第49話 それぞれの平和
未曾有の広域災害『灰潮』が王都を襲ってから、およそひと月が経過した。
秋も深まり、王都の大通りには冷たく乾いた風が吹き抜けている。復旧作業はほぼ完了し、市民たちはすっかり元の生活のリズムを取り戻していた。
そんなある日の午前中。
復興院の本部にある、英雄事業部長ラザル・フェルンの執務室に、俺とマヤ実務官、そして勇者カイル・レインの三人が顔を揃えていた。
「……そうか。本当に、受けないのだな」
ラザルは、机の上に置かれた重厚な羊皮紙の役職案を見つめながら、少しだけ残念そうに溜め息をついた。
それは夏、彼がカイルに打診し、カイルが「今は決められない」と保留にしていた『常設・災害治安最高指揮官』の最終的な打診書だった。就任は、まだ決まっていない。
「ああ。ラザル部長には待たせてしまって申し訳なかったが、俺の答えは決まった。その役職は、正式に辞退させてもらう」
カイルは、真っ直ぐにラザルの目を見て告げた。
「俺はもう、最前線で全部を背負って戦うための総大将にはならない。災害が起きた時、俺一人の力でみんなを助けようとする組織は、いつか必ず破綻するからな」
「では、君はこれからどうするつもりだ。英雄としての看板を下ろした後の人生を、どう使う気かね?」
「俺がやりたいのは、戦うための隊を率いることじゃない。……自分がいなくても回る、全員がちゃんと自分の足で生きて帰って来られる隊を作ることだ」
カイルは迷いのない声で言った。
「だから俺は、新設される『王国救助訓練校』の専任教官になる。前線に出る回数は減るだろうが、現場の指揮と、後進の育成に俺の経験のすべてを注ぎ込むつもりだ」
それは、灰潮の最前線で彼自身が仲間と連携し、全員で生還するという希望を叶えたからこそ出た、心からの選択だった。
ラザルはカイルの顔をしばらく見つめた後、ふっと口元を緩めた。
「……まったく。君たち四英雄は、どいつもこいつも、復興院が用意した一番見栄えの良い椅子には座ってくれないのだな。広報部がまた泣くぞ」
「悪いな。でも、俺たち自身が納得して選んだ仕事が、結果的に一番この国のためになるってことは、この間の灰潮で証明しただろ?」
「違いない。……分かった、カイル君。訓練校での君の働きに期待している」
ラザルが力強く頷き、カイルと固い握手を交わした。
俺は一歩下がった場所で、その光景を静かに見届けていた。
午後。停戦館の事務室に戻った俺は、壁に掛けられた黒板の予定表を眺めていた。
そこには、四英雄それぞれの新しい進路と、日々のスケジュールが書き込まれている。
カイルは救助訓練校の専任教官。
エステルは、王立治療師学校に新設された連携実習の講師となり、同時に第二診療所の顧問として一般治療師たちの指導にあたっている。
バルドはガラン親方の木工所で修復工房の責任者となり、始まったばかりの『職人育成の認証制度』では、熟練職人や検査員の補助にも回っている。自分の作品にも、当然検査が入る。
ティナは都市魔導設備局の主任設計士に就任し、彼女が考案したインフラの分散網を王都全域、ひいては地方都市へと広げる計画に奔走している。
彼らはそれぞれ、魔法で敵を吹き飛ばしたり、剣で斬り伏せたりするのとは違う、「戦うこと以外の英雄性」をこの平和な世界で証明してみせた。
そして、社会の中に自分だけの確かな役割と、地に足の着いた居場所を見つけたのだ。
「……見事にバラバラだな」
俺が黒板を見つめながら呟くと、隣で書類を整理していたマヤ実務官が、クスリと笑った。
「ええ。もう彼らが『四人揃って魔王を倒したパーティー』として、同じ場所に留まる理由はありませんから」
「そうだな」
春、この『特別平和適応室』が始まったばかりの頃。俺は、彼らがパーティーを解散し、バラバラになることを「適応の失敗」だと無意識に恐れていた。英雄はいつまでも仲間と共にあり、輝かしい一つの象徴でなければならないと、勝手に枠にはめていたのだ。
だが今は違う。
彼らがそれぞれの足で別の道を歩き出すことこそが、真の平和適応なのだ。
「これで、特別平和適応室の当初の目的は、ほぼ達成されたと言っていいでしょうね」
マヤ実務官が、少しだけ寂しそうに、けれど誇らしげに微笑んだ。
「……そうだな。俺たちの『勇者対策』も、ようやく終わりが見えてきたってわけだ」
その日の夜。
久しぶりに、カイル、エステル、バルド、ティナの四人が停戦館の食堂に顔を揃えた。
それぞれが自分の職場で夕方まで働き、私服姿で集まってくる。俺は腕によりをかけて、彼らの好物をふんだんに使った山盛りの料理をテーブルに並べた。
「聞いてよ、今日の設備局の会議! 古い頭の役人たちが、私の新しい魔導管の設計図を見て『予算が』とか『前例が』とかうるさくて! こっちも数式を三枚追加してやったわ!」
「それ、説明会で誰もわからなかったやつか。技師長も連れていけばよかったんじゃないか」
「ティナさん、相手の言い分も一度は聞いてあげないと。……私も今日、新しい生徒たちに基礎治癒の手順を教えるのに、少し手間取ってしまいましたが」
「教えるというのは難しいものだ。私も今日、若い職人にノミの角度を指導していて、つい自分で削り直してしまった。親方に『手を出すな』と怒られたよ」
食卓は、彼らの新しい職場での苦労話や愚痴で大いに盛り上がっていた。
相変わらず騒がしいやり取りだが、以前のような、戦場の癖が暴発するピリピリとした危うさはどこにもない。誰もが自分の明日の仕事に責任を持ち、平和な日常の悩みを抱える、普通の大人たちの顔をしていた。
夕食が終盤に差し掛かった頃。
ふと、ティナが空になったグラスを見つめながら、ぽつりと切り出した。
「……私たち、もう毎日この停戦館に集まることはなくなるのよね」
その言葉に、食堂の空気が少しだけ静まった。
彼らの生活拠点は完全にそれぞれの職場周辺へと移りつつある。適応室での訓練も終わり、ここに通う義務も理由も、もうないのだ。
「なんだ、ティナ。寂しいのか?」
カイルが意地悪く笑うと、ティナは「なっ、そんなわけないでしょ! ただの事実確認よ!」と顔を赤くしてそっぽを向いた。
「だが、事実だ」
バルドが真面目な顔で頷く。
「我々はそれぞれの道を行く。共に戦った日々は遠くなり、こうして食卓を囲む時間も失われていくのだろうな」
エステルも少し寂しそうに伏し目がちになった。
だが、カイルは自分のグラスをテーブルの中央にトンと置いた。
「俺たちは、パーティーを解散する。だけど、別に不仲になったわけでも、縁を切るわけでもないだろ?」
カイルは三人の顔を見回し、そして厨房の入り口で腕を組んでいた俺を見た。
「月に一回。……いや、忙しければ二か月に一回でもいい。俺たち四人と、レグと、マヤ実務官。ここで集まって、飯を食うことにしようぜ」
「月一の、食事会ですか?」
エステルが顔を上げる。
「ああ。仕事の愚痴を言いに来るだけでもいい。ただ顔を合わせて、生存確認して、笑って帰る。……そういう『帰って来られる場所』が一つくらいあったって、罰は当たらないだろ」
カイルの提案に、ティナの顔がパッと明るくなった。
「……悪くないわね。設備局の連中には話せないオタクな魔導理論を、思う存分語れる場所は残しておきたいし」
「異存はない。私も、親方の愚痴を聞いてもらえる場は必要だ」
「ふふっ。では、カレンダーに予定を書き込んでおかないといけませんね」
三人が次々と賛同し、カイルが俺に向かってニヤリと笑った。
「そういうわけで、レグ。次の飯を頼めるか。忙しければ俺たちで作るし、店でもいい」
それは、適応室の担当官に対する命令ではなく、気心の知れた友人への依頼だった。
「……勝手な奴らだ」
俺は呆れたように肩をすくめ、そして短く頷いた。
「了解した。香辛料をたっぷりと仕入れて、待っていてやる」
夜遅く。四人がそれぞれの帰路についた後。
静まり返った事務室で、俺は一人、自分のデスクに向かっていた。
机の上には、来月分の新しい『適応室・予定表』の束が置かれている。
だが、その予定表にはもう、四英雄たちの分刻みのスケジュールを書き込む必要はない。彼らの欄はすでに、彼ら自身が管理するべきものとして、俺の手を離れている。
俺は、一番下にある『レグ・オルフェン』と書かれた自分自身の予定欄を見つめた。
最初の面談の時、俺はこの欄に「勇者対策」や「彼らの生活調整」以外のことを、何一つ書けなかった。
誰かの役に立つこと、他人の行動を分析して最適解を出すこと。その専門家としての役割を果たしていなければ、俺は自分の存在を許すことができなかったのだ。
「……」
俺はペンを取り、真っ白な来月の予定表の、週末の枠の一つにペン先を下ろした。
そして、ゆっくりと文字を書き込む。
『休み』
たった二文字。
どこへ行くか、何をするかは決まっていない。ただ、誰の役にも立たない、何の目的もない空白の時間を、初めて自分のために設定したのだ。
「……ふっ」
書き終えた文字を見て、俺は自然と笑みをこぼしていた。
役割がなくても、俺はここにいていい。彼らが俺を頼ってくれるように、俺もまた、何者でもない一人の人間として、この平和な世界を生きていけばいいのだ。
窓の外から、秋の夜の涼しい風が吹き込んでくる。
俺はペンを置いた。空欄を埋める仕事は、今日はここまでにした。




