第34話 聖女がいなくても治る町
王立第二診療所の裏手にある、普段は予備の薬品や機材が積まれている古い石造りの倉庫。
そこが今日から、臨時の『治療師向け教室』として生まれ変わっていた。
「おはようございます、皆様。本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
教壇の前に立った聖女エステル・リーネが、真っ白な治療着姿で深く頭を下げた。
集まっているのは、王都中の診療所や治療院から派遣されてきた、三十名ほどの若い一般治療師たちだ。彼らは皆、教壇に立つ小柄な女性を、まるで神の使いでも見るような、熱のこもった畏敬の眼差しで見つめている。
エステルが発案し、マヤ実務官が復興院から予算をもぎ取ってきて実現した『一般治療師向け・短期教育プログラム』の初日である。
俺は教室の後ろで、黒板消しと予備のチョークを持ちながら、裏方として壁によりかかっていた。
「聖女様の術式を、普通の魔力量で使えるでしょうか」
最前列から質問が出た。エステルは頷いてから、答えを分けた。
「応用できる部分は、お伝えします。ただ、私と同じ出力を目標にはしないでください。それと、資料に一つ誤りがありました。私に、亡くなった方を蘇らせる力はありません」
配布された紹介文の一行を、彼女は自分で消した。
「今日やるのは、複数の診療所に患者さんが集まった時の、引き継ぎです」
黒板に、三つの診療所と道の図が描かれる。
「一つ目は満床。二つ目には治療師が二人。三つ目には大きな設備がありますが、搬送に時間がかかります」
患者の状態を記した札を配ると、教室の空気が変わった。
「この方は、ここでは診きれません。先に設備のある三つ目へ」
「でも、この道は雨で通れない設定ですよね」
「では二つ目で状態を保って、搬送手段を確保するまで……」
治療師たちは、普段の職場で抱える問題を次々に口にした。知識のない者たちではない。だが、別の診療所の人員や、搬送の条件まで一緒に扱う機会は少なかった。
エステルは各組を回り、どの時点で助けを求めるか、その時に何を伝えるかを尋ねた。
「聖女様がいたら、どうしますか」
若い治療師が聞いた。
「私の手が空いているか確認します」
「……ご自身に?」
「そうです。私が全部できる前提で決めると、私がいない日に困ります。それに、私にも先に診ている方がいますから」
机を回るうち、一つの組が誰も助けを呼ばずに札を抱え込んでいた。
エステルは責めず、椅子を持ってその輪に入った。
「呼ぶのを迷ったのは、どの段階でしたか」
「まだ自分で何とかできると思って……。手を止める方が、怖くて」
「私も、あります」
エステルは自分の記録を開いた。以前、診療所で手を広げすぎた日の頁だった。
一度に教えるより、一つずつ聞く方が時間がかかる。昼になっても予定の半分しか進まず、午後には看護長が時間配分の助けに入った。
完璧な講義ではなかった。それでも帰る時、受講者は自分の診療所で試す引き継ぎ票を一枚ずつ持っていた。
それから、数週間が経過した。
季節の変わり目を迎え、王都は冷え込む日が増えた。風邪をこじらせる者や、急な雨で足を滑らせて怪我をする者が増え、第二診療所の待合室は連日多くの患者でごった返していた。
全体の患者数は、エステルが初めてここで働き始めた初日の頃よりも、明らかに増えている。
だが、その忙しさとは裏腹に、エステルが待機している『特別処置室』の周囲は、奇妙なほど静まり返っていた。
「……暇だな」
特別処置室の隅で、俺が欠伸を噛み殺しながら呟いた。
朝からもう四時間が経過しているが、この部屋の扉が叩かれたのは、高所から転落した重傷の建築作業員が運び込まれてきた時の一回だけだ。
エステルはその重傷者に対し、温存していた魔力を一気に解放してハイ・ヒールを施し、命を救った。その後は、丸椅子に座って医学書を読んだり、俺の淹れたお茶を飲んだりして、静かに時間を過ごしている。
「外の待合室は溢れかえっているのに、なんで誰もここに来ないんだ?」
俺が不思議に思って少しだけ扉を開け、外の一般処置室の様子を覗き込んだ。
「先生、こっちも確認してもらえますか」
一人の若い治療師が隣の担当を呼んだ。二人で患者の記録を見比べ、必要な処置と、その後の診察を確認する。
受付からは、別の診療所へ搬送する患者の連絡が入っていた。診察済みの内容と、受け入れの返答が一枚の票にまとまっている。
エステルを必要とする患者は、ためらわずこちらへ送られてくる。その手前で済む相談まで、彼女一人の判断を待つことは減っていた。
「……なるほどな」
俺は音を立てずに扉を閉めた。
エステルが教えたのは、奇跡の代替品ではない。彼ら自身の手で患者を救えるという「自信」と「手順」だ。
その教育の成果が、この静寂を生み出しているのだ。
夕方。
診療所の受付時間が終了し、外の喧騒が嘘のように引いていった。
「お疲れ様でした、レグさん」
エステルが本を閉じ、伸びをしながら微笑んだ。
その顔色は健康的で、魔力も体力も十分に満ちている。昔のように、患者全員を一人で治そうとして魔力切れを起こし、青白い顔で倒れ込んでいた頃の面影は微塵もない。
「今日は、ずいぶん静かだったな」
俺は帰りの荷物を持った。
「どうだった」
「最初は、外へ見に行きたくなりました」
エステルは少し笑った。
「でも、必要な時には呼んでくれる。それを、今日は待てました」
エステルは自分の両手を見つめ、そして、窓の外の王都の夕空を見上げた。
「私が何もしなくても、皆さんが治って自分の足で帰っていく。私が倒れるまで魔力を絞り出さなくても、この診療所が当たり前に患者さんを救い続けている……」
彼女は振り返り、最高に晴れやかな笑顔を見せた。
「これほど、嬉しいことはありません」
「そうか」
俺は外套を取った。
「帰りに、本屋へ寄ってもいいですか」
「新しい医学書か?」
「続きの出た小説です。昨日は一章しか読めなかったので」
彼女は窓を閉め、忘れ物がないか振り返った。
次の担当が、もう廊下を歩いてきていた。




