第19話 英雄たちの初給料
「お疲れ様でした。こちらが、あなた方の『短期実習の賃金』になります」
停戦館の事務室で、マヤ実務官が四人の英雄たちの前に、それぞれ薄い茶封筒をコトリと置いた。
木工所、給水局、診療所、そして消防・救助隊。
各々が適応室のカリキュラムとして派遣され、数日間の労働を終えたことに対する、ギルドや施設からの正式な報酬だ。
「これが……賃金」
カイルがそっと封筒を手に取り、中身を机の上に滑らせた。
チャリン、と少し鈍い音がして、数枚の銀貨と銅貨が転がり出る。
それを皮切りに、ティナ、エステル、バルドも自分の封筒を開け、中身を確認した。
四人とも、机の上の硬貨を珍しい魔法生物でも見るかのように、真剣な眼差しで見つめている。
「どうした。少なすぎて不満か?」
俺が壁によりかかりながら尋ねると、カイルは慌てて首を振った。
「いや、違う。俺たちは毎月、王国から功労手当として金貨をもらっているし、魔王を討伐した時の褒賞金もある。だから金に困っているわけじゃないんだが……」
「なら、なんだ」
「……なんだか、とても不思議な感じがしてな。この銀貨と銅貨が、俺の『労働』の対価だということが」
英雄という存在は、国家にとっては神聖な防衛装置だ。彼らに支払われる金は「生きているだけで与えられる地位の証」であり、「過去の戦功への対価」である。それは日々の労働に対して支払われる時給や日当とは、全く質が違う。
俺は腕を組んで頷いた。
「当然だ。お前たちが持っている金貨は、魔王を倒したことへの見返りだ。だが、今目の前にあるその小銭は、お前たちが平和な社会で、自分の手と頭を使って、普通の仕事をして稼いだ初めての『給料』だ」
バルドは老女の家の扉を直した際、すでにこの「日銭の重み」を体験している。彼は自分の銅貨を指先で弾き、静かに目を閉じて満足げに頷いていた。
「その通りだ。この数枚の硬貨は、剣のサビにするには惜しいほど重い」
「ふふっ。私、自分で働いてお金をもらうのなんて初めてです。修道院時代はすべて寄付で賄われていましたから」
エステルが、銀貨を両手で包み込むようにして微笑む。
「さあて、この初給料、何に使おうかしら」
ティナが目を輝かせて硬貨を積み上げ始めた。
初めて稼いだ、少額の給料。
それを何に使うかで、その人間の平和な世界での「軸」が見えてくる。
「ティナ。お前は何を買うつもりだ。新しい魔導書の足しにでもするか?」
俺が聞くと、ティナはチッチッと指を振った。
「違うわよ、レグ。魔導書なんて王立図書館に行けばタダで読めるじゃない。私が欲しいのは……『王都旧市街・地下配管網の詳細設計図』の写しよ!」
「配管図ぅ?」
「ええ! 給水局の分室で見たんだけど、六十年前に作られたあの複雑怪奇なネットワークの図面、本当にゾクゾクするの! あれを手元に置いて、どこをどう繋ぎ直せば一番魔力効率が良くなるか、夜通しシミュレーションしたいのよ!」
どうやら大魔導士は、完全に重度のインフラオタクと化してしまったらしい。
「バルド。お前は?」
「む。私は、木工用の工具だ」
バルドは真顔で答えた。
「親方の鉋を借りて使っているが、やはり自分の手になじむ道具が欲しい。それに、小刀の手入れ用の油も少なくなってきた。……刃を長持ちさせ、『残す』ための研ぎ方を覚えねばならないからな」
「……そうか。親方も喜ぶだろうよ」
すべてを切り捨てていた剣聖が、道具を手入れし、長持ちさせることに金を使おうとしている。俺は内心で深く安堵した。
「エステルはどうする? 少し良い化粧水でも買うか?」
「私は……お菓子を買おうと思っています」
エステルが、少し照れくさそうに言った。
「診療所の待合室の近くにあるパン屋さんで、焼き菓子の詰め合わせが売っていたんです。それを買って、診療所の若い治療師さんたちや、看護長さんに差し入れしたくて」
「差し入れ? お前が食べるんじゃないのか?」
「はい。皆さんがいるから、私は重傷の患者さんに集中できる。そのお礼です。……それに、休憩時間に甘いものを一緒に食べれば、きっともっと色んなお話ができますよね」
彼女は、同じ休憩室で菓子を分ける相手の顔を思い浮かべていた。他者に任せ、他者を労い、組織の中で関係を築こうとしていた。
三人がそれぞれの使い道で盛り上がる中。
一人だけ、沈黙を保っている男がいた。
「……カイル?」
俺が声をかけると、カイルは机の上の硬貨を見つめたまま、微動だにしていなかった。
「おい、どうした。お前は何を買うんだ」
「……」
カイルはゆっくりと顔を上げ、ひどく困惑した、迷子のような瞳で俺を見た。
「わからないんだ、レグ」
「何がだ」
「俺は……何も欲しい物が浮かばない」
その言葉に、ティナたちも会話を止めて彼を見た。
「剣や鎧は国からの支給品で最高のものが揃っている。食事も停戦館で皆で食べるものが一番美味いし、寝る場所もある。……俺は、金をもらって、何かを『欲しい』と思ったことがないんだ」
戦場で十二年間、最前線に立ち続けてきた男。
彼は「自分が先に行けば仲間が生きる」という義務感だけで動いてきた。明日生き残れるかもわからない泥沼の中で、個人的な「物欲」や「趣味」を持つ余裕など、一切なかったのだ。
「なあ、レグ」
カイルの声は、微かに震えていた。
「先日の救助隊の訓練で、隊長に言われたんだ。『自分がいなくても回る隊を作れ』って」
俺は息を呑んだ。救助隊での、俺の読み違いによる訓練崩壊と、その後の隊長からの叱責。
「俺は、俺が全部背負って戦うことでしか、世界と関わってこなかった。だが、平和な世界では、俺が突っ走らなくても、誰かが誰かを助けて世界は回っていく。……その時、俺には一体何が残るんだ?」
カイルは、銀貨を指でなぞった。
「飯なら選べた。だけど仕事の希望となると、何も浮かばない。誰かに頼まれたこと以外の予定が、まだ空白なんだ」
それは、英雄という鎧を脱いだ後に現れた、ただの不器用な二十六歳の青年の、切実な恐怖だった。
他人のためにしか生きてこなかった人間が、いきなり「自分のために生きろ」と言われても、その方法がわからないのだ。
重苦しい沈黙が落ちた事務室で。
「……焦るなよ」
俺は、壁から背中を離し、カイルの前に歩み寄った。
「欲しいものがないなら、無理に使う必要はない。空白なら、これから埋めればいいだけだ」
「だが……」
「お前は、今まで自分のために時間も金も使ってこなかった。だから『欲しがり方』を知らないだけだ。それを見つけるのも、平和の練習だろ」
俺の言葉に、カイルは少しだけ目を丸くした。
「そうね。別に今日明日で無理に使う必要なんてないわ」
ティナがポンと手を打った。
「じゃあ、一枚だけ皆で出し合って、今夜の肉を少しよくしない? カイルが使いたくなければ、私たち三人で出すけど」
「私も出します。残りは、使い道が決まるまで取っておきましょう」
エステルが明るく笑い、バルドも「む。良い肉が食えるのは歓迎だ」と真顔で頷く。
カイルは、きょとんとした後、ふっと表情を緩めた。
「……俺も一枚。前に買ったチーズパンも、また食いたい。今日は自分の分を一つ買う」
「よし、決まりだ。じゃあ今日の買い出し当番はカイル、お前だ。大根を買うのにまた陣形を組んだりするなよ」
「わかっている! 買い物のミッションは得意になったからな!」
カイルは給料袋を懐にしまい、少しだけ弾んだ足取りで事務室を出て行った。
彼ら三人が後を追い、部屋には俺とマヤ実務官が残された。
「……優しいですね、皆さん」
マヤ実務官が、窓の外を歩く彼らの後ろ姿を見ながら呟いた。
「ああ。飯は選べても、仕事となると迷うらしい。答えを急がせたくないな」
俺は、机の上のカレンダーに目を向けた。
もうすぐ月末だ。
「マヤ実務官。そろそろ、来月の『希望予定表』を本人たちに書いてもらう時期だな」
「ええ。準備はできています」
職業体験を経て、それぞれが少しずつ自分の居場所を見つけ始めた。
だが、カイルだけはまだ、何者でもない自分の空白の前に立ち尽くしている。
彼がその予定表に何を書き込むのか、あるいは書き込めないのか。俺は勇者対策官としてではなく、彼らの平和適応係として、その答えを静かに待つしかなかった。




