第5話 聖女様は断れない
「……おい。あれは、何の騒ぎだ?」
王都の大通りを歩いていた俺は、広場にできている長蛇の列を見て足を止めた。
パンの特売日か、それとも人気劇団の公演でもやっているのか。列は広場をぐるりと半周し、数百人規模にまで膨れ上がっている。
隣を歩いていたマヤ実務官が、書類の束から顔を上げて眉をひそめた。
「列の先頭……見覚えのある修道服ですね」
人だかりの中心を覗き込み、俺は足を速めた。
「エステルか。……嫌な予感しかしない」
聖女エステル・リーネ。
神の加護を受け、死者蘇生以外のあらゆる傷病を癒やすとされる、世界最高峰の治癒術師。
彼女は今、広場の石段に腰を下ろし、目の前に並んだ市民に対して次々と治癒魔法を施していた。
「さあ、次の方。どこが痛みますか?」
エステルが慈愛に満ちた笑みを浮かべ、両手をかざす。淡い黄金色の光が市民の体を包み込むと、市民は「おおっ!」と歓声を上げた。
「すげえ! 昨日の深酒でガンガン痛んでた頭が、一瞬でスッキリしたぞ!」
「聖女様、万歳!」
二日酔いの男が嬉々として立ち去る。
次に入れ替わりで座ったのは、身なりの良いふくよかな商人だった。
「聖女様、実は最近、肩こりが酷くてですね。帳簿をつけるのが辛くて……」
「お辛かったですね。神の癒やしを」
エステルが再び全霊の治癒魔法を放つ。商人は「肩が羽のように軽い!」と叫んでスキップしながら帰っていった。
「……おい」
俺は広場に響く歓声をよそに、顔をしかめた。
「あいつ、二日酔いや肩こりに対して『大治癒』を使っているのか?」
「そのようですね」
マヤ実務官が淡々と答える。
「ここ数日、王都の裏通りで『聖女様が無料で奇跡を施してくれる』という噂が流れていました。どうやら、本当だったようですね」
戦場において、エステルの治癒は絶対的な生命線だった。ちぎれかけたカイルの腕を繋ぎ、毒に侵されたバルドの血液を浄化し、幾度となく英雄たちを死の淵から引きずり戻してきた。
だが、その『奇跡』は無尽蔵ではない。術者の体力と精神力、魔力を激しく消耗する。本来、軽症に使うようなものではないのだ。
列の中には、新しい靴で靴擦れを起こした娘や、庭仕事で腰を痛めた老婆まで並んでいる。
エステルは一人ひとりに丁寧に微笑みかけ、全力の治癒を施している。しかし、遠目からでもわかるほど、彼女の顔色は土気色に染まり、額には脂汗が浮かんでいた。
「次の方……どうぞ……」
声を出すのも辛そうに、エステルが手を伸ばした瞬間。
彼女の体がふらりと傾き、石段へ崩れ落ちそうになった。
「そこまでだ!」
俺は人混みを強引にかき分け、エステルの腕を掴んで引き起こした。
「レ、レグさん……? どうしてここに」
「通りかかったら、倒れる寸前のお前が見えたんだよ。皆さん、少し待ってくれ。まず治療する側に休憩が要る」
「ええっ!? せっかく二時間も並んだのに!」
「二時間待ったのに悪い。別に診られる人を呼ぶから、そこへ座ってくれ」
マヤ実務官が近くの衛兵へ薬師の応援を頼む間に、俺は息も絶え絶えになっているエステルを広場の隅へと引っ張っていった。
「離してください……私は、まだ治せます……」
「これ以上奇跡を使えば、お前自身の命が削られる。鏡を見てみろ、幽鬼みたいな顔だぞ」
「でも……痛がっている人たちが、私を頼って並んでいるんです。見捨てるわけには……」
エステルは悲痛な顔で、まだ自分を待っている列を見た。
「薬師が診られる傷まで、お前一人で引き受ける必要はないだろう」
「軽傷だろうと重傷だろうと、苦しんでいることに変わりはありません! 私には治せる力があるのに、それを出し惜しみして、目の前の苦痛を放置するなんて……そんなこと、私にはできません」
彼女の目には、強烈な罪悪感が浮かんでいた。
治せるのに、治さない。その選択が、彼女にとっては耐え難い苦痛なのだ。
俺の頭に、敵軍時代の『対勇者行動記録』の一節が浮かんだ。
「エステル。断った後のことが怖いんだろう。頼まれたまま治している方が、お前には楽なんだ」
「……え?」
エステルが目を丸くする。俺は構わずに、戦場で書き記した分析結果を突きつけた。
「俺の資料にもある。お前は目の前で頼まれると、残った力を数えなくなる。だから限界を予測できる。今も同じだ」
言い終えた瞬間、周囲の空気が凍りついたように冷たくなった。
エステルはうつむき、震える両手を強く握りしめていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳からは、いつもの穏やかな慈愛が完全に消え失せていた。
代わりにそこにあったのは、氷のように冷たく、鋭い怒りだ。
「……あなたは」
エステルの声は、地を這うように低かった。
「あなたは、そうやっていつも、人の心の中をデータとして切り刻んで、わかったような気になっているんですね」
「事実を言ったまでだ」
「事実だからといって、他人の心に土足で踏み込んでいい理由にはなりません!」
エステルが声を荒げた。普段の彼女からは想像もつかない激しい怒気だ。
「限界を見抜いたら、その人の気持ちまで分かるんですか。……休めと言われるのは分かります。でも、楽だから治していると決めつけないでください」
彼女の拒絶の言葉に、俺は一瞬言葉に詰まった。
事実を提示し、合理的な翻訳をしたつもりだった。だが、彼女が求めていたのは『自分を止めてくれる正論』ではなく、彼女の抱える『痛み』への理解だったのかもしれない。
「……そこまでです。二人とも」
険悪になった空気を断ち切るように、マヤ実務官が間に割って入った。
彼女の背後には、いつの間にか王都の一般治療院から呼び集められたらしい、数人の薬師たちの姿があった。
「エステル様。レグさんの言い方は最悪ですが、彼が危惧している結論は正しい。善意だけでは、人は救えません」
マヤはエステルの目を真っ直ぐに見据えた。
「あなたが全ての軽症者を自分で抱え込んで倒れれば、本当に奇跡が必要な死にかけの急患が来たとき、誰がその人を救うのですか?」
「それは……」
「これから、この広場に『受付』を設置します」
マヤは手際よく薬師たちに指示を出し、木箱を並べて簡易的なトリアージ(選別)の窓口を作り始めた。
「打撲、擦り傷、二日酔い、肩こり。命に別状のない患者は、全て一般の薬師に回します。エステル様は、薬師たちの手に負えない重傷者のみを担当してください。それが『制度』というものです」
エステルは、呆然とマヤの構築していく仕組みを見ていた。
マヤは、今いる人は薬師が診ること、後から来た人には受付札を渡すことを一人ずつ説明した。靴擦れの娘は座れる木箱を受け取り、ようやく強張った肩を下ろした。
受付制が機能し始めると、エステルの前からはあっという間に行列が消えた。
彼女は石段に座ったまま、ポツンと取り残された。
「これで、あなたが倒れることはありません。納得していただけましたか?」
マヤの言葉に、エステルは小さく頷いた。
「……はい。頭では、わかります。私一人では回らないことも、仕組みが必要なことも」
だが、その声はどこか虚ろだった。
その時。
「うわぁぁぁん!」
受付の近くで、走り回っていた子どもが転び、膝を擦りむいて泣き出した。
血が滲んでいる。
エステルが、ビクッと肩を震わせ、反射的に立ち上がろうとした。
「私が……」
手が前に出る。治癒の光が宿りかける。
だが、俺は無言で彼女の肩を押し留めた。
代わりに駆け寄ったのは、一般の薬師だった。
「痛かったねえ。大丈夫、ただの擦り傷だよ。ちょっとしみるけど、薬を塗っておくからね」
薬師が手際よく消毒薬を塗り、布の絆創膏を貼る。
子どもは痛みに少し顔をしかめたが、すぐに泣き止み、鼻をすすりながら言った。
「ありがとう、おじちゃん」
「おう。もう走るんじゃないぞ」
子どもは母親に手を引かれ、笑顔で帰っていった。
そこに、奇跡は必要なかった。
エステルは、自分の手が空を切ったまま、その光景をじっと見つめていた。
自分が身を削らなくても、問題は解決する。
自分が治してあげられないことへの強い罪悪感は、彼女の顔にまだ色濃く残っている。
しかし、彼女は伸ばしかけた手をゆっくりと下ろし、ぎゅっと握りしめた。
「……そうですね。私がいなくても、治る傷はあるんですね」
それは、彼女にとって痛みを伴う『理解』だった。
俺は、うつむくエステルの横顔を見ながら、自分の中に嫌な後味が広がっていくのを感じていた。
彼女の行動を予測し、弱点を指摘し、論破して無力化した。
それは、敵軍の『勇者対策官』としてなら完璧な仕事だ。だが、平和な世界で『生活を支援する係』としては、本当にそれが正解だったのか。
分かったつもりで先回りし、相手の心に踏み込む。
治さないことへの罪悪感に苦しむ彼女に、俺の理屈はただの暴力だったのではないか。
「……さっきは、勝手に決めつけた。悪かった」
エステルはすぐには返事をしなかった。俺は空になった水差しを持ち上げた。
「帰りの買い物、荷物くらいは持つ。卵でも何でも」
俺が不器用に声をかけると、エステルは少しだけ驚いた顔をした後、小さく、本当に小さく吹き出した。
「……卵なんて、自分で買えます。私はカイルさんほど生活能力が低くありませんから」
彼女の言葉に棘は残っていたが、先ほどの氷のような拒絶は少しだけ和らいでいた。
帰り道、子どもの泣き声にエステルはまた足を止めた。薬師がついていると確認するまで、その手は胸元で握られたままだった。
俺は先に歩かず、卵の籠を持って待った。




