第36話 勇者が救えない人たち
王都の中心から少し外れた、古い教会の裏手にある集会所。
そこでは月に二回、復興院が主催する『帰還兵のための料理と生活再建の集まり』が開かれている。黒冠戦争で四肢の一部を失ったり、深い心の傷を負って除隊を余儀なくされた元兵士たちが、平時の生活に馴染むためのリハビリを兼ねた交流の場だ。
常設最高指揮官の打診を保留し、救助隊で訓練を続けるカイル・レインは、マヤ実務官の勧めで今日、その集まりに一人の参加者として顔を出していた。
「……レグさん。どうして、皆さん壁際に集まっているんですか」
入り口の扉からこっそりと中の様子を覗き込んだマヤ実務官が、眼鏡を押し上げながら顔を引きつらせた。
「俺に聞くな。どうやら、奴らの『戦場』が始まっているらしいぞ」
俺も記録板を抱えながら、深いため息をついた。
集会所の厨房では、二十人ほどの元兵士たちとカイルが、支給されたエプロンをつけて料理の真っ最中だった。だが、その光景はどう見ても「和やかな料理教室」ではなかった。
まず、彼らの立ち位置がおかしい。
中央の調理台にも人はいるが、壁際の台だけ妙に混んでいる。背後を人が通らない方が楽だという参加者が、自然とそちらを選んだらしい。
さらに、まな板に向かっているカイルの手元。
カイルは包丁を持った参加者に、空いた方の手を丸めて見せていた。停戦館で最初に教わった持ち方だ。だが、説明に使う言葉は怪しい。
「敵影発見! これより皮剥き(無力化)に移行する!」
「待て新兵! 鍋の配置が甘い! そんな間隔では油跳ね(奇襲)に対応できないぞ、強火の前に防衛陣形を組み直せ!」
カイルのよく通る声の号令に合わせて、義手や眼帯をした元兵士たちが「了解!」と機敏に動き回る。
料理を教える女性が、「号令より、鍋を見て」とおたまで調理台を叩いた。
「……号令だけなら、訓練場だな」
「感心している場合ですか。料理の手順が完全に戦術化していますよ」
俺とマヤが頭を抱えていると、不意に、厨房の中からドッと大きな笑い声が湧き上がった。
「おいおいカイル様! 玉ねぎを切るのに、なぜ息を止めてるんです!」
「うるさい、こいつは目に催涙ガスを放ってくる厄介な敵だ! 油断すれば視界を奪われるぞ!」
眼帯をした初老の元兵士がからかうと、カイルが真面目な顔で言い返し、それがまた厨房を爆笑の渦に巻き込んだ。
一般社会では「異常」として奇異の目で見られる戦場の癖。
だが、この場所では違う。同じ地獄を生き抜き、同じ染み付いた癖を持つ者同士だからこそ、カイルの過剰な警戒心は彼らにとって極めて親しみやすい『戦場あるある』として共有されていた。
そこには、俺たち適応室の人間では決して作ることのできない、当事者同士の奇妙で温かい連帯感があった。
やがて、少し焦げたり形が不揃いだったりする、無骨だが栄養満点のシチューとパンが完成し、長机を並べた会食が始まった。
和やかな空気の中、カイルの隣に座っていた義手の若い元兵士が、ふと暗い顔で口を開いた。
「……カイル様。俺、昨日仕事先をクビになったんです」
「クビ? なぜだ」
「荷運びの仕事だったんですが、背後で急に大きな物音がしただけで、反射的に同僚を突き飛ばして身構えちまって。……『危なくて雇っていられない』って」
若い元兵士は、義手ではない方の手で木製のカップを強く握りしめた。
「一般社会は息苦しい。誰も俺たちのことなんか分かっちゃくれない。……でも、カイル様だけは違います。俺たちが抱えているこの戦場の感覚を分かってくれるのは、ずっと最前線で戦い続けてきたあなただけだ」
頷く者もいれば、皿を見つめたままの者もいた。隣の男性が、青年の握るカップにそっと水を足した。
「頼みます、カイル様。俺たちのリーダーになってください」
「復興院の連中に掛け合って、俺たち帰還兵のための特別な居場所を作るように言ってくれないか。あんたの言葉なら、国も動くはずだ。……俺たちを導いてくれ、隊長」
それは、重すぎる期待だった。
相談する先があっても、返事を待つ間の家賃は要る。青年が今日、目の前に来たカイルに頼りたくなるのはわかった。だが、ここでカイル一人の約束に変えていい話でもない。
俺は壁際でペンを止めた。
以前のカイルなら、「任せろ。俺がなんとかしてやる」と即座に胸を叩き、彼らの人生すべてを背負い込んでいただろう。
ラザルから持ちかけられた『最高指揮官』の打診を保留している今、ここで彼らのリーダーになることを宣言すれば、彼の予定表は、彼自身をすり減らす「自己犠牲」の文字で埋め尽くされてしまう。
カイルは、黙ってシチューの皿を見つめていた。
やがて彼は、ゆっくりと顔を上げ、すがるような目を向ける青年たちを見回した。
「……すまん。俺は、お前たちのリーダーにはなれない」
「え……」
青年が、絶望したように息を呑む。
「俺にも、すぐ仕事を用意する力はない。全部引き受けるとは、約束できないんだ。……でも、困っていることを役所へ伝える手伝いはしたい」
カイルの言葉は、冷酷な拒絶にも聞こえた。
だが、彼は言葉を切らず、青年の肩にポンと手を置いた。
「俺はお前たちを導けない。……だが、お前たちが自分で立ち直るための『道』を見つける手伝いならできる」
「手伝い……?」
「戦傷者の就労窓口と、仕事を分け合う組合があると聞いた。まだ行っていないなら、希望があれば一緒に行く。もう相談して駄目だったなら、その返事から聞かせてほしい。俺だけじゃわからないから、ここの相談員にも頼んでいいか」
カイルは、静かに、しかし確かな力強さを持って微笑んだ。
それは、商業区の火災現場で彼が学んだ『見えない仕事』の価値だった。
自分が火に飛び込んで全てを解決するのではなく、専門の部隊が動けるように道を空けること。彼が選んだのは、帰還兵たちの人生を背負うことではなく、彼らを適切な支援組織へと『繋ぐ』という役割だった。
「……お下げします。お茶のお代わりはいかがですか?」
不意に、白いエプロンを着た爽やかな青年が、空いた皿を手際よく片付けながらテーブルにやってきた。
公共英雄候補生、セイルだ。
彼は非番の今日、広報用の魔導写影機を連れることもなく、ただ一人のボランティアとしてこの集会に参加し、黙々と配膳や皿洗いの裏方仕事を手伝っていた。
商業区の火災現場で、カイルの泥臭い交通整理を見た彼もまた、派手な活躍だけではない「見えない支援」の価値を実践し始めていたのだ。
「ああ、ありがとう、セイル」
カイルが礼を言うと、セイルは静かに一礼して厨房へ戻っていった。
旧英雄から新英雄へ、そして帰還兵たちへ。
目に見えない小さな支援の連鎖が、この部屋の中で確かに回っていた。
二時間後。
集会が終わり、参加者たちは、余ったシチューを分けて帰路についた。青年は明日の同行を頼んだ。別の二人は、この場で相談員と話す方を選んだ。
「……立派でしたよ、カイル様」
マヤ実務官が、後片付けを終えたカイルに声をかけた。
「すべてを背負うのをやめ、適切な機関へ繋ぐ。それは行政の基本ですが、あなたがそれを自分の意志で選んだことに、大きな価値があります」
「ああ。俺は全員を救うことはできない。でも、次に繋ぐことならできるんだな」
カイルは、ふっと憑き物が落ちたような顔で笑った。
「……さて。じゃあ、俺もそろそろ行くか」
「えっ? どこに行くんだ、カイル。もう集会は終わりだぞ」
俺が尋ねると、カイルは苦笑しながら、集会所の奥にある小さな個室の扉を指差した。
「次は、俺の番だ」
「あなたの番?」
首を傾げる俺たちの前に、集会を主催していた専門の心理カウンセラーの女性が顔を出した。
「お待たせしました、カイルさん。こちらへどうぞ」
「はい、よろしくお願いします」
カイルは俺たちに軽く手を挙げると、一人でその個室へと入っていった。
俺は、ハッとした。
カイルは今日、この集会に「指導者」や「視察」として来たわけではない。
彼自身もまた、十二年間の凄惨な戦争から帰ってきて、心に深い空白と傷を抱えた『一人の帰還兵』として。彼自身の平和適応のために、専門家の面談を受ける側としてここに来ていたのだ。
「……あいつ、ちゃんと自分の足で歩いてるじゃないか」
俺は、閉まった個室の扉を見つめながら、小さく息を吐き出した。
俺は記録板を閉じた。面談の中身を書く欄はない。
「待っている間に、皿を洗いますか」
マヤが言った。
「ああ。今日の玉ねぎは、手強かったらしいな」
厨房には、まだ少しだけ笑い声が残っていた。




