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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第二章 マリーハイツ公約編

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第四十八話 最後の一線(1)

 ヴァルム便は、まだ出ていなかった。


 夜明け前の薄明かりの中、船腹を打つ波だけが先に朝を知っている。桟橋では濡れた板を打つ音が絶えず、割れた樽から使える材を抜く手も止まらない。油壺を抱えて走る足。潮を吸った縄の重いきしみ。怒鳴り声も飛ぶが、どれも景気のいい音ではなかった。


 今日の便が止まれば、桟橋の木も、灯りの油も、明日の飯も、みんなここで滞る。


 見張り台の上で、シュアラは港口を見た。


 暗い海の上に、二つの灯り。


 石塔の灯りと、昨夜ようやく立てた仮灯だ。紙の上なら、その二点を結ぶ線はいくらでも引ける。だが海に出るとそうはいかない。片方が波の裏へ沈み、片方だけが先に返る。そこにあるはずのものが、見える順まで勝手に変わる。


 昨夜から、そこだけが決まらない。


 最後の危ない区間。あそこを抜ける手順さえ立てば、この便は動く。けれど、その一本だけがまだ海の方に残っていた。


 横で、杖先が小さく鳴った。


「どうだね、軍師殿。答えは見えたか」


 クラウスの声に、シュアラはすぐ返さなかった。もう一度、海を見る。


 第一灯が見える。

 少し遅れて、仮灯が返る。


 並んでいるはずなのに、同時には見えない。

 波の山が片方だけを隠し、もう片方だけを返す。


 昨夜までは、位置の問題だと思っていた。角度が悪いのか、進入点が浅いのか、それとも線の引き方そのものが違うのかと。


 違う。


 胸の奥で、何かが小さく噛み合った。


「……そういうことですか」


 フィンが顔を上げる。


「何か見えたんすか」


「はい」


 シュアラは青い航路帳を開いた。夜気を吸った紙が、指先に少し硬い。


「見え方の問題ではありませんでした。見る順番です」


「順番?」


「私は最後の区間を、一本の線として解こうとしていました。どの角度で入るか、どこで切るか、どこを通すか。でも海が返していたのは、線じゃなかった」


 ペン先を置く。


「条件の順番です」


 クラウスは黙って頷いた。

 カイは何も言わない。ただ港口を見ている。待つ時の顔だった。


 シュアラは見えたものを、そのまま手順へ落としていく。


 第一灯を確認。

 仮灯との角度差が基準に入ってから、一段目の舵切り。

 潮位が足りなければ待機。

 見張りの報告が遅れたら撤退優先。

 最後の進入は二段階。一度に切らない。

 先導は合図だけ。主船は返答だけ。

 古い印は使わない。


 書いているうちに、胸の奥の冷えが少しずつほどけた。正解を掴んだというより、海の方へ散っていたものがようやく人の手に戻ってきた感じだった。


「通せるのか」


 カイが訊く。


 短い。疑っているのではない。ここで確かめるべきことを、ただ確かめた声だ。


 シュアラは顔を上げた。


「通せます。今度は、書けます」


 口にしたあと、自分の喉が少し熱いことに気づく。まだ紙の上の話だ。ここから先で通らなければ、きれいな字で終わる。


「じゃあ、紙で終わらせるな」


 カイが見張り台を降りる。


「現場に落とすぞ」


 フィンが杖代わりにしていた櫂を肩へ担ぎ、ぱっと笑った。


「よっしゃ。じゃあその前に、誰か軍師殿に何か食わせた方がいいっすよ。顔色、紙と同じっす」


「紙はまだましです」


 シュアラが答えると、クラウスが鼻で笑った。


「紙は海に酔わんからな」


 見張り台の下では、誰かが塩を振りすぎた干し魚を布に包み、黒パンと一緒に木箱へ放り込んでいた。港の朝飯というより、働くために口へ押し込む燃料だ。フィンが箱からひとつ失敬し、シュアラの手に半ば無理やり押しつける。


「考える人が倒れたら、次から俺らまた勘で死ぬんで」


「言い方が雑です」


「でも本音っす」


 黒パンは冷たく、角が固かった。噛むと、昨夜の湿気を吸った粉の味がした。干し魚の塩気はきつく、舌の上でしばらく居座る。美味くはない。だが、腹の中へ落ちていく重さだけは確かだった。


 カイはそのやり取りを一瞥しただけで、先に梯子を降りた。現場へ行く顔に戻っている。

 シュアラもパンを飲み込んでから、その背を追った。



 ヴァルム便の甲板は、夜気を抱えたまま濡れていた。


 靴底の下で板が冷たく鳴る。積み荷は復旧材、灯りの油、それから次の便へ回す生活物資。ここで止まれば、港の立て直しそのものが止まる。


 零札たちは甲板の上で固まっていた。視線だけが忙しく、肩の置き方が定まらない。命令を待つ顔というより、何を任されるのかを測っている顔だった。切られる側へ立たされ続けた人間にだけある、妙な静けさがそこにある。


 その端で、年若い零札が黒パンを半分だけ齧ったまま、噛むのを忘れていた。隣の年嵩の男が肘で小さく突き、「飲み込め。死ぬ前みてえな面すんな」と囁く。冗談の形をしているが、声の底は乾いていた。


 シュアラは船縁に手を置いた。


「聞いてください」


 大声ではない。だが、全員がこちらを向くまで待ってから続ける。


「最後の区間の条件を書き換えました。大事なのは、海図が正しいことではありません。全員が同じ順番で動けることです」


 航路帳を開き、指で追う。


「第一灯が見えたから切る、ではありません。仮灯との角度差が基準に入ってから、一段目を切る。潮位が足りなければ待機。見張りの報告が遅れれば戻る。最後は二段階。一度に切らない」


 零札の一人が、ためらうように口を開いた。


「戻って、いいんですか」


「条件が揃わなければ戻ります」


 シュアラはすぐ答えた。


「無理に通して沈むより、戻って次便に回した方がいい。いえ」


 そこで、言い直す。


「その方が、人を減らしません」


 甲板の空気が、ほんの少し動く。


 別の男が、今度は思いきれないまま訊いた。


「戻ったら……怒鳴られねえんですか」


 その問いに、甲板のあちこちで視線が揺れた。怒鳴られる、殴られる、役立たずと札に書き足される。そういう続きを、みんな体のどこかで覚えている顔だった。


 クラウスが杖で板を軽く叩く。


「怒鳴る暇があれば、次便を組むわい」


 フィンがすぐ横から口を挟んだ。


「むしろ勝手に突っ込んだ方が、団長が先に怒鳴るっすよ」


「当たり前だ」


 カイが前へ出た。こういう時、理屈より先に身体へ入るのは彼の言葉だと、シュアラはもう知っている。


「合図は迷うな」


 海の男たちと零札たちを見回し、低く言う。


「迷ったら勘で行くな。決めた通りに戻れ」


 短い。

 だが、その短さがざわつきを止めた。


「聞こえたな」


 返事は最初ばらけ、二度目で揃った。


 その揃い方を見て、シュアラは小さく息をつく。同じ順番で動けるかどうか。それだけで、海の上の人間はかなり変わる。


 少し離れた場所で、リュシアが帳面を抱えたまま立っていた。


 青白い顔に血の気はない。視線は航路帳と港口を行き来している。技師の目だ。だが、その奥に沈んでいる色は、昨日より暗い。


 フィンが通りすがりに、空いていた木杯を彼女へ差し出した。中身はぬるい湯だった。


「ほら。倒れたら面倒なんで」


 軽口の形だが、差し出し方だけはぞんざいではない。リュシアは一瞬遅れてそれを受け取った。


「……ありがとうございます」


 声は細かった。湯を飲むというより、唇を湿らせただけで戻す。フィンはそれ以上は何も言わず、櫂の位置を確かめるために去った。


 シュアラはそれを見たが、声は掛けなかった。今、開くべきなのは誰かの内側ではない。この一便を通すことだ。



 船が動き出す。


 夜と朝の境目の薄い空の下、ヴァルム便は港口へ向かった。海面は穏やかに見えるのに、足元へ伝わる揺れは細かい。一拍ごとに違う。同じ山がひとつもない。


 見張り台から声が飛ぶ。


「第一灯、確認!」


 先導側の返答。主船はまだ切らない。


 シュアラは甲板の中央で航路帳を押さえた。紙の上では、たった一行だ。けれどその一行のために、いま何十もの足が止まり、視線が揃い、手が待っている。


 隣でカイが波を見ている。顔は険しい。だが余計な口は挟まない。


 仮灯が、波の谷へ沈んだ。


 一瞬、見えなくなる。


 誰かの喉が鳴った。舵輪に掛かった手が、わずかに早く動きかける。


「まだです」


 シュアラが言う。


 止まれ、ではない。まだだ。いまは順番のどこにいるかを告げる。


 仮灯がもう一度浮く。

 第一灯との角度差が、帳面の数字へ寄っていく。


「――基準、入ります」


「一段目、切れ!」


 カイの声が飛ぶ。


 船体が重く向きを変える。板がきしみ、積み荷の縄が張る。誰も叫ばない。ただ、自分の役割だけが動く。見張り、返答、待機、確認。海の上に、人間の手順が一本ずつ置かれていく。


 そこで、波がずれた。


 船腹を叩くはずのない角度から、水の重みが来る。甲板が一拍ぶれ、仮灯がまた見えなくなった。


「報告!」


 カイが吠える。


「仮灯、未確認!」


「潮位、基準ぎりぎり!」


「一段目、保持可能!」


 言葉がばらけず返る。


 シュアラは航路帳へ指を置いたまま、次の条件を読む。


「報告が遅れたら撤退優先――」


 そこまで口にした時、胸の奥が一度だけ冷えた。ここで戻るかどうか。その判断まで含めて、この条件の値段だ。


 だが、仮灯が戻った。


 今度ははっきりと、波の上に。


「仮灯、再確認! 角度、戻る!」


「二段目、用意!」


 カイの声のあと、誰も先走らない。用意、だけだ。そこに一拍の待機がある。その一拍が、昨日までの案にはなかった。


 シュアラは小さく頷く。


「二段目、切ってください」


 舵輪が回る。


 船体が、狭いあいだを抜ける。


 灯りが左右へ流れ、波の色が変わった。港内の水だ。さっきまでのうねりが、板の下で少しだけ丸くなる。


 誰もまだ笑わない。

 ただ、手すりを握っていた指だけが、ひとり、またひとりと離れていく。


 港の匂いが戻ってくる。魚と油と、人が起き始めた町の煙の匂いだ。見慣れたはずの匂いなのに、甲板の上の誰かが低く息を吐いた。


 カイが前を見たまま、低く言った。


「……通ったな」


 歓声ではない。確認だ。

 その一言で、甲板の上の空気がようやく人の息に戻る。


 フィンが櫂を立てたまま、にやりと笑う。


「よし。朝飯、死なずに食えますね」


 どこかで小さく笑いが漏れた。大きくは続かない。だが、笑ってもいいと体が思い出し始めた音だった。


 シュアラは大きく何も言わなかった。ここで勝ちを口にすると安くなる。


 代わりに、青い航路帳の端を押さえ、最後の余白へ書き込む。


 最終進入条件、実地適用済み。


 インクがじわりと紙へ吸われる。

 濡れた板の上には、まだ誰も転がっていない。

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