第28話 勇者にもう一度「総大将」を
剣聖バルドの木工展示会が、予想外の温かい笑いと大盛況のうちに幕を閉じてから数日後。
停戦館の事務室に、再びパリッとした背広を着こなした初老の男が姿を現した。
復興院・英雄事業部長、ラザル・フェルン。
最近は収益報告と条件の調整で顔を合わせることが多い。今日は、見慣れた広報企画書とは違う封筒を持っていた。
俺が警戒心を露わにして立ち上がると、ラザルは両手を軽く上げて敵意がないことを示した。
「そんなに睨まないでくれたまえ、レグ・オルフェン対策官。今日はカメラマンも記者も連れていないし、馬鹿げたタレント企画を押し付けに来たわけでもない」
「なら、何の用だ」
「カイル君に、王国からの正式な『打診』を持ってきたのだよ」
ラザルは長机の向かいに座る勇者カイル・レインに向き直り、鞄の中から重厚な羊皮紙の束を取り出してコトリと置いた。
「カイル君。先日、君が南部の第三商業区の火災現場で、見事な交通整理と動線確保を行い、消火活動を劇的に早めたという報告は、我が復興院にも届いている」
「あ、ああ。あれは現場の隊長の指示で……」
「隊長からの報告にも、その連携がよく書かれていた。今日の話は、その経験を踏まえたものだ」
ラザルは、羊皮紙をカイルの方へ滑らせた。
「そこでだ。王国は、君を『常設・災害治安最高指揮官』という新たなポストに任命したいと考えている」
「最高指揮官……?」
カイルが目を丸くする。俺もマヤ実務官も、予想外の役職名に少し驚いた。
「そうだ。魔獣の残党による襲撃や、大規模な自然災害が起きた際、王都の騎士団や消防・救助隊、すべての治安維持組織を統合し、君が現場の『総大将』として指揮を執る。平時においては、各部隊の訓練を視察し、王国の防衛の象徴として君臨してもらう」
ラザルは、カイルの目を見据えて力強く語った。
「これは見世物ではない。君の圧倒的な武力と、戦場で培われた統率力を最大限に活かせる『本物の役割』だ。市民が最も安心するのは、勇者様がもう一度、自分たちを守る総大将として立ってくださることなのだよ。……どうだろうか」
静寂が、事務室を包み込んだ。
俺は腕を組み、カイルの横顔をじっと観察した。
カイルの瞳が、僅かに揺れている。
予定表には、救助隊の訓練が少しずつ増えていた。だが、その先の一年は決まっていない。
カイルは「正式な役職か」と小さく繰り返した。任せられることを喜んでいるのか、決めずに済むことにほっとしているのか。横顔だけでは、俺にはわからなかった。
「……俺が、もう一度、みんなを守るための指揮官に」
カイルの声には、隠しきれない安堵の色が混じっていた。
彼は無意識のうちに、羊皮紙の束に手を伸ばそうとしていた。
――以前の俺なら。
魔王軍の『勇者対策官』としての俺なら、ここで即座にテーブルを叩き、カイルの手を弾き飛ばしていただろう。
そして、「ふざけるな、ラザル部長。こいつを一生、国の防衛装置として縛り付ける気か。象徴なんて聞こえはいいが、要は市民を安心させるための『巨大な客寄せパンダ兼・便利屋』だろうが。断る」と、勝手に先回りして彼を守ろうとしたはずだ。
だが、俺は動かなかった。
休日の散策でエステルから指摘された『予測で支配する』という自分の傲慢さを、俺は嫌というほど自覚していた。
俺が反対し、俺がカイルの選択を奪えば、カイルはいつまで経っても「自分の意志」で人生を決めることができなくなる。
「……レグ?」
俺が何も言わないことに違和感を覚えたのか、カイルが不思議そうにこちらを振り返った。
「どうした、カイル」
「いや……お前なら、絶対に『罠だ』とか『やめておけ』って反対すると思ったんだが」
「反対はしない」
俺は、努めて客観的な、ただの整理役としての声を出した。
「提案を持ってきたのは復興院だ。そして、それを提案されたのはお前だ。俺はただの平和適応係にすぎない。……だが、決断を下す前に、現状の選択肢と負担だけは整理させてもらうぞ」
俺はカイルに向き直り、指を一本立てた。
「任期、夜間の呼び出し、代理を置ける範囲。この三つは、まず確認した方がいい。俺にはこの案だけでは読めない」
「任期は三年を想定している。副官は置く。ただし、非常時の最終責任を誰まで委ねるかは、軍と協議中だ」
ラザルは未確定の項目に線を引いた。
「そこは決まってから判断してくれていい。教官との兼務を希望するなら、その条件も聞こう」
「俺からも聞いていいか」
カイルは紙に置いていた手を引いた。
「俺が現場を任せた隊長に、上から別の命令が飛ぶことはないのか。消防と軍で、指示が割れたり」
「そこを一本化するための役職だ。ただ、権限の整理には時間がかかる」
「だったら、先に組織の図が見たい。俺が何でもできる前提の図じゃなくて」
マヤがその要望を書き留める。俺が並べようとしていた条件にない問いだった。
カイルは、弾かれたように息を呑んだ。
俺が反対せず、完全に選択権を投げ渡したことが、彼にとっては予想外だったのだろう。
戦場でのカイルは、常に『即断即決』だった。迷うことは死を意味したからだ。目の前に「守るべきもの」が提示されれば、考えるより先に剣を抜いて飛び出していた。
だが、今のカイルは剣を抜かなかった。
彼は椅子の肘掛けに手を置き、しばらく黙っていた。
俺の脳裏に、これまでのカイルの姿がフラッシュバックする。
密着撮影の帰り道、カメラに追い回された彼が、初めて自分の意志で「見世物になるのは不快だ」と吐き捨てたこと。
商業区の火災現場で、ただ炎に突っ込むのをやめ、泥だらけになって野次馬をどかし、他の隊員が活躍するための「道を作る」地味な仕事の価値を知ったこと。
彼は、確実に変わってきている。ただ誰かに与えられた役割をこなすだけの兵器から、一人の血の通った人間へと。
「……ラザル部長」
数分の沈黙の後。
カイルはゆっくりと顔を上げた。
「ありがたい提案だ。俺の力を必要としてくれるのは、素直に嬉しい」
カイルの声は、どこまでも穏やかで、しかし岩のように重く、揺るぎなかった。
「だが……俺は、以前のようにただ前線に立って剣を振るうだけの総大将には、もうなりたくないんだ」
「……どういうことかね?」
ラザルが目を細める。
「俺が一人で全部の危険を背負ってしまえば、周りの人間は育たない。俺はいずれ、自分がいなくても現場が回るような、そんな隊を作れる人間になりたいと思っている。……だが、今の俺に、王国の全治安組織をまとめてそんな体制を作り上げるだけの知識も、器もない」
カイルは、予定表の空いた日を指でなぞった。
「俺はまだ、自分が本当に何をしたいのか、どうやってこの平和な社会で生きていくのか、答えを出せていないんだ」
そして、カイルは深々と頭を下げた。
「だから、この話は……今は決められない。少し、考えさせてくれないか」
それは、見事な『保留』だった。
戦場では絶対に許されなかった「即断しない」という勇気。
安易に国が用意した「役割」に飛びついて空白を埋めるのではなく、自分が何者でもないという不安に耐え、自分の意志で答えを出そうとする、彼なりの決意の表れだった。
「……そうか」
ラザル部長は、少しだけ意外そうな顔をしてカイルを見つめていたが、やがて短く息を吐き出して立ち上がった。
「勇者カイル。君がそこまで自分の限界と未来を冷静に見つめているとは、思わなかったよ。……いいだろう。組織案を詰めてから、改めて確認する。それまでは現行の当番制を続けよう」
ラザルは羊皮紙の束を回収し、静かに事務室を去っていった。
扉が閉まった後。
カイルは「ふうっ」と、体中の空気を全て吐き出すような大きなため息をついて、椅子に背中を預けた。
「……断っちまった。いや、保留にしただけだが……ものすごく、惜しいことをしたような気がするぞ」
「後悔しているのか?」
俺がからかうように尋ねると、カイルは苦笑しながら首を振った。
「いや。不思議と、清々しい気分だ。……自分で自分のことを決めるって、こんなに心臓に悪いことだったんだな」
「慣れろ。それが平和な社会ってやつだ」
俺は、カイルの手元にある予定表の余白を指差した。
「返事の欄、しばらく空くな」
「ああ。ただし木曜の訓練は入れといてくれ。セイルたちと、搬送のやり方を試す約束をした」
カイルは、空欄の残る紙を、もう恐れるような目では見ていなかった。
俺は返事の期限ではなく、木曜の開始時刻を聞いた。




