第2話 勇者は列に並べない
「右翼、間隔が空きすぎている! 隣との距離を半歩詰めろ! 前方からの突撃に備え、盾を持たない者は後方へ下がれ!」
王都の中央市場に、よく通るバリトンボイスが響き渡っていた。
声の主は、先ほど暴走荷車から市場を救った勇者カイル・レイン。彼の手には剣ではなく、空っぽの買い物カゴが握られている。
しかし、その鋭い眼光は完全に戦場の指揮官のそれだった。
「おい、そこの荷馬車! その位置は死角が多すぎる、敵の伏兵を招くぞ! もっと壁際に寄せて防御陣形を取れ!」
「は、はいぃぃっ! 勇者様ぁ!」
市場の商人や買い物客たちは、世界を救った大英雄の気迫に完全に呑まれ、言われるがままに統率された動きを見せていた。
結果として何が起きたか。
八百屋の前に並んでいた主婦たちは、見事なファランクス(密集陣形)を形成して大根の安売りを待ち構え、肉屋の店主は敵の包囲を警戒するように背中を壁にぴったりとくっつけて硬直している。市場全体が、一つの巨大な軍隊のように再編されつつあった。
俺は大根の値札と隊列を見比べた。今なら一本買うにも、突撃命令が要りそうだった。
「……おい、マヤ実務官。あいつは何をしているんだ?」
「交通整理、のつもりなのでしょうか。しかし、これでは誰も買い物ができません」
隣に立つマヤ実務官も、無表情のまま眼鏡のブリッジを押し上げた。
暴走荷車の騒動を収めた後、俺たちはカイルの『買い物訓練』を再開した。彼ら英雄が平和な社会に復帰するためには、まず『自分で今日の飯を買う』という基本中の基本から始めなければならないからだ。
だが、カイルにとって人混みは『敵の陣形』であり、特売を知らせる店員の大声は『奇襲の警報』でしかなかった。彼は善意と責任感から、無防備な一般市民を『安全な配置』につけようと孤軍奮闘しているのだ。
十二年間、最前線で「自分が動かなければ仲間が死ぬ」という極限状態を生き抜いてきた男だ。視野に入るすべての人間を庇護対象とみなし、完璧な生存ルートを構築しようとする。
戦場では一〇〇点の行動だ。だが、ここは特売日の市場である。日常においては〇点どころか、ただの営業妨害だった。
「勇者様! 素晴らしい陣形ですが、これでは私の店に誰も近づけません!」
果物屋の親父が涙目で訴えている。カイルが「果物屋の前は開けた地形で狙撃されやすい」と判断し、客をバリケードの陰に避難させてしまったからだ。
「待機しろ! 安全が確保されるまで動くのは危険だ!」
カイルは真剣な顔で親父を制止している。
このままでは、王都の経済活動が勇者の善意によって物理的に停止する。
俺は人混みをかき分け、密集陣形を組まされている主婦たちの間を抜けてカイルの背後に回った。
「カイル。状況報告」
「レグか! 見ての通りだ、この区域は防御が薄すぎる。いま遊撃隊を編成して哨戒させようと――」
「却下だ。今すぐその主婦たちの密集陣形を解け。大根を買うのに盾の壁は必要ない」
俺の言葉に、カイルは怪訝な顔をした。
「だが、あの呼び込みの声を聞かなかったか? あんな大声を出すのは、敵の注意を惹きつける陽動か、味方への突撃の合図だ。周囲の安全を確保しなければ――」
「あれは『大根が安いぞ』という陽動だ。お前の財布の紐に対するな」
俺はカイルの正面に立ち、彼の両肩を軽く叩いた。
「いいか、よく聞け。俺が魔王軍の勇者対策官だった頃、お前たちを分断するために使った手の一つが『偽の脅威をばらまく』ことだった。お前は責任感が強すぎるあまり、目につくすべての問題に対処しようとする。だから部隊の進軍が遅れる」
「……む。確かに、八年前の雪山ではお前の偽装部隊に釣られて、本陣を手薄にしてしまったことがあったな」
「そうだ。そして今、お前は同じミスをしている」
俺はカイルの目を見据え、戦術言語を使って彼に語りかけた。
「現在の作戦目標は何だ? 市場の防衛か? 市民の統率か?」
「いや……」
カイルは手元の空っぽの買い物カゴを見つめた。
「今日の昼飯を買うことだ」
「そうだ。お前の作戦目標は『自分の目的だけを決めて、それを達成する』ことだ。他の人間の配置や、周囲の地形、店員の叫び声はどうでもいい。お前はただ、自分が食いたいものを見つけ、それと引き換えに硬貨を渡せばいい。それが平和な世界での『買い物』という作戦だ」
カイルはハッとしたように顔を上げた。
周囲を見渡せば、彼が守ろうとしていた主婦たちは、早く大根を買わせろと言わんばかりの不満げな視線を向けている。果物屋の親父は泣きそうだ。
自分が危険から守っているつもりが、実は全員の目的を妨害していたのだと、彼はようやく気づいた。
「……すまない。俺はまた、勝手に戦場を作っていたらしい」
カイルが深く頭を下げると、市場の緊張が一気に解けた。主婦たちは陣形を崩して八百屋へ突撃し、肉屋はホッと息をついて肉を切り始めた。
「よし。それじゃあ、作戦を再開しよう。何が食いたい?」
俺が尋ねると、カイルはパン屋の屋台の前に立ち、腕を組んで深刻な顔で唸り始めた。
「……携帯保存食の黒パンはないのか?」
「ここは王都の中央市場だぞ。なんでわざわざ、石のように硬くて味のしない戦場の携行食を食おうとするんだ」
「だが、あれが一番腹持ちがいいし、腐らない。いつ長期戦になっても対応できる」
「お前は今日の昼過ぎから長期戦をする予定があるのか?」
「いや……ない、が」
カイルは並べられた焼きたてのパンを前に、完全にフリーズしてしまった。
戦場では支給されたものを食うか、現地調達するしかなかった。彼には「無数にある選択肢の中から、自分の好みだけで選ぶ」という経験が絶望的に不足している。
俺は焦げ目のついたチーズパンを指しかけた。
「お前なら、たぶん――」
「たぶん?」
「……いや。甘いのと塩気のあるのなら、どっちがいい?」
「塩気、かな」
「では、そこの店主に聞け。俺は売り物を全部食ったわけじゃない」
カイルは戦場へ援軍を頼むような声で、店主に尋ねた。
「塩気があって、今日食べるのに向くものはあるだろうか」
「ほとんど全部だねえ。チーズはどうだい?」
差し出された小さな試食を受け取る。カイルは一口噛み、もう一度棚を見た。
「この、端がよく焼けているのを二つ。……いや、一つはあの干し肉入りにしてくれ」
「はいよ」
代金を払って袋を受け取った彼は、しばらく口元を緩めていた。
「二つ選んでもいいんだな」
「食えればな」
「お前が指しかけたのも、これだったろう。なぜ好物を知っている?」
「野営跡の食べ残しと、補給品の減り方。十年分もあれば傾向は分かる」
カイルは袋を胸に引き寄せた。
「敵だった頃より、今の方が少し怖いぞ」
「安心しろ。代金まで俺が決めたわけじゃない」
「それは店主が決めるものだろう」
買い物の常識で勇者に訂正された。就職初日としては、悪くない。
俺たちは自分で選んだ昼飯を持って、市場を後にした。
俺たちの拠点となるのは、王都の外れにある『停戦館』と呼ばれる古びた洋館だ。
もともとは魔王軍との停戦交渉に使われていた場所だが、現在は復興院の管轄となり、俺たち『特別平和適応室』の事務室兼、英雄たちの昼間のたまり場として使われている。
英雄たちは凱旋後、王都内の別々の官舎や借家に住まわされている。彼らが戦友と顔を合わせ、戦場に近い感覚で羽を伸ばせるのは、ここくらいのものだ。
軋む木の扉を開けて中に入ると、エントランスのホールで奇妙な光景が繰り広げられていた。
「……質量、体積、水分含有量から推算される熱量効率は規定値クリア。しかし、この『ふっくら感』を生み出すための余剰空間は、携行時の積載効率を著しく低下させるわね。圧縮の術式をかけてペラペラにした方がいいのかしら」
銀色の髪を三つ編みにした小柄な女性が、机の上に買ってきたらしい食パンを置き、何やら複雑な魔法陣を展開してブツブツと呟いていた。
大魔導士、ティナ・ウェルド。
彼女がパン一つに向かって展開しているのは、どう見ても城壁の強度を測るための攻城用解析魔法だ。パンのカロリー計算に使うような代物ではない。
「ティナ、やめろ。パンを圧縮したらただの硬い小麦粉の板になる。そのまま食え」
俺が止めに入ると、ティナは不満げに唇を尖らせた。
「レグ。だってこれ、空気を運んでいるようなものよ。戦場なら補給の無駄だわ」
「ここは戦場じゃない。空気の食感を味わうための食べ物だ」
ティナが渋々解析魔法を止めたその横で、今度はギチギチと嫌な音が聞こえてきた。
「……甘い。これでは行軍中に中身がこぼれる」
無骨な大剣を背負った長身の男が、紙袋の口を紐で結び直していた。
剣聖、バルド・グレン。
彼が結んでいるのは、ただのパン屋の紙袋だ。しかし、その結び目はどう見ても野営時の馬を繋ぎ止めるための、あるいは捕虜を拘束するための特殊な固結びだった。
「おいバルド。その袋、もう短剣で切り裂かないと二度と開かないぞ」
「構わん。斬れば済むことだ」
バルドは真顔で言い放ち、紙袋に向かって本気で剣の柄に手をかけようとした。
「やめろ! 食卓に置く前に、まず紐をほどく練習をしろ!」
俺は慌ててバルドの手を抑え込んだ。
市場を軍隊にする勇者。
パンを攻城魔法で解析する大魔導士。
紙袋に捕虜拘束用の結び目を施す剣聖。
(あと一人、ここにはいないが、頼まれたら過労死するまでヒールをかけ続ける聖女もいる)
俺は頭を抱え、天井を仰いだ。
彼らは世界を救った最強の英雄だ。だが、平和な世界を生きていくためのスキルは、冗談抜きでゼロだった。
「先は長そうね、レグ・オルフェン」
後ろからついてきたマヤ実務官が、どこか他人事のように呟いた。
「他人事みたいに言うな。あんたが俺をこの仕事に引きずり込んだんだろうが」
カイルは俺にチーズパンを半分くれた。バルドの袋は、まだ開かなかった。




