第29話 敵軍資料が英雄本になった
企画書の余白に、俺の名前があった。
著者ではない。情報提供元だ。
『真実の四英雄――敵軍から見た素顔と軌跡』
情報源・旧魔王軍対勇者行動記録。記録者、レグ・オルフェン。
「……マヤ。この資料、どこまで渡した」
停戦館の事務室には、紙をめくる音が続いていた。四人はそれぞれの職場へ出ている。マヤは俺の指先を見て、別の綴りを引き寄せた。
「原本は王国軍の保管庫です。出版社へ渡したのは、復興院が広報用に選んだ写し。こちらに届いているのは企画の要約だけですね」
「誰が選んだ」
「資料課と英雄事業部です。……問題があるんですか」
「確認する」
それ以上の言葉が出なかった。
俺の引き出しには、鍵付きの黒い野帳がある。
十年分の原本ではない。原本は終戦直後、捕虜になった際にすべて押収された。黒い野帳は、その後、残された断片と記憶から書き直した私的な控えだ。
好物。睡眠の癖。仲間を助けに戻るまでの時間。
あいつらの生活の断片を、俺は作戦の材料として集めていた。記録が細かいのは、親しかったからではない。
六年前の包囲作戦の頁には、カイルが退かない条件が列挙されている。
あれを、英雄の親しみやすい素顔として読ませるつもりなのか。
「本人への確認は、まだですよね」
マヤの声に顔を上げた。
「出版日も未定です。まず全稿を取り寄せましょう。資料の確認と、皆様への説明をお願いできますか」
「ああ。俺がやる」
「作戦に関わる箇所は、軍にも照会します。私から資料課へ」
彼女は連絡票に俺の名を書いた。
その時、俺は一つ訂正すべきだった。
俺自身が、この本の件を四人に説明するのが怖い、と。
王都星報社の編集室では、刷り上がったばかりの紙が紐に下がっていた。窓を開けても、インクの匂いが抜けない。
「まさか記録者ご本人に来ていただけるとは」
編集長は椅子を勧め、試し刷りを広げた。
「対立した側から見るからこそ、新しい伝記になる。無敵の方々にも食べ物の好みがある。読者が、同じ人間だったのだと感じられる本です」
「その好みを、何に使うため調べたか読んだか」
「もちろんです。そこも隠さず、戦争の記録として――」
「だったら、これを笑い話の横に置くな」
俺は包囲作戦の頁を指した。
見出しは『勇者にもあった迷い』。
迷いではない。俺が迷わせた。
編集長は眼鏡を外した。
「役所から渡された資料です。戦後の公開区分には入っていると聞きましたが」
「公開できることと、本人の傷を宣伝に使っていいことは別だ。許可の範囲を確認してくれ」
「既に編集と組版に費用がかかっています。企画ごと取り下げろと言われても、私だけでは決められません」
「その分は復興院と協議しろ。少なくとも、確認が済むまで印刷は待ってくれ」
少し間を置いて、編集長は試し刷りを二つに分けた。
「原稿の確認待ちに戻します。ただ、ここまでの裏話も全部駄目ですか。好物の話まで?」
俺は小さな束を見た。カイルのパンの好み。ティナが夜更かしをする癖。バルドが欠けた刃を捨てられなかった話。
「ああ、その程度なら……」
口に出してから、五か条の紙が頭に浮かんだ。
本人に尋ねる。
俺はそれを振り払った。
「作戦の詳細を含まない部分は、修正案として残していい。ただし、校正刷りを必ず適応室へ回せ」
「では、その方針で組み直します」
編集長が朱筆を持った。
俺はそこで、交渉が進んだと安堵してしまった。
どの話なら世に出してよいか。最も大切な判断を、俺に任せた者は誰もいないのに。
帰り道、荷馬車の軸が石畳の継ぎ目を踏む音ばかりが耳についた。
出版は止まっている。今すぐ危険はない。
全稿を確認し、問題の部分を取り除いてから説明すればいい。そうすれば、あいつらを無駄に不安にさせずに済む。
俺は同じ言い訳を、橋を渡る間に三度繰り返した。
停戦館では、ティナがフライパンに向かっていた。
「見て。今日はソースを焦がしてないわ」
「自分で言わなければ、誰も焦げを探さんのだが」
バルドが皿を並べている。エステルは花瓶の水を替え、カイルはパンを切っていた。
「どこへ行ってたんだ、レグ。マヤが、戻ったら話があるって」
包丁の音が止まる。
ここで言えばよかった。
昔の俺の記録を、本にしようとしている。お前たちに相談せず、俺が内容を決めかけた、と。
「……役所の資料の照会だ。まだ結論が出てない」
「そうか。先に食うか?」
俺の席には、既に皿があった。
食後、マヤへ提出した連絡票に、俺は『全稿確認中。刊行保留』と書いた。
説明予定日の欄は空けたままにした。
マヤはその空欄に小さな印を付けた。
「届いたら、一緒に確認しましょう。皆様への説明も忘れずに」
「ああ」
部屋に戻り、引き出しの鍵を開けた。
黒い野帳の角に、古い折れ目がついている。六年前の頁だ。開かなくても、最初の一文を思い出せた。それでも、折れ目のついた頁を開いた。
『勇者は、残された者のいる方向へ戻る』
俺は野帳を閉じ、鍵をかけ直した。
その音を、誰にも聞かれなかったことにほっとした。




