第四十九話 祝われた生、呪われた生
扉を押した途端、酒場の熱が背中から剥がれた。
代わりに入ってきたのは、潮の匂いを含んだ夜気だった。
海沿いの町は、暗がりの中で少しずつ輪郭を取り戻していく。目が慣れるにつれ、板で継いだ白壁や、布を打ちつけた窓や、路地の端へ押しやられた瓦礫の黒い山が見えてきた。海水を吸った木の匂いと、乾ききらない石畳の冷えが、足もとからじわじわ上がってくる。
それでも、町は寝ていなかった。
広場の火桶がいくつも赤く燃えている。濡れた上着を竿へ掛ける男がいて、壊れた籠を膝の上で編み直す婆さんがいる。鍋の湯気の向こうでは、女が子どもの手に先に木杯を押しつけていた。飲み終えたその子が、ようやく母親の膝に頬を預ける。
笑ってはいない。
だが、潰れてもいなかった。
カイは戸口に肩を預けたまま、その光景を眺めた。
ついさっきまで、背中の向こうはもっと明るかった。灯りも声も多くて、次の便が組めるだの、油が回るだの、明日も船が出せるだの、そういう話が杯の音といっしょに飛び交っていた。祝いと言うにはまだ硬い。喪失の匂いも疲れも残っている。だが、それでもあそこには、助かったあとにしか出ない熱があった。
嫌いじゃない。むしろ、ああいう熱が要る夜なんだろう。
ただ、自分は少しだけ外へ出たかった。
海風が頬を撫でる。冷たいが、ヴァルムの冬みたいに肌を裂く冷えじゃない。湿っていて、少し重い。息を吸うと、舌の奥に塩が残る。
カイはそこで一度、長く息を吐いた。
今日、自分は人を殺さずに済んだ。
そう思ったとたん、胸の内側で小さく軋むものがあった。
昔なら、違った。
守るためだと言いながら、結局は斬るしかなかった。敵を減らし、黙らせ、血で帳尻を合わせる。それが戦だと思っていたし、それしかできない男だとも思っていた。
事実、そうやって生きてきた。
帝国に使われ、切られ、敗戦の責任だけを背負わされてヴァルムへ飛ばされた頃には、腹の底にろくなものは残っていなかった。剣は持てる。人も斬れる。だが、その先に何を守るのかはぼやけていて、残っているのは怒りと、行き場をなくした力だけだった。
そこへ、シュアラが来た。
死人文官。
青白くて、細くて、寝ているのか起きているのかも分からない顔で、それでも紙だけは誰よりよく見ている女。
最初から分かっていたわけじゃない。あいつの言う理屈に腹が立ったこともある。紙の上の話で人が助かるか、と、何度も思った。
だが、違った。
あいつは、紙の上で人を減らしていたんじゃない。紙の上で、人が減らない道を作っていた。
今日だってそうだ。勘で通したわけでもなければ、奇跡で通したわけでもない。戻る順を、人の手で組み直した。切る順番じゃなく、帰す順番として。
その結果、自分は剣を抜いても、誰も殺さずに済んだ。
剣の意味が、昔より少しだけ変わった。
それを変えたのは、間違いなくシュアラだ。
カイは眉間を軽く押さえた。
失いたくない、と思う。
友としてか。戦友としてか。あるいは、もっと別の何かとしてか。そこは、自分でもうまく分からない。
ただ、あいつを失ったら、自分がどこまで昔の方へ戻るのか、それだけは分からなくて、その分からなさだけが妙にはっきりしていた。
「……重症だな」
誰に聞かせるでもなく、ひとりごちる。
火桶の向こうで誰かが笑い、鍋の蓋が鳴った。遠くでは荷車の車輪が石を噛む音がする。壊れたままでも、町は明日へ進もうとしている。
そろそろ戻るか、と海の方へ目をやった、その時だった。
波打ち際へ向かって、細い影がひとつ歩いていた。
急いでいない。ふらついてもいない。酔った足でもなければ、散歩の気楽さでもない。
妙に静かで、もう迷うことだけをやめた人間の歩き方だった。
嫌な歩き方だ、とカイは思った。
火の届かない暗がりへ、波の音ばかりが大きくなる方へ、ためらいもなく進んでいく。帰る人間の足じゃない。何かを見に行く足でもない。行った先で、そこで終えるつもりの足だ。
顔が少し上がり、灯りが横顔をかすめた。
銀の髪。
小柄な影。
抱えていたはずの帳面は、今日はない。
リュシアだった。
考えるより先に身体が動いていた。
石畳を蹴る。風が耳を裂く。波打ち際へ降りる坂は夜露と潮で滑りやすい。それでも足を緩める理由にはならない。
リュシアは気づかない。いや、気づいても、もう気にしていないのかもしれなかった。
靴の先が黒い水に触れる。
「おい」
呼んでも振り向かない。
もう一歩、海へ入る。
カイは腕を伸ばし、その細い手首を掴んだ。
冷たかった。骨ばっていて、驚くほど軽い。
リュシアの肩が跳ねる。そこで初めて、彼女は振り返った。
月の薄い光の下で見た顔は、泣いていなかった。泣いていないのに、どこかもう戻れないところまで行ってしまった顔だった。
「……離してください」
声は小さい。震えてもいない。その平たさが、かえって怖かった。
「断る」
「これは、わたしの……」
「海に入る前の奴が言う台詞じゃねえよ」
言い切る前に、カイは潰した。
波が二人の足首を濡らして引く。夜の海は黒い。どこまでが地で、どこからが底なしなのか、見ているだけじゃ分からない。
リュシアは一度だけ目を閉じた。
「今日、通りました」
「ああ」
「誰も沈みませんでした」
「ああ」
「……だから」
そこでいったん詰まる。喉がうまく開かないみたいに、言葉が細く途切れた。
「だから、もう、いいんです」
意味が分かりすぎて、カイは奥歯を噛んだ。
リュシアは俯いたまま続ける。
「わたしがいなくなれば、たぶん、それで終われます。港も回るし、次の便も出る。困る人なんて、そんなに――」
「いるだろ」
「いません」
すぐに返ってきたが、その声は強くなかった。強がりだけが先に立って、息が続いていない。
「そういうものなんです。だめだった方が消えれば、残った方がそのまま進める。零札孤児院では、ずっとそうでした。下からいなくなって、上はそのぶんだけ生きる。わたしは……そういうところを、上がってきただけです」
そこでようやく、彼女は顔を上げた。
年相応よりずっと幼く見える顔だった。聡いくせに、どこか育つ前のところだけ切り取られたままみたいな顔。
「今日だって、一手違えば、みんな死んでました」
「死ななかった」
「結果がそうだっただけです!」
初めて声が割れた。
「灯りが少し遅れてたら。潮位が一つずれてたら。見張りが気づくのが遅かったら。わたしは、そういう『もし』で人を沈める側にいたんです。いまさら一回うまくいったからって、そっちへ行けるわけないじゃないですか」
息が上ずる。だが、涙はまだ出ない。
「わたし、手つきが、もう……」
言い切れなくなって、唇を噛む。
「沈める側のままなんです」
カイは黙った。
「だから、祝われる輪の中に入れない。あの人たちの顔、見たら、分かるんです。違うって。わたし、あっちじゃないって」
手首を掴んだままのカイの手に、少しずつ力が入る。
分かる気がした。
帝国に押しつけられた順番は、表向きにそれが終わっても、身体の奥からすぐには抜けていかない。捨てられる側も、捨てる側も、いったんその理屈で生き延びたなら、簡単には離れられない。
カイは短く息を吐いた。
「俺も、似たようなもんだった」
リュシアの目がわずかに動く。
「……何がですか」
「切られる側だよ」
海を見るでもなく、カイは言った。
「帝国に使われて、都合が悪くなったら責任だけ乗せられた。ここでヴォルフを一人沈めりゃ数字がきれいになる、そういう話だ」
リュシアは黙る。
「で、沈まなかった」
カイの声は低い。だが、さっきより少しだけ近い。
「沈まなかったが、生き残ったあとに何が残るかって言や、ろくでもねえもんだ。怒りだけだ。剣だけだ。守るためだとか抜かしながら、結局は人を斬ることしかできねえ男が残る」
夜の風が吹き抜け、濡れた前髪が額に張りついた。
「昔の俺は、そうだった」
「……でも、今は違う」
「違う。違っちまった」
そこで少しだけ笑う。自嘲だが、嫌な笑いではない。
「シュアラがいたからだ」
リュシアの目がほんの少し見開かれる。
「あいつに会って、剣の使い道が増えた。斬るだけじゃねえって、嫌でも分からされた。紙で道を作る女がいて、その道を通すために俺が立つ。そういうやり方を知った」
言葉にしてみると、思っていたよりずっと重い。
「だから、俺はあいつを失いたくねえ」
リュシアは何も言わない。
「友達だとか、信頼だとか、もっと別の何かだとか、そこは知らん。だが、あいつがいなくなったら、俺がどこまで昔に戻るのか分からねえ。それだけは分かる」
リュシアはようやく、泣きそうな顔をした。
自分の苦しみとは別の場所にある切実さを、正面からぶつけられたからかもしれない。
カイは手首を掴んだまま、続けた。
「で、いま俺は、お前も失いたくねえと思ってる」
リュシアが息を止める。
「な、んで……」
「俺が嫌だからだ」
間を置かずに返した。
「失敗したからって、自分から海へ入って帳尻合わせる。そんな終わり方、帝国が一番喜ぶだろうが」
リュシアの唇が震える。
「でも……わたし、どうしたら……」
「死ぬ以外で返せ」
波音の向こうでも、そのひと言ははっきり届いた。
「その頭、まだ死んでねえだろ。だったら捨てるな。沈める方で使ったぶん、今度は返す方で使え」
リュシアの喉が小さく鳴る。
「そんなの……」
「できるか分からねえ、って顔してんな」
「……分かりません」
「だろうな」
カイは少しだけ顎を引いた。
「でも、今ここで死んだら、分からねえままで終わる」
リュシアが目を伏せる。
「つらいです」
「ああ」
「死ぬより、ずっと」
「ああ」
「……いやです」
「それでもだ」
カイの声は低いまま、少しも緩まなかった。
「逃げるな。そこまで嫌なら、なおさら、生きて嫌がれ」
その言葉で、とうとう何かが切れた。
リュシアの膝から力が抜ける。海へ崩れそうになった身体を、カイが引き寄せる。細い肩がぶつかった瞬間、堰が切れたみたいだった。
「わ、たし……っ」
息が乱れる。言葉にならない。涙が遅れて溢れてくる。
「わたし、ずっと……ちゃんと、やってたんです……」
「……ああ」
「間違えないように、役に立つように、捨てられないように……っ」
「ああ」
「なのに、いざ失敗したら、ほんとに……ほんとに、消えるしかないみたいで……っ」
嗚咽が混じる。小さな肩が情けないほど揺れる。十三の子どもが、今までよく立っていたと思うくらい危うい泣き方だった。
カイは何も綺麗な慰めを言わなかった。言えるわけもない。
ただ、海へ向いていたその身体を、陸の方へ向け直す。
「帰るぞ」
リュシアは泣きながら首を振る。
「帰っても……顔、合わせられません……」
「合わせろ」
「シュアラさんにも……」
「なおさらだ」
カイはそこで、ようやく少しだけ息を抜いた。
「あいつに黙って死なれたら、あとでどれだけ面倒か分かるだろ」
その言い方が少しだけおかしかったのかもしれない。リュシアはしゃくり上げたまま、泣き笑いみたいな顔を一瞬だけした。
「……はい」
返事は、かすれていた。
カイはようやく手首から手を離し、その代わり、逃げられない距離で横につく。波打ち際を離れ、石段を上がる。リュシアの足は何度かもつれたが、今度は海へ戻ろうとはしなかった。
町の灯りが少しずつ近づく。
火桶の明かり。湯気。人声。壊れたままでも、進もうとする町の気配。
その光の端に、ひとつだけ青白い灯りが見えた。
役所の二階、開いた窓の向こう。誰かがまだ起きている。
「……寝てねえな」
カイがぼそりと言う。
リュシアもその先を見る。何も言わない。ただ、足だけは止めなかった。
役所へ上がる階段は、夜気を吸って冷えていた。二階の廊下も、誰も歩いていないせいで妙に音が響く。紙をめくる小さな音が、扉の向こうから絶えず続いていた。インク壺の蓋が触れる乾いた音もする。
カイが戸を押し開けた。
シュアラは机に向かっていた。青い航路帳と、別の帳面と、被害算定の紙束。横顔は相変わらず白い。けれど、扉が開いた瞬間、その目だけがすぐにこちらを捉えた。
先に見たのはカイではなかった。
その半歩後ろ、濡れたまま立っているリュシアだ。
靴。赤い目。泣き止んだあとの浅い呼吸。
シュアラは何も聞かなかった。聞かないまま、青い航路帳を自分の前へ引く。頁を開き、迷いなくペン先を置いた。
さらり、とインクが走る。
誰も沈まなかった航路
リュシアは、その一行を見つめたまま動かなかった。損耗や切り離しの条件が並ぶ帳面なら、見慣れている。誰を最後に回すか、何人までなら許されるか。そういう紙ばかり見てきた。
だが、目の前に置かれたのは逆だった。誰も沈まなかった、という結果が、そのまま紙の上に残されている。
シュアラはそこでペンを置いた。
「これで、今日の勝ちは残せます」
声は平らだった。だが、突き放すほど冷たくはない。
「記録しておきます。次に使える形で」
リュシアの喉がかすかに鳴る。
「……わたし、は」
その先が出てこない。
シュアラは待たなかった。
「今夜は、もう海へ行かないでください」
リュシアが目を見開く。
「あなたの処分も、働き先も、ここでは決めません」
短い間が落ちた。
「ここで片づける気はありません。ヴァルムへ来てください」
部屋が静まる。
カイは壁際に立ったまま、何も言わない。ただ、さっきまで海へ向いていた小さな背中が、今は机の方を向いているのを見ていた。
リュシアの唇が震える。
「……ヴァルム」
「はい」
シュアラは即答した。
「この町であなたを祝うことも、裁くことも、今はしません。どちらも雑になりますから」
視線が、帳面の一行へ落ちる。
「持って帰ってもらうものがあります」
リュシアは黙ったまま、浅い呼吸を繰り返した。
「今日の勝ち方です」
そこで一度、シュアラは口を閉じる。説明を足しすぎないようにするみたいに。
「人を減らさずに通した、という結果を。帝都の帳簿ではなく、別の場所で積み上げる必要があります」
責められる覚悟はしていたのだろう。追い出される覚悟も、たぶん。だが、連れて行くと言われるとは思っていなかったらしい。リュシアは信じきれない顔のまま、言葉を探すように唇を動かした。
「わたし、そんな……」
「資格の話ではありません」
シュアラは静かに切った。
「雑に死なれると、私が困ります」
リュシアが呆気に取られたように瞬く。
「あなたは今夜、海へ返しません。ヴァルムで返してもらいます」
罰ではなかった。赦しでもない。死んで終わることだけを、先に封じる声だった。
リュシアはとうとう顔を覆った。
嗚咽は小さい。けれど今度は、海へ零れる音ではなかった。
シュアラは航路帳を閉じる。
「出発までは、こちらで預かります」
「……はい」
「勝手にいなくなられると困ります」
「……はい」
返事のたびに、声が少しずつ崩れていく。
カイはそこでようやく、肩の奥に残っていた力を抜いた。
シュアラはもうこちらを見ていない。閉じた青い航路帳の上に細かな砂を落とし、乾ききらない一行へそっと広げる。黒いインクが鈍く沈んでいく。
窓の外で、夜の海が遠く鳴った。
けれどリュシアは、顔を覆ったまま、もうそちらを見なかった。




