第17話 治さない勇気
王立第二診療所の『特別処置室』は、重苦しい静寂に包まれていた。
分厚い木の扉一枚を隔てた向こう側――待合室や一般の処置室からは、今日も王都の市民たちのうめき声や、咳き込む音、痛みを訴える声が絶え間なく聞こえてくる。
聖女エステル・リーネは、部屋の中央の丸椅子に背筋を伸ばして座り、膝の上で両手を白くなるほど強く握りしめていた。
看護長と分担を決め直した、翌日のことである。
「……痛いよぉ。お母さん、痛い……」
扉の向こうから、子供の泣き声が聞こえた。
ビクッ、とエステルの肩が跳ねる。彼女の右手が無意識に扉の方へ伸びかけるが、彼女はすぐに左手でその手首を掴み、無理やり膝の上へ引き戻した。
エステルは手を握ったまま、戸口の看護師に声をかけた。
「今の子の状態を、教えていただけますか」
「受付で確認済みです。担当が診ています。手助けが必要なら、すぐに呼びます」
「……分かりました」
戸が閉まる。エステルはまだそちらを見ていた。
「待つのは、しんどいか」
俺が尋ねると、彼女は小さくうなずいた。
「でも、確かめずに飛び出す方が早いからって、それでよいわけではないんですね」
俺はうっかり返事をしかけ、やめた。自分のことも言われた気がした。
「おい、ちょっと待ってくれよ! 奥の部屋に聖女様がいらっしゃるんだろう!?」
不意に、扉の向こうから荒々しい男の声が聞こえた。
「俺は荷運びで腰を痛めちまって、明日も仕事なんだ! 湿布と薬草で三日も休んでたら稼ぎがなくなっちまう! 頼むから、聖女様! 少しでいいからヒールをかけてくれ!」
バンバンッ、と特別処置室の扉が叩かれる。
外の治療師たちが「困ります! 聖女様は重傷の患者様しか診られません!」と止めている声が聞こえるが、男の不満は収まらない。
「なんでだよ! そこに聖女様がいるのに、なんで俺たちは薬草なんかで我慢しなきゃならねえんだ! ケチってないで助けてくれよ!」
痛烈な非難の言葉が、扉越しにエステルに突き刺さる。
エステルは唇を噛み締め、呼吸を荒くした。
俺は立ち上がった。
「受付と話してくる。お前一人で追い返す話じゃない」
エステルも立ったが、男へ治癒をかけに行くのではなかった。戸口で足を止め、声をかける。
「痛みも、お仕事の心配も、担当の方に伝えてください。私も相談には加わります。でも、受付の順番を飛ばしてお一人ずつ奇跡を使うことはできません」
「だったら俺は、どうすりゃいいんだ」
「まず、歩けるかどうかをもう一度診せておくれ」
看護長が男を椅子へ案内した。俺は運送ギルドの相談窓口を確かめに行った。明日の仕事を軽くできるか、休む間の扶助を使えるか。奇跡以外にも、尋ねる先はあった。
男の不満は消えなかった。それでも、エステルが扉を閉める前に、受付へ戻ってくれた。
「……断るだけで、終わらせなくてもいいんですね」
彼女の指が、ようやくほどけた。
「……そうか」
俺が短く答えた直後、扉の向こうの喧噪を切り裂くように、血相を変えた若い治療師が特別処置室に飛び込んできた。
「エステル様! 急患です! 運送ギルドの荷下ろし場でクレーンが倒壊しました! 下敷きになった作業員が三名、意識不明の重体です! うち二名は出血が酷く、脈が……!」
「運び込んでください! すぐに処置を始めます!」
エステルが丸椅子を蹴立てて立ち上がった。
担架で運び込まれてきた作業員たちは、一目で命の危険がわかる惨状だった。骨は砕け、服は血で赤黒く染まり、呼吸は浅く不規則だ。
「バイタル低下! 薬師では止血が追いつきません!」
「私が治癒を。皆さんは、そのまま処置を続けてください」
エステルは両手をかざし、かつて魔王軍の幹部と対峙した時と同じ、凄まじい集中力で魔力を練り上げた。
「大いなる光よ、其の命の欠落を埋め合わせたまえ――『大治癒』!」
眩い黄金の光が、三人の作業員を同時に包み込む。
千切れた血管が繋がり、砕けた骨が本来の形を取り戻し、失われた血液が疑似的な生命力によって補われていく。
もしエステルが午前中から軽症患者にヒールを使い続けていれば、魔力が足りず、三人同時にこの奇跡を行うことはできなかっただろう。
彼女が痛みに耐え、軽傷者を見送って魔力と体力を『温存』していたからこそ、ギリギリの命を繋ぎ止めることができたのだ。
「ふぅ……っ」
数分後、光が収まると、三人の作業員はすやすやと寝息を立てていた。命の危機は完全に脱した。
だが、エステルはそこで治療を終わらせなかった。
「あ、あの……エステル様。凄いです、一瞬で……」
唖然として立ち尽くす若い治療師たちに向かって、エステルは額の汗を拭いながら手招きをした。
「驚いている暇はありません。治癒魔法は万能ではないのです。表面上の傷は塞がりましたが、失った血液が完全に作られたわけではありません。安静が必要です」
「は、はい!」
「この後も様子を見てください。魔法をかける前の状態は、誰が記録しましたか」
若い治療師が手を挙げる。エステルはその記録を一緒に読み、治癒の前後で何が変わったかを順に確認した。
「私が帰った後のことも、引き継いでおきたいんです」
エステルは、神の奇跡をブラックボックスにせず、戦場で数え切れないほどの重傷者を診てきた『経験』から来る観察技術と衛生の知識を、若い治療師たちに惜しみなく教え始めた。
自分が全てを背負うのではなく、他者を育てる。
彼女は今、魔法という暴力的なまでの解決手段を置き、一人の『先輩治療師』として、王都の医療を支えようとしていた。
夕方。
診療所の受付時間が終了し、待合室から患者の姿が消えた。
「お疲れ様でした、聖女様」
記録板を持った看護長が、特別処置室に入ってきた。
「今日の重傷者はあの三名だけでした。……よく我慢しましたね」
看護長の言葉に、エステルは小さく肩をすくめた。
「受付の窓口で、私のことを『冷たい聖女だ』と怒っている患者さんが何人もいたと聞きました」
「ああ、言ってたね。でも、あんたがいなくても、軽症の患者はみんなうちの若い子たちが処置をして、自分の足で家に帰っていったよ。それが『医療』ってやつさ」
看護長はニヤリと笑い、エステルの肩をポンと叩いた。
「今日は、皆で患者を診られた。あんたにも余力がある。明日もこの分担で頼めるかい」
「……はい!」
エステルの顔に、花が咲いたような明るい笑顔が浮かんだ。
俺は壁から背中を離し、エステルに声をかけた。
「帰るぞ、エステル。今日の夕飯当番はカイルだ。モタモタしていると、あいつが厨房を要塞に改造しかねない」
「ふふっ、そうですね。急いで帰りましょう」
エステルは足取りも軽く、俺の横に並んで歩き出した。
王都の大通りを、停戦館に向かって歩く。
ふと、俺は隣を歩く彼女の横顔を見て、一つの事実に気がついた。
いつもなら、広場で奇跡を乱発した後は、顔面を蒼白にし、今にも倒れそうなほど魔力と体力をすっからかんにしていたはずだ。
だが、今日のエステルは、しっかりと自分の足で地面を踏みしめ、息も全く上がっていない。
彼女は今日、初めて自分のために『余力』を残したのだ。
停戦館の厨房では、予想通りカイルが悪戦苦闘していた。
「おい、この玉ねぎという敵は手強いぞ! 切るたびに目に刺激性のガスを放出してきやがる!」
「ゴーグルをして料理をする勇者がどこにいるのよ。貸しなさい、私が風魔法で換気してあげるから」
大騒ぎするカイルとティナの横で、バルドが手製の木べらで鍋の中身をかき混ぜている。
やがて、少しだけ底が焦げついたシチューと、分厚く切りすぎたパンが長机に並べられた。
「さあ、食おう。味の保証はしないが、栄養はあるはずだ」
カイルの合図で、五人でテーブルを囲む。
シチューを一口食べたエステルが、ふふっと笑い声を漏らした。
「カイルさん、少し焦げていますね」
「うっ。火力の調整が難しくてな……。エステルの診療所はどうだった?」
「大変でした。でも、今日は少しだけ、教えることの難しさと面白さがわかった気がします」
エステルはシチューを掬いながら、今日あった出来事を、若い治療師と相談したことも交えながら明るく話し始めた。
バルドが木工所でのカンナがけの難しさを語り、ティナが王都のインフラの愚痴をこぼし、カイルが今日の料理戦線の苦労を大げさに語る。
俺は少し焦げたシチューを飲み込みながら、その光景を静かに見つめていた。
もし今日、エステルが昨日と同じように自己犠牲の治癒を行っていれば、彼女は今頃、このテーブルにはいなかっただろう。泥のようにベッドに倒れ込み、皆と笑い合うこの時間を持てなかったはずだ。
エステルが空の皿を差し出した。
「少し、残っていますか?」
カイルは鍋を覗き、慌てて自分の皿を遠ざけた。
「ある。いや、食べようと思っていたわけじゃないぞ」
「思っていましたね」
彼女は笑って、おかわりを受け取った。




