第20話 英雄ではない予定表
月末の停戦館。
柔らかな春の陽射しが差し込む事務室で、四人の英雄たちは長机に向かい、真剣な表情で羽ペンを走らせていた。
彼らの手元にあるのは、マヤ実務官が配った次月の『希望予定表』だ。
ひと月ほど前、彼らに『適職診断書』を書かせた時、彼らの希望欄は見事なまでに真っ白だった。魔王を倒すこと以外に何も知らず、平和な世界で自分がどうしたいかというビジョンを一切持っていなかったからだ。
だが、今回は違う。
「……よし、書けたわ」
ティナが一番に羽ペンを置き、誇らしげに予定表を掲げた。
「私はもちろん、王都給水局への出向継続よ。旧市街の第七区画の配管最適化は終わったけど、まだ中央魔導ポンプの出力波長に無駄があるの。来月中には、王都の地下水脈と配管の魔力共鳴システムを完璧に組み上げてみせるわ」
「私は、週の半分を第二診療所での勤務に当てたいと思います」
エステルが、丁寧に文字が綴られた用紙を提出する。
「別の日に少し、若い治療師さんたちとの勉強会も開きたいです。休日は残して、魔法に頼らない止血法や、骨折時の正しい固定の仕方を……私が休んでいる間にも、現場が回るように」
「む。私はガラン家具工房での見習い作業だ。まだ木材の『残す』手つきが完全に身についていない。親方の鉋がけの技術を、一歩でも盗み取らねばならないからな」
バルドも力強く頷き、予定表をマヤ実務官に手渡した。
ティナはインフラの最適化というパズルに、エステルは後進の育成という仕組み作りに、バルドは破壊ではなく残す技術の習得に。
彼らはそれぞれの職業体験を経て、ただの強大な兵器から、社会の歯車の一つとしての「自分の居場所」を確実に見つけつつあった。魔王討伐という絶対的な義務ではなく、彼ら自身の意志で選んだ「日常の予定」だ。
「三人とも、希望は分かった。マヤ実務官、受け入れ先と相談を頼む」
「はい。各施設には、適応室から正式に次月の実習継続の申請を出しておきます」
マヤ実務官も、どこか満足げに三人の予定表をファイルに閉じた。
順調だ。彼らの平和適応は、俺の想像以上に上手く進んでいる。
……ただ一人を除いて。
「……カイル。お前、まだ一枚も書いてないぞ」
俺が声をかけると、長机の端で羽ペンを持ったまま固まっていたカイルが、ビクッと肩を震わせた。
彼の手元にある予定表は、見事なまでに真っ白だった。
「あ、ああ。いや、その……」
カイルは気まずそうに視線を泳がせた。
「消防・救助隊には、行かないのか」
「……隊長に、言われただろう。『自分がいなくても回る隊を作れ』って」
カイルは、自分の大きな手をじっと見つめた。
「あの言葉の意味を、俺はずっと考えていた。俺が一人で全部の危険を取り除いてしまえば、確かにその場は助かる。だが、それでは隊員たちが成長せず、俺がいない時に誰も助けられなくなる。……なら、俺は、危険な現場で『何もしないで立っている』のが正解なのか?」
「カイル……」
「そんなこと、俺にはできない。目の前に助けを求める人間がいたら、俺は体が勝手に動いてしまう。だから……あそこは、今の俺が行くべき場所じゃない」
彼は「仲間を背負い込む」という勇者の呪いから、まだ抜け出せずにいた。
戦う以外にどんな仕事をしたいのか、その答えがまだ見つからないことは、初給料をもらった日にも彼自身が口にしている。
「すまん、レグ。俺は……来月自分がどこで何をしたいのか、どうしても思い浮かばないんだ。……俺には、戦うこと以外の役割がない」
ひどく落ち込んだ声で、カイルはペンを置いた。
以前の俺なら、ここで『勇者対策官』としてのデータを取り出し、「なら次は運送ギルドに行け」と勝手に予定を埋めてやっていただろう。
だが、俺は彼らと結んだ『平和の五か条』を思い出し、ふっと息を吐いた。
「……そうか。なら、白紙でいい」
「えっ?」
「無理に埋める必要はないと言っただろ。やりたいことがないなら、見つかるまで保留だ。適応室で茶でも飲みながら、ゆっくり探せばいい」
俺がカイルの白紙の予定表を回収しようと手を伸ばした、その時だった。
「実習先からの報告を読んだ。継続の希望もあるそうだね」
ノックがして、マヤが扉を開けた。予定していた事業部との打ち合わせの時刻だった。
現れたのは、パリッとした背広を着こなし、報告書に幾つも付箋を貼った初老の男――復興院・英雄事業部長のラザル・フェルンだった。
「ラザル部長……。何か用ですか」
俺が警戒心を露わにして前に出ると、ラザルは上機嫌で一枚の分厚い書類をテーブルに置いた。
「吉報を持ってきてあげたのさ。君たちのここ数週間の職業体験の様子は、王都の市民たちに極めて好意的に受け止められている。剣聖が親方に怒られながら木を削り、大魔導士が泥だらけになって地下を這いずり回り、聖女が若い治療師と共に汗を流す。……遠い存在だった英雄たちが、懸命に庶民の暮らしに馴染もうとしている姿は、大衆の感動と親近感を爆発的に高めているのだよ」
ラザルは、まるで優秀な商品をプレゼンする商人のような口調で語った。
「そこでだ。先日預けた企画を、新聞社と王都の大商会が具体化した。その名も『庶民派英雄・一日密着企画』だ」
「……密着企画、だと?」
「そうだ。彼らの休日や、職場での飾らない労働風景に魔導写影のカメラを密着させ、記事や特集本として大々的に売り出す。彼らが市民と共に笑い、共に働く姿こそが、今のこの傷ついた王国にとって最高の『復興のシンボル』となるのだ」
ラザルは、書類の最後のページを開いて俺に見せた。
「見給え、この数字を。この密着企画の出版権と関連商品の収益予測は、彼らが魔王を討伐した直後の凱旋パレードの時を凌ぐ、過去最高の利益を弾き出している。これがすべて復興基金に回れば、南部の橋の次の工区に着手できる見込みだ」
俺は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「……ふざけるな。職業実習を優先させてくれと、この間も言ったはずだ」
俺はラザルに詰め寄った。
「こいつらは今、必死になって『普通』になろうと不器用に足掻いている最中だ。少しずつ自分の居場所を見つけ始めたばかりなんだ。そこにカメラを向けて、その不器用さを『見世物』として切り売りする気か!」
「見世物などと人聞きの悪い。これは『共有』だよ、レグ対策官」
ラザルは一歩も引かず、冷徹な目で俺を見返した。
「実習の邪魔をしない日を選ぶつもりだ。取材で得た収入を橋へ回せるなら、検討はしてほしい」
取材の時間だけを数えれば、無理のない案に見えた。
ラザルは私腹を肥やすために彼らを売っているのではない。王国を救うため、復興を早めるために、英雄という『資源』を最大効率で運用しようとしているだけだ。
悪意がないからこそ、タチが悪い。
「それにだ」
ラザルは俺の脇をすり抜け、長机の端に座っていたカイルの前に立った。
「カイル君。君の予定表は、ずいぶんと真っ白なようだね」
「あっ……」
カイルが、慌てて白紙の予定表を隠そうとするが、遅かった。
「来月、特にやりたいことがないのなら、ちょうどいい。この密着企画のメインは、君にお願いしようじゃないか。君が休日に王都の街を歩き、買い物をし、市民と触れ合う姿を広報の目玉にしたい」
「俺が……密着企画のメイン?」
「ああ。君には『英雄としての役割』が期待されている。それに、君の生み出す収益が、多くの避難民を救うのだ。都合のつく日があるなら、引き受けてもらえないだろうか?」
ラザルは空いた日程を見ていた。カイルは、白紙にようやく置かれた仕事の名前を見ていた。
カイルは、自分の白紙の予定表を見つめ、そして、諦めたように弱々しく頷いた。
「……わかった。俺にできることなら、やらせてくれ」
「カイル! お前、それでいいのか!」
俺が怒鳴るが、カイルは力なく首を振った。
「いいんだ、レグ。俺には他にやりたいこともないし……これで誰かが助かるなら、俺は俺の役割を果たすだけだ」
「当日は休憩を取る。撮影を止めたい時は、その場で言っていい。この二つは条件に入れます」
マヤが付け加えると、ラザルは同意した。俺はカイルにもう一度尋ねたが、彼の返事は変わらなかった。
ラザルは満足げに頷き、「では、詳細な日程は追ってマヤ実務官に回そう。良い返事が聞けて重畳だ」と言い残して、事務室を去っていった。
ティナは口を開きかけ、カイルを見て黙った。バルドはラザルの置いていった企画書に手を伸ばしかけ、引っ込めた。
カイルは羽ペンを取り直した。
日付の決まっていない予定表の欄外に、『密着企画』と小さく書く。
俺はその紙を受け取った。インクが乾くまで待ってから、マヤに渡した。彼女は三人の予定表を収めたファイルを、もう一度開いた。




