第37話 勇者を殺すために書いた本
事務室の机に、一冊の本と新聞が置かれていた。
『真実の四英雄――敵軍から見た素顔と軌跡』。
刊行を保留したはずの本だった。しかも頁を開けば、削除を求めた作戦記録まで載っている。
「原本を勝手に持ち出したのか」
「原本は軍の保管庫にあります。予算審議の資料として出された、写しからです」
マヤの声はかすれていた。
新聞には、復興院の収益事業を批判する議員の発言と、『英雄像は作られていた』という見出しがある。
「事業への異議を唱えた議員側が、審議資料の一部を記者へ渡したことまでは確認できました。星報社は、修正案で外していた包囲作戦の頁を、審議資料にある作戦記録の全文で戻して刊行した、と回答しています。最初の広報用の写しよりも詳しい版です」
「同意は」
「得ていません。資料の公開と商業利用を同じものとして扱っています。今、ラザル部長が販売の停止を申し入れています」
俺は新聞を伏せた。政治争いの意図をいくら追っても、ここにある本の頁は消えない。
「……あいつらは」
「食堂です。本を持って、あなたを待っています」
俺は重い足取りで事務室を出て、食堂へと向かった。
停戦館の食堂。
いつもなら、誰かが焦がした卵焼きや、入れすぎた香辛料で騒がしい朝の食卓が、今日は水を打ったように静まり返っていた。
カイル、ティナ、エステル、バルドの四人が、それぞれ手元に置かれたその本を、食い入るように見つめている。
俺が足音を立てて入っていくと、四人の視線が一斉にこちらを向いた。
「……レグ」
カイルが、掠れた声で俺を呼んだ。
彼の開いているページには、六年前の『大峡谷の戦い』の記録が記されていた。
『勇者カイルは、味方の危機に際して必ず自身の防御を捨てて突出する。この過剰な自己犠牲を利用し、囮部隊を用いて前線を分断。補給拠点を完全に孤立させ、彼に「補給物資か、仲間の命か」の二者択一を迫る。結果、彼は物資を放棄し、多重罠に飛び込んで重傷を負うと予測される』
事実、六年前に俺が立案したその作戦により、カイルたちは補給拠点を放棄せざるを得なくなった。仲間や民間人の死者こそ出さなかったものの、カイル自身は罠にかかって重傷を負い、三ヶ月もの間、戦線離脱を余儀なくされた。
三か月のことを、カイルが詳しく話したことはない。俺は今、それを聞く前から知ったつもりでいた自分にも気づいた。
「……見事な戦術分析だ。だが、気分の良いものではないな」
バルドが本を閉じ、低く重い声で言った。
ティナも、冷え切った目で俺を見据えている。
「私の魔法の発動ラグまで、ミリ秒単位で計算して隙を作っていたのね。……私たちを、ただの血の通わないデータとして、確実に殺そうとしていたのがよくわかるわ」
俺は、何も言い返せなかった。
弁解の余地はない。俺は魔王軍の軍人として、彼らを殺すために十年間、集められる限りの記録を集めていた。
食卓には朝食が並んでいた。誰も、皿に手を伸ばさなかった。
「……レグさん」
エステルが、震える手でページをめくりながら、静かに口を開いた。
「ここには、『聖女は頼みを断れない。それを利用して負傷兵を偽装し、彼女の魔力枯渇を狙う』と書いてあります」
「……ああ。俺が書いた」
「……」
エステルは目を伏せた。頁の端を押さえる指が震えていた。
俺が言葉を探している間に、彼女は本の後ろを開き、それから前書きへ戻った。
「レグさん。この本の奥付と、出版の経緯についての前書き……おかしな記述があります」
エステルが、鋭い視線を俺に向けた。
「『出版にあたり、適応室の担当官から一部記述の削除要求があったが、我々は真実を伝えるために完全版を……』とあります。レグさん、あなたは……この本が出版されることを、事前に知っていたのですか?」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように縮み上がった。
「えっ?」
カイルが、弾かれたように顔を上げた。ティナとバルドの表情も、驚愕に染まる。
「待てよ、レグ。知っていたのか? 俺たちのこの記録が、本になって世に出ることを……お前はずっと前から知っていて、俺たちに黙っていたのか!?」
カイルが立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音だけが残った。
「……ああ。ひと月以上前にな」
俺は、逃げずに事実を口にした。
「企画書を見て、出版社に刊行を待たせた。作戦の詳細は削らせるつもりだった。好物程度の話なら残していいとも言った。……お前たちに、何も聞かずに」
カイルは本の端を掴んだ。紙が歪み、彼はそれを見て、手を離した。
「なぜだ!!」
カイルの怒号が、食堂の空気をビリビリと震わせた。
「お前が敵だったのは知ってる! 昔のことだって、簡単に何も感じなくなるわけじゃない。……でも、今聞きたいのはそれじゃない。なぜ、この本の話を俺たちに黙っていた!」
「……お前たちを、守るためだ」
俺が絞り出すように言うと、カイルの顔が怒りで歪んだ。
「守るため!? お前は、俺たちをなんだと思っている! 自分で判断する力もない、傷つくからと真実を隠されて、裏でこっそり世話を焼かれるような子供だと思っているのか!」
その言葉は、俺の胸の最も痛いところを、容赦なく抉った。
彼らと決めた『勝手に予測して決めつけない』というルール。
休日の散策で、エステルから「あなたはまた敵だった頃と同じように私たちを動かしている」と指摘されたはずだった。
俺は、彼らが傷つくことを恐れ、俺自身が責められることを恐れて、問題を共有せずに一人で抱え込み、勝手に解決しようとした。
それは「守る」という大義名分を被った、ただの『支配』だ。
「……レグ。あの学校へ行った時も、あなたは知っていたのね」
ティナが、氷のように冷たい声で言った。
「私たちが同意を求めた会議でも、言わなかった。今そばにいる私たちには、昔の記録より話しにくかった?」
「違う! 俺は……!」
俺は一歩前に出たが、ティナの軽蔑の眼差しに射すくめられ、足が止まった。
「……行こう」
カイルが、テーブルの上の本を俺の方へ押しやり、背を向けた。
「どこへ行く、カイル。今日はまだ……」
「適応室の訓練は、休ませてもらう」
カイルは振り返らずに言った。
「今の俺には、お前が『俺たちのため』と言って用意するプログラムが、本当に俺たちのためなのか、ただお前の計算した枠に俺たちを押し込めるためのものなのか……信じられない」
バルドも無言で立ち上がり、エステルは悲しそうに目を伏せたまま、カイルの後を追った。
「ティナ……」
俺が呼ぶと、最後に残った彼女は、扉の前で一度だけ振り返った。
「……私たちの『平和』は、あなたが裏で計算して与えてくれるものじゃないわ。私たちは、もうあなたの観察対象じゃないのよ」
バタン、と。
食堂の扉が重く閉じられた。
静まり返った部屋の中には、俺一人だけが取り残された。
窓の外では、王都の市民たちが「英雄の真実」の本を片手に、面白おかしく騒いでいる声が遠く聞こえる。
机の上に、カイルの本が残っていた。
六年前の頁に折り目がある。その先には、俺が削ろうとした文章が続いていた。
俺はそれを閉じることも、開き直すこともできなかった。




