第4話 大魔導士、風呂を沸かす
「レグさん! 魔力測定器の針が振り切れています! 発生源は西棟の浴室です!」
「くそっ、やっぱりか! あの馬鹿、風呂を沸かすと言って薪を取りに行かなかった時点で嫌な予感はしていたんだ!」
夕暮れ時の停戦館。俺とマヤ実務官は、軋む木の廊下を全速力で駆け抜けていた。
西棟に近づくにつれ、空気がピリピリと静電気を帯び、肌が粟立つような重圧を感じる。凄まじい魔力の奔流だ。
バンッ! と浴室の扉を蹴り開けると、そこはすでに真っ赤な魔力の光に満たされていた。
石造りの大きな浴槽の前。銀色の髪を三つ編みにした小柄な女性――大魔導士ティナ・ウェルドが、真剣な表情で両手を前に突き出し、何事かを詠唱している真っ最中だった。
「術式固定。熱量変換効率、最大。座標指定完了。第一から第三までの安全装置を解除――」
「待て待て待て! ティナ、ストップだ!」
俺は叫びながら浴室へ飛び込んだ。
「お前が今展開しているそれ、どう見ても城塞都市の正門を焼き払うための『第六階位・攻城用熱術式』だろうが!」
俺の悲鳴に近い声に、ティナは不思議そうに振り返った。
「ええ、そうよ? これが一番早くお湯が沸くもの」
「浴槽がもたない! ティナ、止めろ!」
ティナは浴槽の縁に走ったひびを見て、顔色を変えた。両手を返し、放ちかけた熱を浴槽の上へ逃がす。
マヤが壁の非常用結界札を叩いた。薄い膜が入口を覆い、俺たちは廊下へ転がり出た。
ズドォォォォンッ!!
耳を劈く爆音とともに、浴槽の水が間接的な熱量だけで一瞬にして沸騰し、白い蒸気を天井へ噴き上げた。
結界の向こう側で白煙が渦巻き、視界が完全に奪われる。
やがて煙が晴れると、そこには空っぽになり底がひび割れた浴槽と、蒸気逃がしの窓ごと外れ、夕焼け空が覗く浴室の天井板があった。
「…………」
「…………」
俺とマヤは、ぽっかりと空いた天井の穴を無言で見上げた。
「あら」
最後に廊下へ出てきたティナが、濡れた三つ編みを握った。
「……湯の量だけ計算して、浴槽の耐熱を入れ忘れたわ。二人とも、火傷は?」
「ない。入れる風呂も、ない」
三十分後。
煤だらけになった浴室の掃除を終え、俺たちは停戦館の厨房に移動していた。
「納得がいかないわ。私は説明書を読まずに勝手な改造をしたわけじゃないもの」
椅子に座らされたティナが、腕を組んで唇を尖らせている。
「薪を割って、火を起こして、ちまちまとお湯が沸くのを待つなんて非効率極まりないわ。私の術式を使えば、コンマ二秒で目標温度に到達するのよ。これほど合理的な手段はないはずだわ」
「だが、結果として風呂は壊れ、屋根が飛んだ」
俺は敵軍時代の『対勇者行動記録』のページを頭の中でめくった。
大魔導士ティナ・ウェルド。戦場において彼女が最も重要視していたのは、常に『火力・速度・効率』の三点だった。
いかに広範囲の敵を、いかに最速で、いかに効率よく殲滅するか。彼女の魔法は常に最大出力に最適化されており、その圧倒的な殲滅力によって魔王軍の部隊は幾度となく灰にされてきた。
「いいか、ティナ。戦場において、最大火力と最速の展開速度が正義だったことは否定しない」
俺は、彼女が一番理解しやすい『効率』という言葉を使って翻訳を試みた。
「だが、日常における『最適化』は違う。日常の最適化とは、最大火力を出すことじゃない。『小さな問題に合わせて、必要十分な出力だけを出す』ことだ。風呂を沸かすのに、城門を吹き飛ばす火力は無駄(非効率)だろう?」
「必要十分……」
ティナの目が、少しだけ興味深そうに細められた。理屈屋の彼女にとって、論理的な欠陥を指摘されるのはプライドに関わるらしい。
「言葉で言うのは簡単ね。なら、その『必要十分』とやらを証明してみせてよ」
「いいだろう。マヤ実務官」
「はい」
マヤは厨房の隅から小さな鉄の手鍋を取り出し、そこに水を張ってティナの前の石の流し台に置いた。
「ティナ様への課題です。別名『最小出力試験』。この手鍋の水を、鍋を壊さずに、人が飲める適温の白湯にしてください」
「馬鹿にしているの? そんなの簡単よ」
ティナは鼻で笑い、手鍋に向かって指先を向けた。
「熱量計算、対象の質量一キログラム。目標温度は四十五度。術式展開――」
彼女の指先に、小さな、本当に小さな魔力の火花が灯った。
常に最大火力をぶっ放してきた彼女にとって、魔力をここまで絞るというのは未体験の領域だ。ぷるぷると指先が震えている。
チョロリ、と静電気が走るような音がして、術式が終了した。
「……できたわ」
俺は手鍋の水に小指を入れた。
「ぬるい。外の気温と大して変わらないぞ。弱めすぎだ」
「くっ……! こんなに魔力を抑えたことないから、感覚がズレたのよ。もう一回!」
ティナは悔しそうに顔を顰め、再び指先を向けた。
「さっきの出力じゃ足りない。なら、少しだけ魔力流のバルブを開いて……」
ボワッ!
手鍋の底が一瞬でオレンジ色に発光したかと思うと、ジュゥゥゥッ! という激しい音とともに、水が沸騰するより早く『鉄の鍋そのもの』がドロドロに溶け落ちて流し台へ赤い筋を残した。ティナが息を呑み、すぐに冷却術式を重ねる。
「……あ」
「鍋の融点を超えているぞ。やり直しだ」
俺が新しい鍋(二個目)を置くと、ティナは言い訳をせず、ぶつぶつと検証を始めた。
「……水への熱伝導より先に、容器が限界を超えたのね。出力は足りていたけれど、術式の収束率が高すぎたんだわ。対象の質量と容器の熱伝導率の計算式を修正して、魔力の拡散速度を調整すれば……」
失敗したからといって、彼女は諦めない。むしろ、未知の難題にぶつかったオタクのように、目を輝かせて計算にのめり込んでいく。
それから一時間後。
最初の二度の失敗の後は、中庭の石台に場所を移した。残りは温度計を見て途中で止める。冷たい水、熱すぎる水、惜しくもぬるい水。
そして九回目。
汗だくになったティナが、慎重に、まるで爆弾の処理でもするように魔力を注ぎ込み――ふうっ、と息を吐いて術式を解除した。
手鍋からは、穏やかで心地よい湯気が立ち上っている。
マヤ実務官が離れた場所から温度計を読んだ。
「……四十五度。完璧な適温です。被害もありません」
「やったわ!」
ティナは両手を突き上げて歓喜の声を上げた。魔王軍の幹部を吹き飛ばした時よりも、はるかに嬉しそうな顔だ。
「鍋一杯の白湯に、ずいぶんと大苦戦だったな」
俺が白湯を椀に分けると、ティナはテーブルに突っ伏してぜえぜえと息を吐いた。
「……信じられないわ。弱く撃つって、こんなに難しいのね」
「能力を抑え込まれるのは不満か?」
「いいえ」
ティナは自分の手のひらを見つめ、面白そうに口角を上げた。
「大雑把に火力を出すより、はるかに神経を使うわ。でも……魔力流の繊細な調整、これはこれでパズルみたいで面白いわね」
彼女は、魔法の力を奪われたわけではない。『精密さ』という、戦場にはなかった全く別の難易度と面白さを発見したのだ。
白湯を飲んでから厨房へ戻ると、ティナは壁沿いの古い水道管を見上げた。
「ねえ、レグ」
「なんだ」
「この建物の給水設備、すごく非効率な構造をしているわよね。水圧もまばらだし、管の継ぎ目から魔力が漏れているわ。もし私が、この配管ネットワーク全体に、さっきみたいな緻密な制御術式を組み込んで最適化できたら……」
彼女の瞳には、破壊ではなく、生活のためのインフラに向けられた新しい知的好奇心が燃えていた。
「やめておけ。お前が配管をいじったら、今度は王都中のトイレが逆流して爆発しかねない。インフラに手を出すのは、せめて百発百中で適温のお湯を作れるようになってからにしろ」
「あら、すぐに百発百中にしてあげるわ」
ティナは不敵に笑い、さっそく同じ鍋に水を汲み直した。
「次も同じ温度になったら、今日は終わりだ」
「ならなかったら?」
「俺が薪を割る。お前が湯を見てろ」
ティナは今度こそ、安全装置を一つも外さなかった。




