第50話 まず武器を置くところから
戦争が終わって、およそ一年半。厳しい冬の寒さがようやく和らぎ、王都の風に春の柔らかな匂いが混じり始めた頃。
王都の外れにある旧停戦交渉所、通称『停戦館』の入り口には、新しく彫られた木製の看板が掛けられていた。
『復興院・帰還者平和適応室』
かつてカイルたち四人の英雄を社会復帰させるために作られた特務機関は、その役目を終え、より開かれた常設の部署へと生まれ変わっていた。
十二年続いた戦争の後遺症は、四英雄だけのものではない。戦場から帰還して平和な日常に馴染めない元兵士たち。そして、自治協定が結ばれた旧魔王領から王都へ移住してきて、人間の文化に戸惑う魔族の商人や元兵士たち。
ここは今、種族や過去の陣営を問わず、戦場から『平和』という未知の領域へと足を踏み入れた者たち双方が、最初のステップを踏み出すための小さな窓口となっていた。
「……おはようございます、レグさん」
事務室に入ると、マヤ実務官がすでにデスクに向かい、書類の山と格闘していた。
「おはよう。相変わらず朝が早いな、マヤ」
「ええ。この窓口の基礎予算が一般会計へ移ったので、その事務手続きが山積みなのです。ラザル部長も、新制度の定着に向けて財務部と連日やり合っているようですね」
マヤは眼鏡の位置を直し、ふっと表情を和らげた。
「そういえば、昨日カイル様から手紙が届きましたよ。救助訓練校の第一期生が、無事に基礎訓練を終えたそうです。……ただ、教官としての指導に熱が入りすぎて、訓練用の障害物を作り込みすぎ、撤去にも一日かかってしまったとぼやいていました」
「今度は作る方で苦労してるのか。ティナの魔導設備局からも、新しい配管ルートの図面チェックを頼まれてる。バルドの職人ライセンスも順調に普及しているし、エステルの治療師学校には来季から実習の受講希望が増えて、講師を追加で募集するらしい」
俺は、黒板に張られた彼らの近況報告を見つめて笑った。
彼らはもう、俺がスケジュールを管理し、後ろから先回りして障害物をどけてやる必要などない。時には失敗し、周囲に迷惑をかけ、始末書を書きながらも、自分の選んだ道の上を自分の足でしっかりと歩いている。
「さて、と」
俺は事務室から厨房へと移動し、いつもの白いエプロンを身につけた。
今日は、月に一度、彼ら四人がこの停戦館に集まって食事をする日だ。
俺は朝早くから市場へ出向き、彼らの好物を両手いっぱいに買い込んできていた。カイルが好きな厚切りの肉、ティナが好む甘い果実のソース、バルドのための新鮮な根菜、エステルが喜ぶハーブの効いた茶葉。
それらを調理台に並べ、包丁を握る。
かつて、俺が彼らに飯を作っていたのは、彼らの体調を管理し、空腹時の判断の荒さを予測するための『勇者対策』の一環だった。
自分が役に立っていることを証明しなければ、ここにいる資格がないと怯えていたからだ。
だが、今の俺は違う。
先週の休日は、自分で決めた通り、適応室に顔を出さずに一日中街をあてもなく散歩してみた。途中で美味そうなパン屋を見つけて買い食いをし、公園のベンチで昼寝をした。
誰の役にも立たない、何の目的もない空白の時間。
最初は落ち着かなかったが、慣れてくると、悪くないものだと思えるようになってきた。平和な世界には、ただ息をしているだけで許される時間が確かに存在しているのだ。
だから今の俺は、ただの友人として、彼らの喜ぶ顔が見たいから飯を作っている。
「今日は、肉を少し多めに焼いてやるか」
俺が鼻歌交じりに玉ねぎを刻み始めた、その時だった。
玄関で、何か硬いものがぶつかる音がした。
「……おい。ここが、帰還者の窓口か」
厨房から顔を出すと、若い男が戸口で立ち止まっていた。背中の大剣が、扉の上枠につかえている。
「少しかがんでください。そうです、そのまま」
マヤの案内で入ってきた男は、部屋の四隅を順に見た。荷物の紐が肩へ食い込み、外套には乾いた泥がついている。
「辺境の討伐隊から紹介を受けた方ですね。どうぞ、そちらへ」
マヤが椅子を示すと、男は首を振った。
「背中を、窓に向けたくない」
「では壁際の椅子へ。入口も見えます」
男は椅子を動かしかけ、大剣の柄を卓の端へぶつけた。
ガタン、と大きな音がする。
彼の手が反射的に柄へ伸び、刃がわずかに鞘から出た。
俺は厨房の敷居で止まった。
こういう時、相手より速く動ける腕はない。相手が自分で手を離せるよう、まず距離を取る。
「今のは、剣の柄が机に当たった音だ。怪我はないか」
男は机を見て、ようやく自分の手元を見た。
「……ない」
「よかった。俺はレグ・オルフェン。ここの適応係だ」
「魔族、なのか」
「ああ。元は向こう側にいた。ここでは相談を受ける仕事をしている。別の担当を希望するなら、それも言ってくれ」
男はマヤを見てから、俺へ目を戻した。
「いや……紹介状に、名前はあった」
マヤが書類を差し出そうとしたので、俺は受け取って、まだ閉じたまま机の端へ置いた。
読まなくていい資料ではない。ただ、本人より先に、それを喋らせる必要はなかった。
「あんたの名前を聞いていいか」
「ガッシュだ」
「ガッシュ。今日は、どうしたい」
男は眉を寄せた。
「竜を倒した話なら、もう何度もした。兵舎でも、帰りの町でも。だが、仕事の口を聞くと、次はどの魔獣を倒すかと言われる」
言葉が途切れた。
俺は待った。続きを推測して埋める癖は、まだ抜けない。黙っているために、エプロンの端を指で折った。
「……少し、ほかのことがしたい。何ができるかは、知らん」
「わかった。今日はそれを、ゆっくり話そう」
窓の外で、子供たちが通り過ぎた。
ガッシュはその声に一度肩を強張らせたが、剣を抜き直しはしなかった。
「座っても、いいのか」
「もちろんだ。ただ、そのままだと椅子の背に剣が当たる。武器掛けは、あんたの席から見えるここにある」
俺は壁の低い掛け具を指した。バルドの工房が、丈夫なものに取り替えたばかりだ。
「俺が預かるか、自分で置くか。どちらがいい」
「自分で置く」
「なら――まず、その武器を置くところから始めよう」
ガッシュは留め具を外し、大剣を両手で下ろした。
椅子へ腰を落とすと、長い息が漏れた。
マヤが湯を取りに立ち、俺は相談用の紙を一枚出した。名前の下には、まだ何も書かなかった。
厨房の鍋が、ことりと鳴った。
夕方には、四人が来る。カイルがパンを買い、エステルが茶葉を持ってくると言っていた。ティナの到着は会議次第で、バルドは新しい椅子を一脚運ぶそうだ。
俺の手元にあるのは、その連絡だけだ。
誰が何を話すかまでは、もう決めていない。
「……いい匂いがするな」
ガッシュが言った。
「ああ。飯の仕込み中だ」
俺は湯気の立つカップを、彼の届く場所へ置いた。
「話の前に、少し休むか」
彼は剣の置き場所を一度確かめ、それから頷いた。




