第16話 聖女の診療所は一人では回らない
剣聖の木工作業、大魔導士のインフラ整備に続き、適応室による『職業体験』の第三弾が幕を開けた。
今回、現場に出るのは聖女エステル・リーネだ。
彼女が選んだのは、王都の庶民が多く暮らす南区にある『王立第二診療所』。怪我人から風邪引きまで、毎日数百人の市民が訪れる大規模な医療施設である。
「レグさん。今日は絶対に、ご迷惑はおかけしませんから」
真っ白な真新しい治療着に身を包んだエステルが、診療所の入り口でギュッと両手を握りしめて宣言した。
「広場で無料治療をしていた時、私は自分の限界を考えずにすべてを引き受けようとして、マヤさんに叱られました。ですから今回は、ちゃんと受付の指示に従い、自分の持ち場を守ります。軽傷の患者さんには手を出さず、一般の治療師の方々の手に負えない重傷者の方のみに奇跡を使います。……誓って」
決意に満ちたその眼差しは、嘘偽りのない本物だった。
俺は腕を組み、小さく頷いた。
「その意気だ。戦場と違って、ここは『お前がいなくても回る』場所だ。お前はただの臨時スタッフだということを忘れるなよ」
「はいっ」
エステルと連れ立って診療所の中に入ると、そこはすでに朝から多くの患者で溢れかえっていた。
慌ただしく行き交う一般治療師たちは、俺の後ろにいるエステルを見た瞬間、ビクッと足を止めて道を開けた。
無理もない。彼らにとって聖女エステルは、教典の中にしか出てこないような「生きた伝説」だ。死の淵にある患者を一瞬で全快させる圧倒的な奇跡の使い手が、いきなり自分たちの職場に現れたのだから、緊張するなという方が無理な話だろう。
「お待ちしておりましたよ、聖女様。それに適応室の担当官殿も」
俺たちを出迎えたのは、五十代半ばと思われる、白髪交じりで鋭い目つきの女性だった。
この第二診療所の現場を束ねる、ベテランの看護長だ。
彼女だけはエステルを見ても畏縮することなく、まるで今日入ってきたばかりの新人を値踏みするように、頭から爪先までをジロリと観察した。
「話は伺っております。重傷者の対応にあたっていただけるとか。しかし、ここには、ここの連携手順があります。いくら聖女様でも、勝手な振る舞いは許されませんよ」
「承知しております。未熟者ですが、ご指導のほどよろしくお願いいたします」
エステルが深々と頭を下げると、看護長は少しだけ表情を緩めた。
「よろしい。では、聖女様は奥の『特別処置室』で待機してください。受付で重傷と判断した患者のみ、そちらへ回します。……さあ、皆! 見とれてないで持ち場に戻りな! 今日も患者は山盛りだよ!」
看護長のゲキが飛び、診療所の慌ただしい日常が再開された。
エステルは約束通り、奥の特別処置室に座り、重傷の患者が運ばれてくるのを静かに待っていた。
俺は少し離れた待合室の隅で壁に寄りかかり、その様子を観察していた。
一時間が経過した。
王都は平和だ。馬車に轢かれたり、魔獣に腹を割かれたりするような急患は、そうそう運ばれてこない。
待合室には熱を出した子供や、指を切った主婦がいた。受付では看護長たちが状態を確かめ、待てる患者と先に診る患者を分けている。
エステルのいる特別処置室の扉は、一度も開いていなかった。
平和な証拠だ。だが、エステルにとっては、その『平和』こそが最大の苦痛だったらしい。
「……痛いよぉ」
待合室で、腕を火傷したらしい少年が泣き声を上げた。
その声が聞こえた瞬間、特別処置室の扉がバンッと開き、青ざめた顔のエステルが飛び出してきた。
俺は舌打ちをした。
彼女はまっすぐに少年の元へ向かうと、治療にあたっていた若い一般治療師の返事を待たずに脇へ入り、少年の腕に手をかざした。
「痛かったですね。もう大丈夫ですよ」
淡い黄金の光が瞬き、少年の火傷の痕が一瞬にして消え去った。
「あ、あの……聖女様? この患者は私が……薬を塗ろうと……」
若い治療師が戸惑いながら声をかける。
「申し訳ありません」
エステルは真剣な顔で振り返った。
「その火傷は、薬草を塗っても痛みが引くまで三日はかかります。今すぐ取り除ける苦痛を、なぜ三日も放置しなければならないのですか? 私がやります」
若い治療師は、反論できずに口を閉ざした。
エステルの行動は、それだけでは終わらなかった。
一人を治した隣で、別の患者が痛みを訴えた。エステルはその声へ向き直り、次の治療師へも声をかけた。
「その包帯を巻く前に、私が傷を塞ぎます」
「熱が下がるまで待つなら、私にも診せてください」
「次の方も、こちらへどうぞ。私が――」
エステルは、次々と他の治療師が担当している処置室に横入りし、彼らの仕事を取り上げ、神の奇跡によって患者を全快させていった。
彼女の行動原理は至ってシンプルだ。
他人の診断技術を信用できないのではない。ただ、「自分がやったほうが確実で、何より『患者が痛まない』から」だ。
結果として何が起きたか。
若い治療師は引き継ぐ言葉を探し、別の担当は、途中で席を移った患者の記録を追っていた。処置より確認に時間が取られ始めた。
逆に患者たちは、「あっちの部屋に行けば、聖女様が一瞬で治してくれるらしいぞ!」と騒ぎ出し、エステルがいる処置室の前にだけ長蛇の列を作り始めた。
受付がつけた順番と、処置室にいる患者が合わなくなった。
診療所のワークフローは、たった一人の「過剰に優秀すぎる聖女」の善意によって、見事に崩壊してしまったのだ。
「……あいつ、またやってるな」
俺は壁際でため息をついた。
俺が処置室へ向かうと、看護長と目が合った。
「担当官さん、外の列を受付へ戻して。こちらは私が話す」
俺はうなずいた。誰の順番が飛ばされたのかを、ここでは俺より看護長が知っている。
「そこまでだよ!!」
混乱の極みに達しつつあった処置室に、鼓膜を劈くような怒声が響き渡った。
現場を取り仕切る看護長が、鬼のような形相でエステルの視界へ入り、手を上げて次の患者を止めた。
「えっ……? か、看護長さん? どうかしましたか、まだ患者さんがこんなに……」
「あんたの今日の治療はここまでだ。裏の休憩室に来な!」
「……はい」
看護長は、エステルが反論する隙も与えず、処置を終えた彼女を休憩室へ連れていった。
そして、若い治療師たちへ向き直る。
「担当を確認し直すよ。受付の順に呼んで。治療が済んだ方も、記録を残してから帰ってもらって!」
その一喝で、凍りついていた診療所が再び動き始めた。
診療所の裏手にある狭い休憩室。
列の整理を終え、看護長に呼ばれて俺も席についた。
エステルは丸椅子に座らされ、その前に仁王立ちした看護長から、雷のような説教を食らっていた。
「聖女様。あんた、自分が今日この診療所で何をやらかしたか、わかっているのかい?」
「……私は、ただ……」
エステルは戸惑いながら、視線を彷徨わせた。
「ただ、皆さんの苦痛を少しでも早く取り除きたかっただけです。一般の治療師の方々の技術を馬鹿にしているわけではありません。でも、薬や包帯では、治るまでに時間がかかる。その間の痛みを、私が取り除けるなら……私がやるべきだと思ったんです。何か、間違っていますか?」
彼女の主張は、優しさから来る純粋な正論だった。
だが、看護長は一刀両断に切り捨てた。
「大間違いだよ」
看護長は腕を組み、冷ややかな目でエステルを見下ろした。
「治した患者は助かった。それは確かだよ。でも、受付を飛ばして人を集めたせいで、来た時より顔色の悪くなった患者を見つけるのが遅れた」
エステルが顔を上げた。
「……悪くなった方が?」
「今は別の治療師が診てる。あんたの列へ移った人を、元の担当が探し回っていたんだ。記録も薬の相談も途中で途切れた。治す速さだけでは埋められない穴だよ」
看護長は机へ受付の記録を置いた。
「誤った処置を見つけたなら止めていい。苦痛を減らす提案もしてほしい。でも、治療を引き継ぐなら担当に声をかけな。ここには、あんたが帰った後も患者を診る者がいる」
「私は、痛がる声を聞いて、待っていられなくて……」
「なら、待つ間にできることを一緒に決めよう。急ぐ患者を見つける、相談を受ける。あんたの力が要る時は、私たちからも必ず呼ぶ。それまで誰も治さないわけじゃない」
「……っ!」
エステルは、言葉を失った。
彼女は戦場で長い間、「自分が限界まで癒やすこと」が部隊を救う唯一の正解だと思い込んで生きてきた。
だが、平和な世界では違う。
目の前の患者を治す速さだけでは、別の場所で待つ患者も、その後の診察も見えなくなる。
「……私は……」
エステルの両手から力が抜け、膝の上に力なく落ちた。
「私は、なんてことを……」
彼女はうつむき、唇を強く噛み締めた。
急いで治すために飛ばした手順が、別の患者を待たせていた。
その事実を受け入れることは、これまで「治さないことへの罪悪感」に苛まれてきた彼女にとって、天と地がひっくり返るほどの価値観の転換を強いるものだった。
「今日は処置を交代しよう。明日来る前に、担当と相談する手順を私と決め直す。それでいいかい?」
エステルはうなずき、まず先ほどの若い治療師へ謝りたいと申し出た。
看護長はその申し出を聞いてから、休憩室を後にして現場へと戻っていった。
俺は受付へ戻り、散らばった記録を元の担当ごとに揃えた。
一枚だけ、引き継ぎ先の欄が空いていた。
「この患者は、今は誰が?」
看護長が処置室を確かめ、担当の名を教えてくれた。俺は書き入れて、記録を届けた。
戻ると、エステルが受付の脇に立っていた。
「明日の手順を、書いておきたいんです。紙を一枚いただけますか」
俺は新しい用紙を渡した。エステルはそれを持って、看護長の机へ向かった。




