第3話 剣聖の謝罪は決闘ではない
勇者の買い物騒動から数日後。俺たち特別平和適応室のメンバーは、王都の東区にある閑静な住宅街へと馬車を走らせていた。
事の始まりは、朝一番で飛び込んできた一件の通報だ。
『剣聖様が、隣の家の庭を真っ二つにしました』
報告書を読み上げたマヤ実務官の、氷のように冷たい声が今も耳に残っている。俺は馬車に揺られながら、頭痛を堪えるようにこめかみを揉んだ。
「……真っ二つにしたって、何をだ? 家ごとか?」
「詳細までは。ですが、死者は出ていないとのことです」
「死者が出なかったことを喜ぶべきか、それ以外が全部壊れたことを嘆くべきか迷うな」
現場であるバルド・グレンの借家に到着すると、すでに人だかりができていた。
バルドは凱旋後、王都の騎士団舎に入ることを拒否し、「静かな場所がいい」とこのこぢんまりとした一軒家を借りて暮らしている。
だが、その『静かな暮らし』は、現在進行形で崩壊していた。
「どうしてくれるんだ! わしの、わしの大切な『深紅の薔薇』がぁっ!」
隣の家の庭先で、白髪の老人が顔を真っ赤にして叫んでいた。
その足元には、無残に両断された大きな素焼きの植木鉢と、それを乗せていたであろう立派な木製の棚が転がっていた。
見事なものだ。鉢も、中の土も、木製の棚も、まるで定規で線を引いたかのように、斜め四十五度の角度でスパッと一刀両断されている。切り口は鉋をかけたように滑らかだ。
そして、その惨状の中心で、無精髭を生やした長身の男――剣聖バルドが、腕を組んで目を閉じ、石像のように直立不動で立っていた。
「状況報告」
俺が群衆をかき分けて進み出ると、バルドはゆっくりと目を開けた。
「レグか。……いや、言い訳はすまい。私の未熟ゆえの失態だ」
「未熟はお前の社会性のことだ。何を切った?」
「塀の向こうから、突然、黒い影が私の間合いへ飛び込んできたのだ。足音も気配もなく、完全に殺気を消した一撃離脱の軌道。私は反射的に鯉口を切り、抜き打ちで迎撃した」
「……で?」
「ただの、黒い野良猫だった」
バルドは重々しく首を振った。
「猫だと気づいて、刃を外した。猫は無傷だ。だが、逸らした先の鉢と棚までは守れなかった。完全なる私の失態だ」
十二年間、魔王軍の凶悪な魔獣たちとコンマ一秒の死線を潜り抜けてきた男だ。急所を狙って飛びかかってくる影があれば、脳が思考するよりも先に体が「切断」を完了している。
猫を斬らずに済ませた反応の速さが、せめてもの救いだった。
だが、そんな事情は一般市民である隣の老人には関係ない。
「言い訳など聞きたくない! この棚は死んだ婆さんが大切にしていた物で……! いくら剣聖様だろうと、許されることと許されないことがあるぞ!」
老人が杖を震わせながら怒鳴りつける。
バルドは深く息を吐き、静かに老人の正面に向き直った。
「老翁の言う通りだ。他者の領分を不当に侵した罪、いかなる処罰も受けよう。少し待っていろ」
そう言うと、バルドはくるりと背を向け、自分の借家の中へと戻っていった。
「お、おい! 逃げる気か!」
老人が叫ぶが、数秒後、バルドは両手に『何か』を持って戻ってきた。
それは、二本の木剣だった。
バルドは老人の前に進み出ると、恭しく膝をつき、二本のうちの一本、少し短めの木剣を両手で高く掲げ、老人へ向けて差し出した。
「受け取ってくれ」
「……は? な、なんだこれは?」
「謝罪の儀だ」
バルドは極めて真剣な、死地に赴く武士のような表情で言った。
「私は今、真剣を置き、刃のない木剣を持った。私を恨むなら、この木剣で私の頭を叩き割ってくれて構わない。抵抗はしない。……さもなくば、お互いに木剣を持ち、決闘によってこの賠償の形を決めよう。あなたが勝てば、私の命、好きにするがいい」
しんと、住宅街が静まり返った。
老人は差し出された木剣と、大真面目な顔で「命を好きにしろ」と言い放つ剣聖を交互に見比べ、そして――ヒュッ、と喉の奥で悲鳴を上げて腰を抜かした。
「ひ、ひぃぃぃっ! け、決闘ぉ!?」
「待て待て待て待て!」
俺は慌てて二人の間に割って入り、バルドの手から木剣をひったくった。
「バルド、お前は何を考えている! 一般市民に決闘を申し込んでどうする気だ!」
「申し込んではいない。これは譲歩だ」
バルドは立ち上がり、心外だというように眉を寄せた。
「私は一方的に害を与えた。ゆえに、相手に『私を罰する権利』を渡したのだ。私の故郷では、過ちを犯した者は自ら武器を差し出し、相手の裁きを受けるのが最大の敬意であり、謝罪だ」
俺は敵軍時代の『対勇者行動記録』を思い出した。
剣聖バルド・グレン。彼は北方の武術修験派の出身だ。あの地では、言葉による謝罪は『口先だけの逃げ』とみなされる。己の身体と命を差し出し、剣によってのみ意思を確認する文化なのだ。
戦場においては、その潔さは敵味方問わず敬意を集めた。だが、ここは平和な王都である。
「いいか、バルド。お前の文化は否定しないが、ここではルールが違う」
俺は木剣を地面に放り投げ、真っ二つになった植木鉢と棚を指差した。
「じいさんが求めているのは、お前の頭をかち割ることでも、命をもらうことでもない。平和な世界での謝罪とは、勝敗を決めることじゃないんだ」
「ならば、どうしろというのだ。私はどうやってこの罪を償えばいい」
「相手が困っている状態を『元に戻す』んだよ。壊したものがあるなら、直す。それがここでの謝罪だ」
バルドは、真っ二つになった木製の棚をじっと見つめた。
「……状態を、戻す。壊したものを、直す……」
彼はその言葉を反芻するように呟き、やがて一つ頷いた。
「わかった。ならば、私がこの手で直そう」
「お? 大工仕事の経験があるのか?」
「ない。だが、物の重心と構造を見切る目には自信がある」
老人が「使える板だけは残せ」と念を押すと、バルドは慎重に天板を脇へよけた。それから小刀を持ち出し、折れた脚の前へ座り込んだ。
「斜めに切断されたのが問題だ。ならば、切断面を平らに削り直し、接合すればいい」
彼は真剣な眼差しで棚の脚を見つめ、小刀を滑らせた。
シュッ、と小気味よい音がして、木材が薄く削ぎ落とされる。流石は剣聖、刃物を扱う手つきは芸術的だ。
しかし。
「……む。右の脚を削りすぎた。傾いている。左の脚を削って高さを合わせよう」
シュッ。
「……いかん、今度は手前が浮いている。奥の脚を削ろう」
シュッ。シュッ。
「……おかしい。また右が長くなった」
シュッ。シュッ。シュッ。
三分後。
そこには、元の三分の一ほどに短くなった四本の脚が転がっていた。しかも、まだ長さが揃っていない。天板に手をつける前に、老人が小刀を取り上げた。
「…………」
バルドは、空になった手を見つめたまま沈黙した。
「……お前なぁ」
俺は呆れてため息をついた。
「お前の技術は、世界のどんな硬いものでも『壊す』ためだけのものだ。いくら精密に刃物を動かせても、削り落とすことしかできないなら、それはただ均等に破壊を続けているだけだぞ」
「……面目ない。私の剣は、何かを残すようにはできていないらしい」
バルドが深く肩を落としたとき、後ろからマヤ実務官の声がした。
「とりあえず、専門家を呼んできました。賠償費用は、バルド様の功労手当から天引きしておきます」
彼女の後ろには、木箱を抱えた初老の木工職人が立っていた。
職人は、庭の惨状と、落ち込んでいる巨大な剣聖を見て、ビクッと肩を震わせた。
「え、ええと……この棚の修理、ですかい?」
「ああ。手間をかける」
バルドが立ち上がって頭を下げると、職人は「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げたが、すぐにプロの顔に戻って残骸を確認し始めた。
「脚は取り替えだ。だが天板は裏から継げる。爺さん、奥さんのつけたこの塗りは残そう。……おい、あんた。馬車から材木を下ろすのを手伝ってくれ」
「承知した」
バルドは職人の指示に従い、太い材木を軽々と何本も担ぎ出してきた。
それからの一時間、俺たちはバルドが職人の『助手』として働く姿を見学することになった。
「そこ、板がズレないようにしっかり押さえてろ。力を入れすぎるなよ、木が凹む」
「了解した」
職人が寸法を測り、墨で線を引き、ノコギリを入れる。
バルドは、職人の手元を食い入るように見つめていた。
職人の使うノコギリや鉋は、対象を殺すための刃物ではない。
木材の癖を読み、必要な長さを残し、別の木材とぴったり噛み合わせるための形を作り出す。それは、対象を『無力化する』ためのバルドの剣技とは、まったく逆のベクトルの技術だった。
「……見事な間合いだ。木が全く泣いていない」
バルドがぽつりと呟く。
「当たり前だ。木ってのはな、切って終わりじゃねえ。こうやって組み合わせて、誰かが使う形に残してやるのが俺たちの仕事だ」
職人が鉋で表面を滑らかに仕上げながら笑う。
バルドは、自分のごつごつとした大きな手と、職人の足元に落ちた鉋屑を交互に見つめていた。
彼の瞳に、戦場にはなかった静かな光が宿っているのを、俺は見逃さなかった。
「……どうやら、ただの決闘騒ぎで終わらずには済んだようですね」
マヤ実務官が、修復されていく棚を見ながら小さく言った。
「ああ。壊すことしか知らなかった男が、『残すための手つき』に興味を持った。大きな前進だ」
継ぎ目の残る棚に、老人が植え替えた薔薇を乗せた。バルドはその横で、割った鉢の破片を最後の一つまで拾った。
老人はまだ少しバルドを怖がっていたが、それでも「ま、まあ、立派な棚になったから、今回は許してやろう」と呟いた。
バルドは深く一礼し、そして、職人の道具箱を片付けるのを、自分から進んで手伝い始めたのだった。




