第1話 処刑ではなく就職
「レグ・オルフェン。あなたには、勇者の生活係になっていただきます」
処刑を覚悟していた俺の前に、雇用契約書が差し出された。
「……首を落とす話じゃないのか?」
「恩赦は決裁済みです。こちらは仕事のお話です」
眼鏡の女性は、戦後復興院のマヤ・セレン実務官と名乗った。
十二年の黒冠戦争が終わって半年。魔王軍の勇者対策官だった俺は、牢の中でも停戦交渉の資料整理に駆り出されていた。その働きが認められたらしい。褒賞が元敵の世話とは、王国もなかなかの性格だ。
「十年も彼らを研究したのでしょう」
「倒すためにな。俺自身は一般兵より弱いぞ」
「結構です。剣で解決できるなら、私たちも困りません」
給料と寝床がある。断っても恩赦は取り消されない。そこだけ確かめて署名した俺は、直ちに中央市場へ連れていかれた。
早くも、給料の額を確認し直したくなった。
活気あふれるはずの市場は、異様な静寂と緊張感に包まれていた。
まるで、巨大な竜が広場の中央に降り立ったかのような、息の詰まるような重圧。
「……おい、あれを見ろ」
俺が指差した先。
市場のど真ん中に、横転しかけた大型の荷車が止まっていた。その前で、白銀の聖剣を構えた男が辺りを睨んでいる。
金糸のような髪、鍛え上げられた長躯。間違いない。勇者カイル・レインだ。
荷車の下敷きになるはずだった子どもは無事だ。車体はすでに石畳へ下ろされ、車輪には商人が楔を噛ませている。カイルが間一髪で割り込み、被害をゼロに抑え込んだのだろう。流石は世界を救った勇者様だ。素晴らしい。拍手喝采だ。
――だが、問題はその後だった。
カイルは空になった荷台の前で、聖剣を構えたまま微動だにしていなかった。
鋭い眼光は周囲をギョロギョロと睨みつけ、その全身からは凄まじい闘気が立ち上っている。
ガシャァン! と、少し離れた屋台から、バランスを崩した木箱が落ちて林檎が転がった。
その瞬間、カイルは子どもと物音の間へ踏み込み、剣を低く構え直した。誰も刃の届くところにはいない。それでも、買い物客は一斉に立ちすくんだ。
「動くなッ!!」
カイルの怒声が市場に轟く。林檎を拾おうとした八百屋の店主が、腰を抜かしてへたり込んだ。
「何をしている……! 勇者様、剣を収めてください! 怪我人は出ていません!」
マヤ実務官が声を張り上げながら歩み寄ろうとする。
「待て、マヤ実務官。近づくな」
俺は彼女の肩を掴んで強く引き留めた。
「なぜですか。このままでは市場の機能が完全に停止します。彼に状況を説明して――」
「説明など耳に入っていない。見ればわかるだろう。あれは『戦闘態勢』じゃない。『防衛殲滅陣形』だ」
「は……?」
俺はため息をつきながら、十年間書き溜め、そして何度も痛い目を見させられた『勇者カイルの行動記録』を脳内で展開した。
「荷車は止まった。だが、次の事故がないとは確認できていない。あいつは味方を守った直後ほど、周りを警戒する癖がある」
「では、衛兵に周囲を確認させます」
「ああ。抜剣させるなよ。警戒する相手を増やしたくない」
マヤはうなずき、近くの衛兵を呼び止めた。
俺は頭を掻きむしった。まったく、初日からなんて仕事だ。
「俺が行く」
「危険です! 戦闘力のないあなたが斬られたら――」
「あいつの思考回路なら誰よりも知っている。殺すために、嫌というほど研究したからな」
俺は両手を高く上げ、武器を持っていないことを示しながら、カイルの視界の端からゆっくりと近づいた。
背後から驚かせるのはまずい。顔と両手が見える位置で、十分な距離を取って止まる。俺の記録が役に立つとしても、今のこいつを見ずに近づくほど命知らずではない。
「そこで止まってくれ! まだ近づくな!」
カイルが俺に気づき、ギリッと聖剣の柄を握りしめた。俺の顔より先に、その背後を確かめている。
ここで「落ち着け」や「剣を下ろせ」といった命令は無意味だ。彼は自分で安全を確信しない限り、絶対に態勢を解かない。
俺の脳内にある記録の第六章、第三項。
『カイル・レインは戦闘直後、三方向の安全確認を終えるまで、いかなる理由があろうとも次の行動へ移行しない』
俺は衛兵と目を合わせた。右の路地から一人、左の裏口から一人。二人とも両手で丸を作っている。見てもいない安全を請け負うわけにはいかない。
俺は立ち止まり、極めて事務的な、報告を行う斥候のような口調で告げた。
「勇者カイル。右方の八百屋、脅威なし。伏兵の兆候ゼロだ」
「……なに?」
カイルの眉がピクリと動いた。
「左方の肉屋、敵影なし。包囲網は形成されていない。そして正面の荷車は――完全に無力化済みだ」
俺はカイルの目を見据え、ゆっくりと、はっきりと告げた。
「第三警戒ラインまでクリア。戦域の安全は確保された」
カイルは俺の指す先を一つずつ見た。車輪の楔まで確かめると、肩が少し下がった。
ここだ。ここしかない。
俺は一歩だけ前に踏み出し、戦場の論理から、日常の論理へと話題を強引に引きずり下ろした。
「……ところで勇者様。今日の『昼飯の買い出し』は、もう終わったのか?」
「えっ……?」
カイルは間の抜けた声を出した。
手の中の聖剣を見て、転がった林檎を見て、そして腰を抜かしている八百屋の店主を見た。
彼の瞳から凄まじい闘気がスッと消え失せ、代わりに、とてつもない気まずさと焦りが浮かび上がった。
「あ、あああ! す、すまない! 俺はただ、荷車が突っ込んできたから……!」
慌てて聖剣を鞘に収め、カイルはペコペコと周囲の住民に頭を下げ始めた。
八百屋の親父が、恐る恐る林檎を拾った。カイルは今度は動かなかった。代わりに「それも、買います」と小声で申し出た。
よし、まず一本、剣が鞘に戻った。
俺が胸を撫で下ろしていると、顔を真っ赤にしたカイルがこちらを振り返った。
「助かった、的確な報告だった。君は騎士団の――」
そこまで言いかけて、カイルの言葉が止まった。
俺の顔をまじまじと見つめ、その目を限界まで見開く。
「……お前」
「やあ、勇者様。相変わらず、三方向の安全確認が終わるまで周囲が見えなくなる癖は治っていないようだな」
俺が皮肉交じりに笑うと、カイルは信じられないものを見るように後ずさった。
「お前……レグ・オルフェンか!? なぜ、魔王軍の勇者対策官がこんなところにいる!?」
無理もない。俺たちは十年間、幾度となく盤上で殺し合いをしてきた仲だ。俺の仕掛けた補給線断ちで、こいつに泥水をすすらせたことは一度や二度じゃない。
俺は肩をすくめ、後ろで控えているマヤ実務官を指差した。
「王国の粋な計らいでね。俺は今日から、お前たち英雄の『平和適応係』に就任したそうだ」
「……は?」
「だから次は剣を置いて、カゴを持ってくれ。大根を買うのに護衛は要らない」
世界を救った最強の勇者は、足元の買い物カゴと俺の顔を交互に見比べながら、心底理解できないというように叫んだ。
「敵だったお前が、なぜ俺の生活係なんだ……!?」
まったく、それは俺が一番聞きたい台詞だった。




