第46話 勇者、退却を命じる
王城地下の防衛司令部。
ティナが魔力圧を空へ逃がし、バルドが東部連絡大橋を死守し、エステルが臨時救護所で命の防波堤となっている間。
俺は作戦卓の上に広げた地図を睨みつけ、極限の緊張感の中で冷や汗を流していた。
避難と救護の形は整った。だが、その時間稼ぎのために、最も危険な最前線で灰潮の波を押し留めている部隊がある。
カイル・レインが指揮を執る、王都守備隊と消防・救助隊の合同部隊――『最終前線』だ。
「レグさん! 第一観測所からのデータです!」
マヤ実務官が、血の気を失った顔で報告書を突き出してきた。
その数値を見た瞬間、俺の全身からスッと温度が消え失せた。
「……カイル! 聞こえるか!」
俺は大型通信鏡をカイルのいる最前線へと繋ぎ、怒鳴りつけた。
『どうした、レグ! こっちはまだ持ち堪えているぞ!』
魔獣の咆哮と、炎の爆ぜる音が響く中。カイルは時計塔の上から部隊に指示を出し続けていた。彼の顔は煤と汗に塗れているが、その瞳には理性の光がしっかりと宿っている。
「ダメだ、お前たちがいる一帯の地下魔力脈が限界を超えた! 灰潮の余波で地盤が完全に緩んでいる。あと十分もしないうちに、その周辺一帯が大規模な崩落を起こして地割れに飲み込まれるぞ! 今すぐ部隊を引かせろ!」
『なんだと!?』
カイルが眼下を見下ろす。すでに石畳のあちこちに不気味な亀裂が入り、地中から青白い魔力の蒸気が噴き出し始めていた。
このままでは、部隊全員が崩落に巻き込まれて生き埋めになる。
「すぐに退却の指示を出せ!」
俺の叫びに、司令部の将軍たちが一斉に色めき立った。
「ま、待て! 今あの部隊が背を向ければ、魔獣の波が雪崩れ込んでくるぞ!」
「勇者を殿に残して、部隊だけ先に引かせる案はどうだ! 全員が同時に動けば、誘導線が切れる!」
参謀の提案が、通信鏡越しに現場へ届いた。総司令官はカイルに退路の状況を確認した。
戦時中であれば。
この王国の、そしてかつての俺たちの常識であれば、それが「正しい戦術」だった。
最も強い駒を捨て石にして、大多数を救う。カイル自身も、これまでの十二年間、そうやって何度も自分だけを死地に残し、仲間を逃がし続けてきたのだ。
『カ、カイル様……!』
現場の救助隊の隊長や、王都守備隊の兵士たちが、悲痛な顔でカイルを見上げた。
部隊は返答を待っていた。何人かが、もう負傷した隊員へ肩を貸している。カイルの返事にかかわらず、全員を下がらせる準備は始まっていた。
「……」
カイルは、眼下に広がる地獄のような光景と、自分を見つめる部下たちの顔を、静かに見渡した。
彼の手が、腰の聖剣の柄に伸びる。
俺は作戦卓を強く握りしめた。
(ダメだ、カイル。お前がそこでまた自己犠牲を選べば、お前の未来はまた白紙に戻る。……自分で決めたはずだ。どうしたいのか、言葉にしろ!)
祈るような俺の視線と、通信鏡越しにカイルの視線が交錯した。
カイルは、剣の柄に触れていた手を、ゆっくりと離した。
そして、大きく息を吸い込み、戦場全体に響き渡る声で宣言した。
『――全軍、退却だ!!』
「なっ……!?」
将軍たちが絶句する。
『だが、俺は一人でここには残らない! 俺の希望は、誰一人見捨てず、全員で一緒に家に帰ることだ! お前たちにも、俺にも、待っている家族や仲間がいるはずだ!』
カイルは時計塔から飛び降り、最前線で盾を構える兵士たちの中心に降り立った。
『聞いてくれ! 俺は神じゃない、一人で全部の敵を抑え切ることはできない。……だから、お前たちの力を貸してくれ! 全員で連携して、少しずつ後ろに下がるんだ!』
それは、英雄からの悲壮な別れの言葉ではなく。
共に生き残るための、対等な人間としての『依頼』だった。
『……カイル様』
救助隊の隊長が、目頭を熱くして立ち上がった。
『おうさ! あんたがいなくても動ける隊を作るんだろ。今日は、あんたも一緒に動け!』
『第三小隊、煙幕弾用意!』
『第五小隊、盾を構えろ! 勇者様を死なせるな!』
絶望に染まっていた部隊に、信じられないほどの活気が蘇った。彼らは「守られるだけの弱者」から「共に帰るための仲間」へと意識を切り替えたのだ。
『エステル! 聞こえるか!』
カイルが走りながら通信魔導具に向かって叫ぶ。
『はい、カイルさん!』
救護所のエステルから、力強い声が返ってきた。
『受け入れは高台の天幕です。倒壊した建物には近づかないで。看護長が搬送先を案内します! ……絶対に、無事に帰ってきてください!』
『ああ、約束する!』
カイルは笑い、部隊全体を見回した。
『第三小隊、煙幕を張れ! 第五小隊は両翼を固めながら後退! 俺は中央で指揮を執る、絶対に隊列を崩すな!』
見事な連携だった。煙幕で魔獣の視界を奪い、誘導灯と盾で進路を区切りながら、巨大なムカデのような隊列が一歩、また一歩と後退していく。
崩壊していく地盤をギリギリで躱しながら、カイルは決して前に出すぎることなく、全体の歩調を合わせて進んでいた。
だが、魔力脈の崩壊は彼らの予測を上回る速度で進行していた。
ズガガガガァァァンッ!!
部隊が退却ルートの半ばまで差し掛かった時、後方から彼らの脇を抜けるように地割れが走り、進行方向の両脇に立つ古い石塔が崩れ落ちた。
『なっ……!?』
土煙が晴れた後、カイルたちの目の前に現れたのは、巨大な瓦礫の山と、それに巻き込まれて絶命した大型魔獣の死骸が絡み合った、完全に塞がれた『壁』だった。
『退路が……塞がれた!』
部隊にパニックが走る。
背後からは灰潮の波と崩落が迫り、目の前は巨大な障害物で塞がれている。このままでは立ち往生し、全員が生き埋めになる。
『……レグ。エステル。そして、みんな聞いてくれ』
その絶望の壁を前にして。
カイルは一度呼吸を整え、障害物の上を見た。
『俺はこれから、あの障害物をぶっ飛ばして、道を作る』
彼は、今までずっと温存していた、腰の聖剣をゆっくりと引き抜いた。
魔王の心臓を貫いたその剣が、圧倒的な光を放ち始める。
『だけど、俺は絶対に生きて戻る。誰かの代わりになる気はない』
カイルは、後ろに控える隊員たちを振り返った。
『だから、道が開いたら隊長の合図で走れ。俺もすぐ合流する。二人、最後尾の人数を数えてくれ。……俺が遅れたら、呼べ!』
『……了解した、隊長!!』
全員の声が一つに重なる。
カイルは通信で、障害物の先に人がいないことを確認した。隊員を左右の石壁の陰へ下がらせ、破片を無人の空き地へ逃がす角度で剣を構える。
かつての彼は、限界を超えるために自分の命や身体を削っていた。だが今は違う。帰る場所があり、共に歩む仲間がいる。
だからこそ、彼は自分の限界を完全にコントロールし、退路を開く一振りに集中できた。走って戻る力まで、使い切るつもりはなかった。
『――道を開けろォォォォッ!!』
カイルの身体強化が全開になり、聖剣から放たれた極太の光の斬撃が、瓦礫と魔獣の死骸の壁を真正面から打ち抜いた。
鼓膜が破れんばかりの轟音と共に、障害物の中央が斜め上へ打ち抜かれ、その先に王都の安全地帯へと続く真っ直ぐな道が切り開かれた。
『行けェェッ!』
カイルの叫びと共に、救助隊と一般兵たちが一斉にその道へと駆け出す。
戦時中であれば、カイルはその光の余韻に乗って、さらに魔獣の群れへと突っ込んでいったはずだ。
だが、彼は違った。
剣を振るい終えた瞬間、彼は迷うことなく聖剣を鞘に納めた。そして、迫り来る魔獣たちに背を向け、開いた道へ全速力で駆け出したのだ。
『待たせたな! 俺も帰るぞ!』
カイルは、自分を信じて走り出していた仲間の隊列の最後尾に合流し、共に肩を並べて走り始めた。
崩落していく地面を間一髪で蹴り飛ばし、彼らは見事に、最終防衛線の内側へと雪崩れ込んだ。
「……最終前線部隊、全員の撤退を確認しました! 防衛壁、閉鎖します!」
オペレーターの絶叫が司令部に響く。
モニター越しに、膝に手をついて荒い息を吐きながらも、誰一人欠けることなく生還した部隊の姿が映し出された。
カイルは隊員たちと笑い合い、力強くハイタッチを交わしている。
「……やりやがった」
俺は、作戦卓の上に両手をつき、深く、深く息を吐き出した。
自分の望みを言い、他人に助けを頼み、全力を使って道を切り開き、そして必ず生きて帰ってくる。
すべてを自分一人で背負い、死に場所を探していた勇者は、もうどこにもいない。
そこにいるのは、誰も犠牲にしない未来を自分の手で選び取った、真の指揮官の姿だった。
司令部内に、安堵と称賛の拍手が広がる中、俺は撤退完了の時刻を書き、次の当番へ通信席を渡した。群れの後尾と魔力圧の観測は、まだ続いている。
カイルの名の横に、青い印を付ける。帰還。
その一語を、書き直す必要はなかった。




