第三十六話 最後の練習かもしれないけれど、特別なことはしません
試合前最後の日曜日。
もしかすると、この日がセシリアとカリナに拳闘を教える最後の日になるかもしれない日。
それでも、俺たちはいつも通り、例の秘密の丘にやってきた。天気は快晴。草の匂いが鼻をくすぐり、やわらかな陽光が大地を包む。
いつもと同じ時間、いつもと同じ場所、でもちょっとだけ違う気持ちで、俺たち3人は練習を始めた。
今日は特別なメニューは何もない。
なぜって?
いやだって、一週間後が試合本番だし。
いま無理してケガでもしたら、まじでシャレにならん。
今までの練習で教えるべきことはすべて教えた。あとは微調整。いままで積み重ねてきたことの最終チェック。
まずはセシリア。
セシリアには、常に相手の近くにいながら、相手の攻撃をもらわずに自分の攻撃を当てるスタイルを教えた。左右に細かく動いて相手の攻撃をパリングしたり、すれすれでかわしたりしながら、こちらの攻撃を入れる。持ち前の反射神経と敏捷性を活かしたスタイルだ。
基本戦術は、相手のパンチをいなしながら、ぐるりと背後に回ってキドニーブローをぶち込むこと。内臓を直撃する一撃必殺のパンチ。
前回まではこれ一本だったが、今回はさらに戦術を足した。背後に完全に回り込めなかったときのために、アンダージイヤー──耳の下あたりを狙ったフック──や、ラビットパンチ──首の後ろを叩くパンチ──を教えた。これでセシリアの攻撃パターンは格段に増えた。
次にカリナ。
こちらは井上尚弥のような、華麗なボクサーファイタースタイルだ。細かくステップイン・アウトを繰り返して、常に相手との距離を変化させながら、自分の攻撃だけを当てる。
カリナに仕込んだのは、やや遠めの間合いから繰り出す飛び込みストレート。カリナはこのパンチのスピードとタイミングが絶妙。ほぼノーモーションで打てるので、初見の相手は避けるのも困難だろう。
このストレートから、ワン・ツーへつなげる連打コンボが、今回の彼女の勝ちパターンだ。
練習は粛々と進み、特にトラブルもなく終了した。
練習が終わって、荷物をまとめながらのこと。
「コウタ先生、今日もありがとう……」
セシリアが、今にも泣きそうな笑顔で言ってきた。ああ、やばい、こっちが泣きそう。
「そんな顔するなよ。 来週からは毎日一緒に練習できるさ」
そう、セシリアが次の試合に勝ち、俺が農奴から解放されれば、来週からは毎日一緒に練習ができる。
「ちょっと、あんまり無責任なことは言わないでよ」
と、すかさずカリナに怒られる。さすが常識人ポジション。
「無責任じゃないさ。セシリアは本当に強くなった。もちろんカリナもね」
2人の顔を見ながら、俺は胸を張ってそう言った。
「だから大丈夫。来週は2人とも勝つさ!」
そうやって2人を励ますと、2人の顔から少し固さがとれた気がした。
そうして、この日最後の練習が終わった。空には、明るく澄んだ夕陽が2人の背を照らしていた。
さあ──いよいよ決戦の日が近づいてきた。




