第四十八話 最後の一線(2)
港へ戻ると、先に声を上げたのはフィンだった。
「やったっすね、軍師殿!」
濡れた髪のまま甲板から飛び降りる。その勢いに引っぱられるように、あちこちから安堵の息がこぼれ始めた。歓声というほど大きくはない。だが、昨日までの「怒りの続きを抱えた港」とは違う音だった。
クラウスが目を閉じ、ゆっくり頷く。
「これで次の便が組める」
その一言で、港の空気が前へ進んだ。勝った、より先に、明日が繋がった。
荷役頭がすぐに怒鳴る。
「祝いはあとだ! 油から降ろせ、濡らすな!」
「祝いの前に仕事かよ!」
「その仕事が祝ってんだろうが!」
言い返しながらも、手は止まらない。縄が飛び、樽が降ろされ、次便の話がすでに始まっている。フィンは文句を言いながら一番軽い箱を抱えて走り、途中で「これ絶対俺の役じゃないっすよね!?」と叫んだが、誰も聞いていなかった。
シュアラは、その変化を見てようやく肩の力を抜いた。
「これで、“通れる航路”ではなく“帰せる航路”になりました」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
クラウスが、わずかに笑う。
「うむ。そう呼ぶ方が、この町には合う」
その脇で、リュシアは動かなかった。
帳面を抱えた腕だけが、不自然なほど固い。指先が白い。周りでは零札たちが互いの無事を確かめ、船頭が怒鳴り、荷役頭が次便の段取りを飛ばしているのに、彼女だけがその音の外に立っていた。
助かった者たちの顔を見ている。
見ているのに、ひとつも同じ顔ができない。
零札の若い男が仲間に肩を叩かれ、笑いながら何か言い返す。その肩の揺れを、リュシアは少しだけ目で追った。ほんの少しだけ。だが次の瞬間には、追ったこと自体を隠すように帳面を抱え直す。
シュアラは、その顔から目を離すまでに少し時間が掛かった。
*
夜、港の酒場には灯りが多すぎた。
木杯のぶつかる音。焼いた魚の匂い。樽を叩く手。煮込み鍋の蓋を開けた時に立ちのぼる、玉ねぎと安い酒の甘ったるい湯気。復旧の朝を越えた町が、今夜だけは生き延びた側の顔をしている。
焼き網の上では小振りの青魚が何匹も並び、皮の弾ける音を立てていた。皿に載る頃には身は少し固い。塩も強い。だが、それでも今夜のそれは「祝いの料理」として受け取られていた。桶の中には黒パンが山のように積まれ、その横で女将が豆の煮込みを木杓子で乱暴に盛っていく。景気のいい晩餐とはほど遠い。なのに、卓を囲む顔だけが妙に明るい。
フィンはその明るさの中心にいた。
「見ました? あそこの一拍。あそこ我慢できたの、俺、ちょっと格好よかったっすよね?」
「自分で言うな」
カイが木杯を置く。
「でも実際、あそこ先に切ってたら危なかったっすよ」
「だから偉ぶるな。手順通りやっただけだ」
「団長、褒めるの下手っすねえ」
「褒めてねえ」
そのやり取りの向こうで、クラウスは焼き魚の骨を器用に外していた。年寄りらしい慎重さに見えて、食べる速度は妙に早い。皿の上の身がみるみる減っていく。
「おやっさん、そういう顔して、食うの早くないっすか」
「年寄りは、食える時に食うのだ」
「さっきまで港で死にかけてた人の台詞っすか、それ」
「死にかけたから食うのだよ」
言い切って骨を皿の端へ置く。酒場の隅で誰かが吹き出し、その笑いがあちこちへ伝染した。
シュアラは席を移りながら、条件の話を続けていた。航路継続の条件、復旧資材の優先順位、帝都向けの報告文言、次便の荷の扱い。顔を覚え、名前を繋ぎ、口約束を紙へ落とす。
仕事としては間違っていない。ここで固めなければ、今日の勝ちは明日の朝には値切られる。
だが今夜は、紙に落とす前の雑談が、そこかしこに挟まった。
「軍師殿、これ食ったか?」
漁師頭が皿を差し出してくる。豆と細切れ肉の煮込み。見た目は茶色一色だが、湯気の中に胡椒が少し利いていた。
「まだです」
「なら食っとけ。話はそのあとでいい」
断る間もなく木の匙を握らされる。口に運ぶと、塩辛さのあとに豆の粉っぽい甘みが来た。港の料理らしく大ざっぱで、でも腹にはたまる味だ。
「……悪くありません」
「今のは褒め言葉で受け取っていいのか?」
「かなり上位です。少なくとも、今朝の干し魚よりは」
漁師頭が腹の底から笑った。
「よし、聞いたかおい! 今朝の魚は下位だとよ!」
「軍師殿! 朝の魚は俺が持ってったやつっす!」
フィンが向こうから抗議してくる。
「塩が過多でした」
「細けえ!」
笑いがまた起きる。シュアラは匙を置き、笑いの中で次便の話へ戻ろうとした。すると今度は女将が、熱い汁物を卓へどんと置いた。魚の骨から取った出汁に、崩れかけた芋が浮いている。
「顔色悪い嬢ちゃんは、酒よりこっちだよ」
「私は嬢ちゃんでは――」
「いいから飲む」
押し切られて椀を受け取る。湯気が視界を少しだけ曇らせた。ひと口すすれば、骨の匂いの奥に生姜がわずかに効いている。
その時、視界の端に何度か、小さな影が引っかかった。
輪の外れ。柱の影の近く。
リュシアが、手をつけられていない皿の前に座っていた。
焼き魚も、煮込みも、薄い果汁水もある。だが、どれも減っていない。杯の縁を指でなぞるばかりで、飲む気配がない。周りの卓では零札たちが「今日は先に寝るなよ」「いやお前がもう半分寝てる」と言い合い、漁師たちが次便の風向きを賭け事みたいに語り合っている。その喧騒が、彼女の席だけを不自然に避けて流れていく。
フィンが新しい相手を連れてくる。
「今のうちに顔つないどいた方がいいっす」
別の席からも声が飛ぶ。
「軍師殿、こっちにも顔出してくださいよ!」
フィンが半ば押し出すように笑う。
「団長はこういうの苦手なんで、ここは軍師殿で」
シュアラは一瞬だけためらった。
輪の外れにいるリュシアの顔が視界に入る。だが次の瞬間、商人が今夜のうちに条件を確かめたいと声を掛け、漁師頭が次便の積荷の順を訊き、フィンが「明日逃すと条件変わるっす」と囁いた。
胸の奥で、計算が二つぶつかった。先の制度戦と、目の前の一人。
苦いものが舌の上に残った。
「……分かりました」
答えてから、もう一度だけ輪の外れを見る。
リュシアはこちらを見ていなかった。椀に口をつける真似だけをして、結局、何も飲み込めていない。
カイは祝いの輪の中へ、どうにも深く入っていけなかった。
杯を渡されれば受け取る。二口で止まる。焼き魚を押しつけられれば骨を外して食う。味は分かる。悪くない。だが、こういう夜ほど、体のどこかが勝手に警戒した。
向かいの卓で、零札の若い男が豆煮込みの皿を抱え込むみたいにして食っている。さっきまで甲板で顔色を失くしていたやつだ。隣の仲間がその黒パンを奪って一口齧り、「硬え」と笑う。奪われた方も笑い返す。そんな当たり前の光景が、今夜はやけに目についた。
フィンは向こうで騒ぎ、クラウスは珍しく機嫌のいい顔で魚を二匹目にしている。悪い夜じゃない。むしろ、いい夜のはずだった。けれど熱のまんなかにいるほど、自分だけ呼吸の幅が合わなくなる。
誰かがまた酒を注ごうとした時、カイは手のひらで断った。
「ちょっと外の空気吸ってくる」
「お、団長ついに酔いました?」
フィンが笑う。
「お前らの声でな」
「ひでえ!」
笑いが起きる。その笑いの向こう、カイは柱の影の席を見た。リュシアはまだ、そこにいた。皿の魚は冷えている。果汁水にも口をつけた跡がない。自分の席の喧騒から半歩ぶん遠いだけなのに、そこだけ別の夜みたいだった。
カイは肩だけ揺らして席を立った。
背中ではまだ笑い声が続いていた。
振り返らず、そのまま扉へ向かった。




