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死んだことにした悪役令嬢、 辺境で騎士団長に溺愛されつつ帝国を建て直します  作者: マグロサメ
第三章 零札解体編

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第五十.五話 雪割りの日(2)

 しばらく、二人とも黙って汁を飲んでいた。食堂の声が、膜を通さずに聞こえるようになった。さっきまで帳簿の数字が占めていた場所を、汁の温度と、隣に座っている人間の気配が、少しだけ埋めている。


「団長」


「ん」


「三つの村の人たちが、今日ここに来た理由は何だと思いますか」


「雪割りの祭りだろ。毎年やってるってよ」


「それだけですか」


「それだけじゃねえだろうな」


 カイは椀の底を見た。


「港のこともある。冬を越したこともある。ただ——それだけで人は荷車を出さねえよ。面倒だからな」


「では、何が」


「さあな。俺は数字でものを考えねえから、うまくは言えん」


 一拍あった。


「ただ、酒を持ってきた奴がいるってことは、そういうことだろ」


 シュアラは椀の中の汁を見た。


 そういうこと、という言い方が、カイらしかった。


「嬉しかったから」とも「感謝しているから」とも言わない。ただ「酒を持ってきた」という事実だけを置く。理由は、行為の中にある。


「……そうですね」


 椀の中の汁が、少し減っていた。


 食堂の向こうで、フィンが何かを話している。


「聞きました?帝都じゃ、もう港の勝ちを自分らの手柄にして杯回してるらしいですよ」


 声が、宴の喧騒を縫って聞こえた。誰に向けて言ったのかは分からない。周りにいた兵士の一人が「あっちは俺たちの名前なんか出ねえだろうけどな」と返して、小さく笑った。


 別の兵士が「出なくていいよ。出たら呼び出されるだけだ」と付け加えた。笑いが少し広がった。


 シュアラは椀を手に持ったまま、一瞬だけ目を伏せた。


「あちらの祝いは、私たちの帳簿には載りません」


 声は小さかった。カイにしか聞こえない音量だった。


「載らなくていい」


 カイは椀の底を見たまま言った。


「酒まで持ってきてる。こっちは、あれで足りてる」


 帝都の祝いは、港の勝利を「帝国の成果」として発表しているはずだった。名前が出るとすれば、帝都の高官か、海務院の誰かだろう。ヴァルム砦という名前は、出ない。シュアラという名前は、もちろん出ない。


 出ない方が都合がいい。出れば、注目される。注目されれば、死人文官の素性を掘る者が増える。出ないことは安全だ。安全なはずだ。


 それでも、一瞬だけ目を伏せた。


 その一瞬の意味を、シュアラは計算しなかった。しないまま、椀をもう一口傾けた。


 食堂の灯りが、壁に揺れている。村の子どもたちが、リュシアの隣で魚の骨を並べて何かを数えていた。リュシアは「違う、そこは十二」と指を指している。声が、少しだけ高い。


 シュアラはその声を聞きながら、椀の中の汁を見た。


 帳簿はまだ開いたままだ。日付の一行だけが書かれている。その下は白い。白いまま、今日は白いままでいい、と思った。


*


 宴が終わった後の砦は、いつもと違う静けさだった。


 声がなくなったのは同じだ。でも、空気の密度が違う。いつもの夜は、冷えた石と疲れた息の匂いがする。今夜は、その下に、汁の匂いと酒の匂いと、人が大勢いた残り香がある。


 カイは砦の廊下を歩いていた。


 巡回、というほどのものではない。ただ、宴の後に一度砦を見て回る習慣がある。酔って寝落ちた兵がいないか確認する。火の始末を見る。門の番が交代しているか確認する。


 兵舎の前を通ると、中から低い話し声が漏れていた。村の男と兵士が、まだ何かを話している。聞き取れたのは「次の冬は」


「粉の量を」


「鍛冶場の」という断片だけだった。宴の後に、来年の話をしている。来年の話をしているということは、来年がある前提で話しているということだ。


 (去年の冬には、こういう声はなかったな)


 中庭を横切る。片付けは終わっている。鉄鍋はアイアンストリームの男たちが明日の朝に持ち帰ることになっている。鍋の横に、誰かが忘れていった手拭いが一枚落ちている。カイはそれを拾って、台の上に置いた。


 去年の冬、兵舎の夜の声は、もっと短かった。寝る前に「明日の当番」を確認する程度で、それ以上の会話はなかった。話すことが少ないのではなく、話す気力がなかったのだ。


 去年なら、この時間に手拭いは落ちていなかった。汗を拭くより先に、眠るか、歯を食いしばるかだった。名前が二つ三つ、喉の奥まで上がってきて、カイはそれを飲み込んだ。今夜は、いない奴を数える夜じゃない。残った連中の声を聞く夜だ。


 火の始末をしている影があった。中庭の隅に残した熾火を、火箸で崩している。脇には水桶。炭の赤が、時々だけ小さく息をする。


 リオだった。


 弓は壁に立てかけてある。両手は火箸にかかっていて、肩だけが少し強張っている。昼のあいだは人の多さに押されて、あまり前へ出てこなかった。こういう静かな時間の方が、あの少年には居場所がある。


「まだ起きてたのか」


 声をかけると、リオはびくりと肩を揺らした。すぐに立ち上がりかけて、火箸を持っていたことに気づき、半端な姿勢で止まる。


「……当番です」


「見りゃ分かる」


 カイは火のそばまで寄った。炭はもうほとんど落ちている。水をかけるには早い、放っておくには遅い。その中途半端な時間を、リオはきっちり見ていたらしい。


「門の方はもう見た。こっちはあと少しで終わります」


「ああ」


 短いやり取りのあと、火箸が炭を崩す音だけが続いた。夜の中庭は広い。昼の喧騒が消えたぶん、炭のはぜる小さな音までよく響く。


 リオが、火を見たまま口を開いた。


「……今日、子ども、多かったですね」


「ああ」


「ずっと走ってました。石畳の音が、うるさいくらいで」


 そこで言葉が切れた。リオは火箸の先で炭をひっくり返し、それから少しだけ目を伏せた。


「……でも、ああいうの、嫌じゃなかったです」


 言ってから、自分でも妙なことを言ったと思ったのか、唇を引き結ぶ。カイは返事を急がなかった。急がせると、こいつはすぐ黙る。


「去年は、こんな音しなかったからな」


 リオは小さく頷いた。頷いて、それで終わるかと思ったが、もう一度だけ口を開いた。


「……来年も、あるといいですね」


 最後の方は、少しだけ早口だった。願いというより、口から漏れた独り言に近い。言ってしまってから、リオは気まずそうに炭へ視線を落とした。


「……変なこと言いました」


「変じゃねえよ」


 カイは火の赤を見たまま言った。


「火、消えたら寝ろ。明日も仕事だ」


「はい」


 返事はいつもより素直だった。リオは火箸を持ち直し、今度はさっきより丁寧に炭を崩し始める。


 カイはそこを離れた。背中に、火箸の鳴る小さな音がしばらくついてきた。


 執務棟の前を通りかかったとき、窓の灯りが消えているのが見えた。


 シュアラの執務室だ。普段なら、この時間でもまだ灯りがついている。帳簿を開いて、ペンが動いている。消えているのは珍しい。


 (寝たのか)


 あるいは、寝る準備をしているか。今日くらいは、早く休んでいい。そう思って、通り過ぎた。


 門の番は、予定通りの兵が立っていた。


「異常は」


「ありません。村からの荷車が三台、門の横に停めてあります。明日の朝に出るそうです」


「分かった」


 門の外を見た。北の山の輪郭が、星明かりでかすかに浮かんでいる。雪は白く、空は暗い。その間に、まだ冬が残っている。残っているが、今朝の空気は、昨日より少しだけ軽かった。


 カイは門番に「ご苦労」と言って、兵舎へ戻った。


*


 夜が深まった。


 砦の灯りが一本ずつ消えていく。食堂の声はとうに消え、中庭の台は片付けられ、食材の残りは倉庫に戻された。村人たちは砦の空き部屋と兵舎の端を借りて泊まっている。廊下に、いつもと違う足音の響き方がする。寝返りを打つ音が、壁の向こうから聞こえる。砦が、いつもより少しだけ多くの体温を抱えている。


 リュシアは計算棟の自室に戻った。


 扉を閉める。部屋が暗い。ランプを一つだけ灯す。


 靴を脱いで、椅子に座る。足の裏が少し痛い。一日中、中庭と食堂を行き来していたからだ。石畳の硬さが、今になって足に残っている。


 机の上に、見覚えのないものがあった。


 小さな木彫りの魚。


 掌に収まる大きさで、鱗の一枚一枚が荒く彫られている。目はない。口だけが、少し開いている。尾びれの先がわずかに欠けている。彫りかけなのか、それとも最初からこういう形なのか。


 名前は書かれていない。誰が置いたのかも分からない。ただ、午後に一緒に数を数えた子どもたちの手の大きさと、この彫り跡の幅は、合っている気がした。少年の手だ。ナイフの跡が少し乱暴で、でも形は魚に見える。


 リュシアはそれを手に取って、しばらく見た。


 軽い。木の匂いがする。ナイフで削った跡が、指先にざらりと触れる。


 孤児院では、こういうものを貰ったことがなかった。贈り物というもの自体が、計算棟にはなかった。誕生日も祝わない。卒棟のときに上の棟から通知が来るだけだ。通知の紙は白くて、数字しか書いていない。


 木彫りの魚を、机の上に置いた。ランプの灯りが、彫り跡の凹凸に影を作っている。


 ——今日、少女に聞かれた。


「何が好きなの?」


 数字、と答えた。答えてから、もう一つ浮かんだものがあった。口には出さなかった。


 汁の温度。包丁を握ったときの女の手の温かさ。子どもたちが走っていった足音。


「もっと出して」と言った声。


 好きかどうかは分からない。ただ、嫌ではなかった。嫌ではない、ということが、孤児院の計算棟にはなかった。嫌でなければ「適応している」と判定され、嫌であれば「不適格」と判定される。好き嫌いの前に、判定がある。判定のない場所に立つのは、初めてだった。


 机の引き出しを開ける。


 青黒い水晶板が、布に包まれて収まっている。


 手を伸ばす前に、一度止まった。


 木彫りの魚を見る。水晶板を見る。


 起動する。薄い光が滲んだ。青みのある光。夜の部屋では目立つが、部屋の扉は閉まっている。


 しばらく待つ。


 接続が確立すると、声が来た。


『報告を』


 声は平坦だった。いつもの声だ。


「……今日は、三つの村がヴァルム砦に集まっていました。雪割りの祭りです。食材の持ち寄りと、宴がありました」


『通常の季節行事と』


「はい。ただ、港の勝利の祝いも兼ねていたようです」


 一拍。


 この一拍が、いつもの一拍と同じかどうか、リュシアには判断がつかなかった。ヴァレンの間合いは、毎回同じように聞こえて、少しずつ違う。


『結構。シュアラの動きは』


「通常業務です。帳簿の整理をしていました。今日は途中でやめていましたけど」


『やめた理由は』


「……宴です。周りに止められて」


 ヴァレンの沈黙が、三秒あった。


 三秒の沈黙が意味するものを、リュシアは読めなかった。


「シュアラがペンを止めた」という情報に、ヴァレンが何を見ているのか。異常と見ているのか、無視しているのか。どちらにしても、この沈黙は記録されている。


『一点。別件です』


「……はい」


『帝都近郊で、北方商路に関わる商人の集まりがあります。マリーハイツ航路が安定したことで、流通の再編が動き始めている。こちら側にも、新しい取引の芽が出ています』


 リュシアは、声を聞きながら、木彫りの魚を左手に持ったまま水晶板を右手で支えていた。魚の尾びれの欠けたところが、親指の腹に当たっている。


『ヴァルム砦の名前を出せる人間がいれば、取引の幅が広がる。機会がある、とだけ伝えておいてください』


「……誰に、ですか」


『シュアラに。それとも、団長殿に。どちらでも構いません』


 商売の話だ。ヴァレンにとっても得がある話だ。孤児院の運営には帝都側の商流が要る。マリーハイツの航路が安定したのはヴァルム砦の実績で、その実績を商人の場で使いたいのは、実利として筋が通る。


 筋が通っている。


 筋が通っているから、それ以上のことは見えない。見えないが、見えないからといって、ないとも言えなかった。


 帝都近郊。商人の集まり。シュアラか、カイか。どちらかが帝都の近くへ行く。行けば、帝都の人間の目に触れる。


 そこまでは、リュシアの頭でも計算できた。でも、その先にあるものが何かは、分からなかった。分からないことが、少しだけ——


「……分かりました。伝えます」


『以上です。次の報告を待っています』


 接続が切れた。


 水晶板の光が消える。部屋が、また暗くなった。


 左手に、木彫りの魚がまだある。


 リュシアはそれを見た。鱗のない、目のない、口だけが開いた小さな魚。尾びれの欠けたところが、親指にまだ触れている。


 引き出しを開けたまま、水晶板を布に包み直す。包んで、引き出しの奥に戻す。


 その手前に、木彫りの魚を置いた。


 引き出しを閉める。


 暗い箱の中に、二つのものが並んでいる。ヴァレンの道具と、砦の子どもからの贈り物。どちらも冷たい。どちらも、手の中に残る重さがある。でも、重さの種類が違う。水晶板は均一な重さだ。どこを持っても同じ感触がする。木彫りの魚は、尾びれの方が軽くて、口の方が重い。偏りがある。偏りがあるのは、人の手で彫ったからだ。


 リュシアは椅子に座ったまま、閉めた引き出しをしばらく見ていた。


 窓の外で、北の風が一度だけ鳴った。


 明日の朝、シュアラが新しい帳簿を開く。


 それを知っているのは、今のところリュシアだけだ。知っていて、黙っている。黙っていることの重さが、今日は昨日より少しだけ変わっている。


 何が変わったのかは、まだ分からない。


 ただ、今日の中庭で、子どもたちが走っていった背中を思い出した。パンの山を数えに行った足音。


「もっと出して」と言った声。石畳を数えて「ずるい!」と叫んだ声。あの声が、計算棟の数字とは違う種類の数だった。


 足の裏が、まだ少し痛い。石畳の硬さが残っている。


 残っていることが、少しだけ——嫌ではなかった。


 ランプの火を消す。


 部屋が暗くなった。


 手の中には、もう何も残っていない。


 それでも親指の腹には、尾びれの欠けた角だけが、まだ薄く残っている気がした。


 その感触ごと、少しだけ軽かった。

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