第25話 聖女、奇跡の大量提供を断る
「会場はこちら。聖女様のお席を中央へ据え、患者を左右から順番に――」
ルークス薬種商会の会頭が、停戦館の長机に大きな見取り図を広げた。
エステルはその上へ指を置いた。
「治療が終わった方は、どちらへ?」
「出口へ進んでいただきます。混雑しませんよう、一方通行ですな」
「その後、具合が悪くなった方は?」
会頭の指が止まった。
夏の建国記念日に合わせて、王都の大広場で『無料大治癒会』を開く。それが今日の相談だった。
経費は商会持ち。普段は診療所へ行けない人も、聖女の奇跡を受けられる。商会には宣伝効果があり、復興基金への寄付も予定されていた。
悪い話ではない。少なくとも、広げられた図面の上では。
「何千人いらしても、全員を一日で診ることはできません」
エステルが言うと、会頭はすぐに別の紙を出した。
「では人数を絞りましょう。先着五百人。列は警備員を出して管理します」
「先着順では、早く並べる方からになります。歩けない方や、仕事を休めない方はどうなりますか」
「しかし、誰を先にするかとなると……」
「診る人が必要です。私が治癒を始めた後も、待つ方の状態を確認する人が。それに、帰った後の治療を引き継ぐ診療所も」
会頭は企画書を閉じず、頁を行ったり来たりした。
俺は隣で口を挟みかけたが、エステルが続きを話すのを待った。
「今の案では、お受けできません」
会頭が顔を上げる。
「人数を減らしても、ですか?」
「はい。一日に何人治せるかだけで約束はできません。私は翌日も、診療所の急患を診ます。ここで力を使い切る日程にはできないんです」
「ですが聖女様。皆、あなたに治していただく日を待っています。奇跡が使えるのに使わないと聞けば、納得しない方もいるでしょう」
エステルの手が、膝の上で固く握られた。
それでも、目は伏せなかった。
「治療を断りたいのではありません。診療所と組んで、受診費用を商会に援助していただく形にはできませんか。そこで診た方のうち、私の力が必要な患者を順に紹介してもらう。私も、診療所と相談して受け入れます」
「それでは、建国記念日の大治癒会ではなくなります」
「ええ」
図面の中央には、聖女の席を取り巻くように、商会の旗と写影機の位置が描かれていた。相談窓口や休憩所の場所は、まだない。
会頭はその図を巻き始めた。
「会場の仮押さえもしています。出資者には、聖女様のご協力を得る予定と説明した。診療所への援助だけでは、同じ額を集められるか分かりません」
「私も、できない約束をしたまま当日を迎えるわけにはいきません」
エステルの声が少し掠れた。
会頭はしばらく彼女を見ていたが、やがて頭を下げた。
「持ち帰ります。ただ、日程が迫っています。別案が間に合うとは、お約束できません」
「それはこちらも承知しています」
マヤが初めて口を挟み、受診費用の援助案を一枚にまとめて渡した。
会頭が帰った後、エステルは膝の上の手をほどいた。掌に爪の跡がついている。
「……来るはずだった方は、がっかりしますね」
「そうだろうな」
俺が答えると、彼女は小さく息を吐いた。
「それでも、引き受けなくてよかったと思います。でも、そう思った自分に、まだ少しほっとできません」
「断った理由まで、一緒に伝えよう。お前だけで全部説明して歩く必要はない」
マヤが商会へ渡したものと同じ紙を、エステルの前へ置いた。彼女はその内容を読み、二か所、言葉を書き直した。
数日後、大治癒会の延期が告知された。
街の掲示板には『聖女、無料治癒会への協力を辞退』という見出しが張られた。本文の下の方には代案も載っている。だが、通りすがりに最後まで読む人ばかりではない。
診療所へ向かう途中、エステルは荷車を引く男に呼び止められた。
「うちの母親、あの日なら診てもらえるって喜んでたんです。次はいつになるんですか」
「……大治癒会としての次の日は、決まっていません」
男の顔が曇った。
「じゃあ、やっぱり駄目なんですか」
エステルはすぐに「私が行きます」と言いかけ、唇を閉じた。
「診療所へ相談する方法をお伝えします。お母様が来られない場合も、受付で相談していただけますか」
男は紙を受け取ったが、礼は言わなかった。それも仕方のないことだった。
その一方で、診療所の受付には「どうして聖女様は治さない」という手紙が届いた。無料で診てもらえると聞いて、旅費を用意し始めた人もいた。
俺たちは商会に告知の出し方を相談し、診療所への案内を増やした。全ての不満が消えたわけではない。エステルの足取りは、帰りになるほど重くなった。
「……肉は、いるか」
その夜、停戦館の食卓で、バルドが大皿をエステルへ差し出した。
彼女の皿には、まだ煮込みが半分残っている。
「少しなら。小さい方をお願いします」
「承知した」
バルドは肉を眺めた。小さい方を選んだらしいが、それでもエステルの握り拳ほどある。
「バルドさん。それは私の『少し』ではありません」
「……これでもか」
隣のティナが吹き出し、カイルが自分の皿を持ってきた。
「残りは俺が食べる。三つに切ればどうだ?」
「では、一つだけ」
エステルはそう言い、切り分けられた肉を受け取った。
カイルは皿へ戻る二切れを見て、少し嬉しそうだった。
「食事の分担なら得意なんだけどな、俺たち」
「あなたが多く食べたいだけでしょう」
ティナの一言で、エステルが声を上げて笑った。
俺はその間に、余った煮込みを小さな鍋へ移した。今食べられない分は、明日温め直せばいい。
食後、マヤが事務室へ通信の記録を持ってきた。
「ラザル部長からです。寄付の減額幅を見込むため、商会との交渉状況を知らせてほしいと。それから、受診援助案を実施する場合の費用も」
「代案の費用まで?」
「ええ。同じ金額を集められるとは限りませんから」
俺は椅子を引いた。英雄が無理をして引き受ける。それ以外のやり方には、まだ数字がついていない。
厨房から、カイルの声が聞こえた。
「明日の分、味見してもいいか?」
「駄目です。私のお昼です」
エステルの返事は早かった。
俺は通信の記録を開き、診療所へ確かめる項目を書き始めた。




