第44話 聖女が倒れない救護所
王城地下の防衛司令部。
俺は作戦卓の前に立ち、複数の通信鏡から送られてくる情報を脳内で処理し続けていた。
ティナが第一防衛線で致死的な魔力圧を空へ逃がしたことで、外縁の魔導施設が連鎖的に破裂する危険はひとまず退いた。だが、背後の魔力圧から死に物狂いで逃げてくる五万の魔獣の波が消えたわけではない。
「避難区域の第二ポイント、間もなく魔獣の先頭集団が接触します!」
オペレーターの悲痛な報告が響く。
最前線から離れた高台の、臨時救護所。中庭の天幕を受付に、点検を済ませた石造りの倉庫を処置室に使っている。俺は通信鏡の一つをそこへ繋ぎ、内部の状況を注視していた。
『処置に使う物資、次の箱をお願いします! 搬送票はこちらへ!』
『重傷者は奥のベッドへ! 赤い布を巻いてください!』
救護所の中は騒がしかった。聞き返す声も、足りない物資を呼ぶ声もある。それでも、誰が返事をするかは決まっていた。
灰潮から逃れようとして転倒した市民や、魔獣の牽制にあたって負傷した救助隊員たちが次々と運び込まれてくるが、彼らを迎える一般治療師たちの動きに迷いはない。
合同講習で搬送と引き継ぎを練習した治療師たちは、自分たちの手に負える軽中症の患者を診察し、必要な処置をした上で、療養用の区画へ送り出していた。
「……見事なもんだ」
かつてのエステルなら。街頭の無料治療や、診療所での初日のように、運び込まれてくるすべての患者に駆け寄り、一人で魔法をかけ続け、今頃とっくに魔力切れで倒れていただろう。
だが今、彼女は救護所の中心に立ち、一切の治癒魔法を使っていない。
現場の配置は看護長が取り仕切り、エステルは重い患者の判断に加わっていた。外周の結界装置が揺らいだ時だけ魔力を補い、短い休息を挟んで次を待つ。
治療の合間、看護長が差し出した水をエステルが飲んだ。それから、次の患者の記録へ目を戻す。
『レグ、聞こえるか!』
別の通信鏡から、風切り音と共にカイルの怒鳴り声が飛び込んできた。
「聞こえている。避難誘導の状況はどうだ」
『魔獣の先頭が予想より速い! 第三避難路の市民の足が間に合わないぞ!』
カイルは今、魔獣の群れに自ら飛び込んで剣を振るうことはせず、全体を俯瞰できる高い時計塔の上に陣取り、各部隊の動きを統括する『指揮官』に徹していた。
「待て。今、自治領の元魔獣管理官からのデータと照合する。……カイル、第三避難路に迫っているのは甲殻系の突進種だ。急な方向転換が苦手らしい。現地でも、音に反応して向きを変えた報告がある」
『了解した! 第三小隊、市民は南の高台へ! 第五小隊、群れの東側で誘導具を鳴らせ。西の無人の河原を開けておく。向きが変わらなければ、柵を置いてすぐ下がれ!』
カイルのよく通る声が、通信の魔導具を通じて各部隊の隊長たちへ飛ぶ。
『誘導灯、点灯! 音を合わせろ!』
守備隊が光と音で進路を区切る。何頭かは足を止めたが、柵の開いた方へ先頭が回り、後続も人のいない西の河原へ流れ始めた。救助隊はその間に搬送を進めた。
その隙に、遅れていた市民の集団が無事に避難ルートを駆け抜けていく。
初めての救助訓練で、俺と一緒に連携を乱した勇者は、今、一歩引いた場所から全体を動かし、市民の遅れに合わせて退路を作り直していた。
「……よし。このペースなら、あと数時間で避難区域の市民はすべて……」
俺が胸を撫で下ろしかけた、その時だった。
ズズズズズッ……!!
王城の地下にまで、不気味な地鳴りが響き渡った。
「なんだ!?」
「報告! 魔力脈の急激な変動による、局地的な直下型地震です!」
灰潮という大災害の余波が、物理的な揺れとなって王都を襲ったのだ。
俺は慌てて、エステルのいる臨時救護所の通信鏡に目を向けた。
『キャアアアアッ!』
通信鏡の向こうで、悲鳴が上がる。
点検では保っていた倉庫の一角が、地面の沈下とともに傾いた。壁がずれ、屋根を支える梁が落ちた。
『危ないっ!』
エステルは外周の装置への補助を切り、崩れた一角へ結界を移した。落下は途中で止まったが、先に落ちた瓦礫の下に、三人が取り残されていた。
下敷きになったのは、治療中だった患者と、そばにいた若い治療師たちだ。
「状況を報告しろ!」
土煙が晴れた救護所の中は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
『三人が下敷きです! 重傷、こちらの治癒では追いつきません! 搬出班をお願いします!』
治療師が、傷を押さえながら叫んだ。隣の者が搬出班へ通路を空ける。
彼らが学んだ『基礎的な治癒魔法』では、到底命を繋ぎ止められない致命的な損傷。それが、同時に三人も発生してしまった。
『だ、だめだ……魔力が足りない! 塞がらない!』
『聖女様! 助けてください、聖女様ぁっ!』
パニックに陥った治療師たちが、すがるようにエステルを振り返る。
その絶望的な状況の中で。
エステル・リーネは、ただ一人、恐ろしいほどに冷静だった。
『……下がってください。そこから先は、私の役目です』
エステルは、真っ白な治療着の裾を翻し、血溜まりの広がる瓦礫の前へと進み出た。
『看護長、受け入れを隣の救護所へ。ここにいる方は天幕へ移してください。梁は私が支えています。下に残った方を、外へ』
搬出班が最後の一人を引き出す。エステルは確認を取って結界を解き、崩れた倉庫から天幕へ移った。
彼女は魔力を全く使わなかったわけではない。それでも、軽中症の処置を各班に任せ、交代して休んだから、今この三人に使える力が残っていた。
『二人はこちらへ。三人目は、私の右にお願いします』
他の治療師が状態を伝える。エステルは一人ずつ目を合わせた。
『神よ。今ここに、恩寵のすべてを』
エステルが、両手を瓦礫の下敷きになった者たちにかざす。
直後、彼女の小さな身体から、直視できないほどの純白の光が爆発的に溢れ出した。
『大治癒!!』
それは、彼女が使う時を選んだ、戦時級の治癒だった。
光が血肉を包み込むと、潰れた臓器が瞬時に再生し、砕けた骨が元の位置へと結合していく。致命傷を負っていた三人の顔に血の気が戻り、穏やかな呼吸が再開された。
ほんの数秒間の出来事。
奇跡の光が収まった後、周囲の治療師たちは呆然とへたり込んでいた。
俺は、通信鏡越しにエステルの姿を注視した。
かつてなら。これほどの大治癒を複数の重傷者に同時に施せば、魔力を使い果たした彼女はそのまま顔面蒼白になって床に倒れ込んでいたはずだ。
だが。
『……はぁっ、ふぅっ……』
少し肩で息をしながらも。エステルは、しっかりと両足で地面に立ち続けていた。
『命に関わる傷は塞ぎました。まだ動かさないでください。経過の確認と、その後の処置をお願いします』
エステルは倒れることなく、周囲の治療師たちに力強く指示を飛ばした。
『私は少し休みます。次の判断は、看護長と当番の治療師へ。必要になったら、呼んでください』
『は、はいっ!』
我に返った治療師たちが、一斉に処置を再開する。
俺は、口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。
自分の限界を知り、どこまでを他者に頼るかという『境界線』を明確に引いたからこそ。
彼女は、「ここで全力を使う」と自分自身の意志で選び取り、立てなくなる前に引き継ぐことも、自分で選べたのだ。
聖女の自己犠牲ではなく、チームとしての医療。彼女の作り上げた野戦病院は、見事に機能していた。
「……エステルとカイルの方は、これで持ち堪える」
俺は作戦卓の地図に目を落とし、王都に繋がる最も太い避難路――『東部連絡大橋』に赤ペンで印をつけた。
魔獣の群れの最大の波が、間もなくその橋に到達しようとしている。
避難民が渡り切るまで、あの橋を絶対に落とすわけにはいかない。
「バルド。橋の状況を確認したい。今、話せるか」
俺は、最後の通信鏡を、激流が渦巻く巨大な橋の現場へと切り替えた。




