第40話 平和には金がかかる
停戦館に適応室ができて、ほぼ半年。窓を開けると、庭の落ち葉が机まで飛び込む季節になった。
長机の片側には、四英雄とマヤ実務官。対面には、分厚い資料を睨みつける復興院の英雄事業部長、ラザル・フェルンが座っている。
「……なるほど。これが君たちの出した答えか」
ラザルは、机の中央に置かれた『次期半年・適応計画書』と、それに付随するマヤ作成の『英雄収益段階縮小プラン』を指でトントンと叩いた。
「英雄本人の肖像利用や密着取材については、事前同意制を徹底する。それに伴う収益の減少分は、この『五年案』に沿って、別の財源で補填していく……本気でこれが通ると思っているのかね、マヤ君」
「はい。十分な実現可能性があると踏んでおります」
マヤ実務官は、冷や汗一つかかずに、理路整然と答えた。
俺は長机から少し離れた壁際に立ち、そのやり取りを黙って聞いていた。
前回の話し合いでカイルたちと約束した通り、俺はもう彼らの交渉に勝手に口を出したり、先回りして答えを出したりはしない。今日は資料の出典と試算条件を説明する役を、四人から頼まれている。交渉の返事まで引き受けたわけではない。
「ラザル部長。彼らが提出した代替財源の案は、決して夢物語ではありません」
マヤ実務官が、新しい書類をラザルの前に滑らせた。
「給水局の試験結果をもとに、整備費と将来の更新費を先に計上しました。料金への還元も差し引いて、残る節約分の一部を基金へ移します。全区画が同じ効率になるとは見込んでいません」
マヤは幅を持たせた三通りの試算を示した。
「家具の認証制度から入るのは、検査と講習の費用を引いた後の小さな収入です。これだけで学校を何校も支えられるとは考えていません」
「医療と救助の育成費は、増えているな」
「はい。事故や被害を減らせる可能性はありますが、それを今日の返済金には数えません。まず教える人を雇う支出が必要です」
ラザルは、最も悪い見通しの欄に指を置いた。
「この場合、二年目に穴が開く」
「一般会計からの段階的な移管と、急がない事業の着工順変更が必要です。既存の救国債は返済条件の調整も相談したい。基金の収入だけで、全ては埋まりません」
「どの事業を待たせるかで、揉めるぞ」
「はい。それを英雄の皆様だけに決めさせないため、予算として審議していただきたいんです」
ラザルはしばらく、紙の同じ箇所を見ていた。
「……確かに、数字上の辻褄は合っている」
やがて、ラザルは重い息を吐き出して書類を置いた。
「この案は、復興の負担を予算全体へ広げるものだな。私の部署だけでは決められない。だが、上に出す根拠にはなる」
「そうです」
カイルが、真っ直ぐにラザルの目を見て頷いた。
「俺たちは、もう誰かの代わりに全部を背負うような総大将にはならない。……だが、別のやり方で、この国の平和を支えることはできるはずだ」
その確かな覚悟を前に、ラザルはしばらく目を閉じ、やがてゆっくりと頷いた。
「……よかろう。この五年案を軸に、復興院の上層部と財務部を説得してみる。だが、時間がかかるぞ。他の部門にも、既に引き受けた支出があるからな」
「ありがとうございます、ラザル部長」
マヤ実務官が深く頭を下げ、カイルたちもホッと安堵の息を漏らした。
数日後。王都の中央広場で、復興院と治安維持局の合同による、大規模な『市民避難訓練』が実施された。
俺は建物の屋上から、その様子を観察していた。
「こちら第四小隊! 広場東側の避難誘導、完了しました!」
「よし、よくやった。次は負傷者役の搬送に移れ。絶対に走るな、周りのペースに合わせろ!」
広場で汗だくになりながら市民を誘導しているのは、白い制服を着たセイルたち『公共英雄候補生』の若者たちだった。
そして、その彼らに対し、メガホンを持って的確な指示を飛ばしているのは、教官役として参加しているカイルだ。
以前の彼なら、新米たちの遅い動きに痺れを切らし、「俺に任せろ!」と一人で全員を担ぎ上げて走っていただろう。だが今の彼は、隊長たちの報告を待っている。若者たちが自らの足で動き、判断するのをじっと待ち、全体がスムーズに流れるように交通整理(指揮)に徹している。
救護テントの方では、エステルが一般の治療師たちを従え、各班の引き継ぎ票を確認し、搬送の優先順位を共有する訓練をしていた。彼女もまた、自分の魔力を一切使わず、仕組みで人を救う訓練に専念している。
戦場を知る旧英雄が、後方から戦術と基礎を支える。
そして平和な時代に作られた新世代の英雄候補生たちが、現場で笑顔を振りまきながら実働を担う。
それぞれの適性を活かした、誰も無理をしていない美しい役割分担。
「……悪くない陣形だ」
訓練が終わり、屋上に上がってきたカイルから「どうだ?」と問われ、俺は素直にそう答えた。
「だろ? まだまだ教えなきゃならないことは山積みだが、セイルたちは見込みがある。俺がいなくても回る立派な隊になるさ」
カイルは、夕日を浴びながら誇らしげに笑った。
制度の改修が進み、次世代への引き継ぎも始まった。彼らの平和適応は、ようやく確かな軌道に乗ったように見えた。
その夜、訓練の片づけが終わる前に、観測所から最初の異常報が届いた。
停戦館の厨房で、明日の仕込みをしていた俺の背後で、バンッ! と勢いよく扉が開かれた。
「レグ!!」
血相を変えたティナが、息を切らして立っていた。
「どうした、ティナ。そんなに慌てて」
「マズいわ……地下の魔力網が、悲鳴を上げてる!」
ティナは、自らの金色の瞳に魔力を集中させながら、王都の床下を睨みつけていた。
「漏水事故や、大停電の時に観測した、あの旧戦場方面からのノイズ……。あれが、過去とは桁違いの揺らぎになって、一気に王都の方向に押し寄せてきてるのよ!」
「なんだと?」
俺は包丁を置き、マヤに資料庫を開けてもらった。
机に広げたのは、軍から公開された地形図と、自治領の元同僚から届いた観測記録だ。封じて預けた黒い野帳ではない。
局地的な揺らぎとして監視を続けていた値が、北から順に跳ね上がっている。前日、観測所を増やしたばかりだった。並行して届いた報告を並べると、揺らぎは一つの帯になっていた。
「……おい。これ、まさか」
俺の背筋に、氷のような悪寒が走った。
時を同じくして、停戦館の窓を大きく開け放ったバルドが、夜の闇に向かって鼻をヒクつかせ、低く、獣のような唸り声を上げた。
「……庭の鳥が、夜なのに飛び立った。川の方から地響きがする」
直後。
王都の夜空を切り裂くように、ウゥゥゥゥッ!! という鼓膜を劈くような警報魔法が鳴り響いた。
それは、魔王軍が健在だった頃にしか鳴らされたことのない、最高レベルの『国家非常事態』を告げる赤銅色の光だった。
「大変です!!」
マヤ実務官が、通信用の魔導鏡を抱えたまま、顔面を蒼白にして事務室から飛び出してきた。
「王都防衛司令部からの、緊急通達です! 旧戦場方面から……数万規模の魔獣の大群が、国境側の旧監視線を越え、王都北方の三つの町へ接近中とのことです!」
「数万だと!?」
カイルが絶句する。
魔王は死に、統率者はもういないはずだ。それだけの数の魔獣が、一斉に人間の領域へ押し寄せてくるなど、戦時中でさえあり得なかった異常事態だ。
これは、局地的な襲撃ではない。
何か、途方もなく巨大な自然のうねり、巨大な災害が、この国を根こそぎ飲み込もうとしている。
平和のための制度改修(五年案)がまとまりかけた、その矢先の出来事。
「……マヤ。司令部の要求はなんだ」
カイルが、低く静かな声で問うた。
彼の顔つきは、昼間、後輩たちを優しく見守っていた教官のそれから、一瞬にして、血の匂いを纏った『戦場の総大将』のそれへと切り替わっていた。
「……国王令による、戦時非常令の発動です」
マヤ実務官は、唇を噛み締めながら、残酷な通達を口にした。
「四英雄の皆様に……かつてと同じ討伐投入のための、緊急招集がかかりました」
ようやく剣を置き、平和な生活の第一歩を踏み出したばかりの彼らに。
世界は再び、その手に血塗られた剣を握れと命令を下したのだ。




