前に、必ず一度だけ止まる。指で見取り図をなぞり、現地で見た壊れ方を思い出し、それから数字へ落とす。


 機械的な正確さではなく、壊れた現物を知った上での正確さへ変わりつつある。


 シュアラはその手元を横目で見ながら、自分の航路帳へ条件を書き足していった。


 時刻固定。点呼順。風落ち時の待機位置。貨物重量上限。見張り交代の間隔。


 すると、横から小さな声がした。


「……そこ」


 シュアラはペンを止める。


 リュシアが、自分の紙から顔を上げずに言う。


「三便目の帰り、油樽の本数だけ、条件がずれてます」


「どこが」


「帝都案のままだと、実測より二樽多いです。だから、最後の浅瀬で船底の返りが変わる」


 そこで初めて顔が上がる。


「……あとで、再検証の条件を詰めます」


 前よりずっと静かな声だった。


 だが、逃げるための声ではない。


 シュアラはその紙を受け取り、数字を追った。


 たしかにずれている。紙の上だけ見れば誤差で切り捨てていい量だ。だが海の上では、その誤差が最後の一本を沈める。


 喉の奥が、わずかに熱くなる。


「……はい」


 返事をしたあと、自分の声が少しだけ柔らかかったことに気づいた。


「今度は、条件を揃えます」


 リュシアは、すぐには頷かなかった。


 ほんの小さな沈黙のあと、紙束の向こうで唇が動く。


「次は、海の上で証明します」


 言った本人が、その言葉の重さに驚いたみたいに息を止める。


 カイが壁際で目を細めた。


 フィンは何か言いかけて、やめた。


 その一拍分の静けさの中で、シュアラは初めて、この子が昨夜の場所からほんの少しだけ前へ進んだのだと理解した。


 救われた子、ではない。


 まだ壊れかけたままの、しかし自分の手で何かを返し始めた子だ。


 それを言葉にすると安くなる気がして、何も言わない。


 代わりに、新しい紙を一枚だけ差し出した。


「では、その証明のために、まずこれを片づけてください」


 リュシアは紙を受け取り、ほんの少しだけ目を丸くする。


 航路管理補佐。仮配属。


 書式だけ見れば味気ない。けれど彼女は、その一枚が昨夜海の底へ落ちずに済んだ続きなのだと分かったらしい。


 そのまま、少しだけ俯いた。


「……見てみたいかもしれません」


「何をですか」


「その、ゼロじゃない方を」


 声が最後の方で小さくなる。


 シュアラは何も言わなかった。言う必要がなかった。


*


 夕方、ゲルトを交えた短い打ち合わせで、シュアラは新しい紙を机へ置いた。


 見出しは簡潔だった。


 北方海路運用規定 再検証


 あまり愛想のない字面に、ゲルトが眉を上げる。


「堅いな」


「整理のためです」


「その整理の顔つきが、もう喧嘩なんだよ」


 隣で、カイが鼻を鳴らした。


「で、喧嘩するんだろ」


「します」


 否定の余地もなく、シュアラは答えた。


「港の勝ちは、港に置いてきません。持ち帰った以上、次は制度の話にします」


 ゲルトは紙をめくり、数行だけ目を通したあと、面倒そうに頭を掻く。


「海務院にギルド、零札に刑徒か。増えたな」


「数は前からいました。いま見える場所へ出てきただけです」


 窓の外では、夕方の光が溶け残りの雪に淡く返っていた。海のない砦の夕方だ。乾いた風と、石と、遠くの鍛冶場の音。けれど机の上には、たしかに海から持ち帰った勝ちがある。


 カイが紙を覗き込み、短く問う。


「次も、お前の帳簿でやるのか」


「はい」


「沈む順番を、書き換えるんだな」


 シュアラは答えず、一度だけ頷いた。


 それから、もう一枚だけ紙を取った。


 北方海路適用拡大案


 インクが乾く前に、机の端へ置く。


 その沈黙を見ていたリュシアが、机の端でそっと背筋を伸ばす。


 以前なら、帝都の名を聞いただけで内側へ閉じていたはずだ。今は違う。怖がっている。十分に。けれど耳は向いている。


 勝ちを制度へ持ち帰るというのは、たぶん、こういう顔のことなのだろう。


 その夜、リュシアは割り当てられた小部屋で、机の上の紙を見つめていた。


 砦の客室と呼ぶには狭い。木の寝台、薄い毛布、洗面用の水差し、小さな机。窓の外に見えるのは海ではなく、雪解けで黒くなった中庭と、見張り台の灯だ。


 そのことが、まだ少しだけ不思議だった。


 海の音がしない。


 代わりに聞こえるのは、夜番が靴を鳴らして歩く音と、遠くで薪が爆ぜる乾いた音。それだけだ。


 紙の上には、さっきまで拾っていた損害額の途中式が残っている。数字が並び、その隣に短い注記。


 船底板、交換。

 油樽、破損七。

 休業損失、三日。


 人が泣いた痕跡を、別の名前で書き直した紙。


 その最下段に、自分の字で小さく書いてある。


 返済分。


 それを見た瞬間、襟の裏が熱を持った。


 びくりと身体が跳ねる。


 指先が勝手に首元へ行き、布の裏に縫い込まれた小さな硬いものへ触れた。青黒い水晶。零札孤児院の優等生にだけ与えられた、あれだ。


 忘れていたわけではない。


 ただ、この砦へ入ってから、考えないようにしていただけだ。


 熱が、脈に合わせて二度、三度と脈打つ。


 喉が乾いた。


 部屋の空気が、切り取ったみたいに静まる。夜番の足音さえ遠のいた気がした。


『聞こえるかな』


 声は、耳ではなく頭の内側へ落ちてきた。


 低く、平らで、男とも女ともつきにくい響き。けれど、言葉の置き方だけで誰か分かる。


 ヴァレン・ハーツ。


 戦場鑑定士。


 リュシアの指が、無意識に机の端を掴む。


『怯えなくていい。今回は処分通知ではない』


 処分、という単語だけで、胃の底が冷たく縮んだ。


 声は続く。


『むしろ逆だ。君はしばらく生かすことにした』


「……っ」


 返事が出ない。


 いつものように「承知しました」と即答できない。喉の奥で言葉が渋滞し、その一拍の遅れを、向こうがただ静かに回収した気配がした。


『変わったね。以前なら、もう少し早かった』


「……何の、ご用ですか」


 ようやく搾り出す。


 かすれていた。自分でも嫌になるくらい子どもっぽい声だった。


『確認だよ。君がどちら側へ落ちるかの』


 机の上の紙へ、視線が落ちる。


 返済分。


 その字が、急にひどく弱く見えた。


『零札孤児院に残っている名簿は、こちらにある』


 呼吸が止まった。


 弟。妹。まだ下の棟へ落ちていない、でも安全圏でもない、あの子たちの顔が一瞬で浮かぶ。


『君が従うなら、当面は数字を動かさない』


 声はどこまでも静かだった。


 優しさではない。ただ事実を置いているだけの声。


『従わないなら、別の帳簿を開くだけだ』


 指先から血が引いていく。


 孤児院の帳簿。奉仕隊候補。終身奉仕札。下の棟。番号。消えていく名前。


 知っている。全部、知っている。


 だからこそ、脅しではなく手続きとして聞こえる。


「……わたしは」


 何と言えばいいのか分からない。


 いや、分かっている。


 以前の自分なら、ここで即答していた。


 承知しました。

 必要な報告を上げます。

 数字は維持します。


 そう返していた。


 でも今、机の上には別の紙がある。損害額。返済分。さっきまで隣の机にいた黒髪の女。壁際に立っていた男。海を見ずに済んだ夜。


 その全部が、喉の奥で邪魔をする。


『返事を』


 急かすでもなく、ヴァレンは言った。


『死んだ駒からは情報が取れない。だから君を失敗作として捨てるより、観測線として使う方が有益だ。こちらは、それだけの話をしている』


 有益。


 その単語の冷たさは、昔なら安心に近かった。使い道があるうちは生きていていい、という意味だったから。


 今は違う。


 違うはずなのに、弟妹の顔が浮かぶたび、その冷たさに縋りたくなる。


「……必要なことだけ、報告します」


 言ってから、自分で驚いた。


 従う、とも、承知した、とも言わなかった。


 曖昧で、弱くて、しかし以前の自分なら絶対に選ばなかった返し方だ。


 向こうが沈黙する。


 ほんの短い間。


 それから、低い声がまた落ちてきた。


『構わない。いまはそれで』


 許したのではない。保留にしただけだ。


『あの砦司令がいるかぎり、少技士は海で死ねない』


 なぜか、その言葉だけが胸の奥へ妙に深く刺さった。


 カイの顔を思い出したからかもしれない。昨夜、あの黒い海の中で自分の手首を掴んだ手の重さを、身体がまだ覚えているからかもしれない。


『それと』


 ヴァレンの声が、わずかに間合いを変える。


『勝つなら制度へ行く。彼女はそういう顔をしていた』


 彼女。


 言われるまでもない。


 シュアラだ。


 リュシアは唇を噛んだ。


 向こうは見ていたのだ。海の上ではなく、その先を。自分が折れても報告線になることも、カイが止めることも、シュアラが勝ちを帳簿へ移すことも。


 頭の中が冷たくなっていく。


 気づけば、返事が一拍遅れていた。


「……わかりました」


 完全な服従の声ではなかった。


 自分でも分かる。弱い。揺れている。どちらにも転びきっていない。


 けれどその遅れを、向こうは咎めなかった。


『では、また』


 熱が引いていく。


 襟裏の水晶が、ただの硬い異物に戻った。


 リュシアはしばらく動けず、机に手をついたまま俯いた。


 窓の外では、夜番の足音がまた聞こえている。薪が爆ぜる。誰かが小さく咳をする。


 生きている音だった。


 さっきまで、その音が少しだけ自分のそばにある気がしていた。砦の机で紙を拾っていた間、ずっと。


 その音の中に混じって、自分だけが別の線でどこかと繋がっている。


 それが、吐き気のするほど気持ち悪かった。


 帝都の一室で、ヴァレンは通信を切った水晶を机へ置いた。


 部屋は広いくせに、妙に狭く見えた。壁一面に地図が貼られているせいだ。ヴァルム。マリーハイツ。海務院。零札孤児院。太い線、細い線、仮置きの札、色違いの針。


 盤面と呼ぶには生々しく、戦場と呼ぶには静かすぎる。


 彼は指先で、新しい駒をひとつ摘んだ。


 青黒い印のついた小さな札。


 それを、ヴァルムと零札孤児院を結ぶ線の途中へ置く。


 細い字で書く。


 観測線。


 その下に、もう一枚。


 異常値発生源/ヴァルム。


 さらに一枚。


 制度変動要因/シュアラ。


 そして最後に、黒い小さな札。


 撹乱要因/カイ。


 置き終えたあと、ヴァレンは少しだけ首を傾けた。


 興味、というものを他人が見たら、たぶんこういう角度だと理解するだろう。


「さて」


 机の隅の紙へ、新しい見出しを書く。


 零札隷属契約 ~零法遊戯~


 インクが紙に沈む。静かな音もしない。


 だが、海で掴まれたあの勝ちが、この部屋に届いた瞬間から、もう次の盤面は始まっていた。


 ヴァレンは地図の前に立ち、細長い影を床へ落としたまま、淡く言った。


「では、次の盤面に移ろう」

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