第15話 見えない魔法が一番すごい
泥と錆の匂いが充満する、王都給水局の地下空間。
ティナが魔力探知で特定した旧市街地下の漏水箇所では、ランタンの薄暗い灯りの中、現場の技師たちが徹夜で修復作業に当たっていた。
彼らはつるはしで地面を掘り返し、泥にまみれながら古い鉄管を切断し、新しい継ぎ手を必死に溶接している。
大魔導士ティナ・ウェルドは、その様子を腕を組んだまま、じっと無言で見つめていた。
戦場において、彼女の指先一つで更地にできない要塞はなかった。だが、何十年も前に敷設され、複雑に絡み合ったこの老朽化した配管ネットワークを「直す」魔法を、彼女は持っていない。
魔法で熱を加えすぎれば管は溶け、接着の魔法を使えば強度が偏って別の箇所が割れる。
結局のところ、インフラの維持というのは、こうして人間の手で泥臭く一つずつ不具合を潰していくしかないのだ。
「……よし、第七配管の接合完了だ! 漏れはねえな!」
朝焼けが空を白ませ始めた頃、泥だらけの技師長が声を張り上げた。
周囲の技師たちが疲労の色を滲ませながらも、安堵の息を吐く。
「お疲れ様です、技師長。これで王都の水圧は戻りますかね?」
若い技師の問いに、技師長はしかし、渋い顔で首を横に振った。
「いや……一番のガンだったここの漏れは塞いだが、ポンプの出力を元に戻せば、全体の水圧が一気に上がる。そうなれば、今度は別の薄くなってる管が水圧に耐えきれずに破裂するかもしれねえ。王都全体の管を新品に交換する予算なんてねえんだから、結局はだましだましバルブを調整して、弱い水圧で我慢してもらうしかねえだろうな」
根本的な解決にはならない。その事実に、現場の空気が重く沈んだ。
「なら、私が水圧を安定させるわ」
不意に、ずっと沈黙していたティナが一歩前に出た。
技師たちがビクッと肩を震わせる。昨日の「最適化」による大破裂の記憶が新しいからだ。
「ま、待ってくれティナ様! これ以上圧をかけられたら、今度こそ王都の地下が全滅する!」
「昨日みたいな大雑把な魔力の流し方はしないわ」
ティナは真剣な眼差しで、技師長を見据えた。
「あなたたちが泥だらけになって直した管を、また壊すような真似はしない。……私に、魔導ポンプの制御盤を貸して。昨日のデータと今の修復結果を合わせて、完璧な『補助』をしてあげるから」
給水局分室の、魔導ポンプ制御室。
ティナは大きな制御盤の前に座り込み、深く息を吸って目を閉じた。
「技師長。まず第七区画だけ。赤い線を越えたら、遮断弁を閉じて」
「分かってる。次の区画へ移す前にも、一度止めろよ」
「レグは計器の読みを記録して。昨日と比べたいの」
「了解。俺にもできる安全装置で助かる」
俺が背後の壁によりかかって答えると、ティナの細い指先が制御盤の魔力回路に触れた。
「術式構築開始。王都給水ネットワーク全域の魔力流と同期……」
ティナの指先から、ごく僅かな、蛍の光よりも淡い魔力が流れ込んでいく。
それは、魔王軍を焼き尽くしたあの暴力的な閃光とは似ても似つかない、極めて繊細で静かな魔力の糸だった。
「……第七区画、老朽化による管の薄肉化を確認。まず、ここの圧を均すわ」
技師長が計器を確かめ、頷いた。ティナは一度出力を止め、次の区画へ進む。その確認を繰り返し、第一区画から第六区画にも補助を広げていった。
ティナの額に、じわっと汗が滲む。
彼女は今、自分の魔力を何万本もの細い糸に分け、王都の地下を這う水道管のネットワーク全体に巡らせているのだ。
負荷がかかりすぎている継ぎ目には、魔力のクッションを挟んで圧を逃がす。
水流が滞っている箇所には、水が管を傷つけないように滑らかに誘導する。
それは、巨大な建造物を一撃で破壊するよりも、はるかに高度で、はるかに神経をすり減らす作業だった。
「圧力、徐々に上昇……配管への負荷は規定値内に収束。魔力被膜による管内壁の保護、安定……」
ティナはブツブツと数式を呟きながら、指先の感覚だけで、見えない地下の水をコントロールし続けていた。
一切の光も、音も、衝撃もない。
ただ、制御盤の計器の針だけが、少しずつ、少しずつ上昇し、そして「理想的な規定値」のラインでピタリと止まった。
やがて、完全に夜が明け、王都の朝が始まった。
市民たちが一斉に目を覚まし、顔を洗い、朝食の準備のために水を使い始める、給水ネットワークに最も負荷がかかるピークの時間帯だ。
分室の監視室では、技師長をはじめとする技師たちが、壁に並んだ各区画の水圧計を、祈るような、あるいは絶望を待つような顔で食い入るように見つめていた。
「……おい。針は、どうなってる」
技師長が、汗を拭いながら声を絞り出す。
「だ、第一区画から第三区画……水圧低下なし! 規定値で完全に安定しています!」
「昨日破裂した第五区画は!?」
「異常なし! 振動も漏水反応もゼロです!」
「旧市街の第七区画……今までチョロチョロとしか水が出なかったエリアですが……現在、全戸で勢いよく水が出ているとの報告が入りました!」
次々と上がる報告に、技師長は信じられないというように目を見開いた。
魔力による補助を受けた老朽化した配管たちは、朝のピークの負荷を完璧に分散し、制御の対象になった区画の蛇口へ、均等で十分な水を送り届けていたのだ。
「……信じられねえ」
技師長が、震える手で制御盤の前に座るティナを見た。
「あんた、魔法で管を強化したんじゃねえのか? どうやって……」
「強化なんかしたら、硬度が増して逆に割れやすくなるわ」
ティナは疲労で顔を青白くしながらも、ふっと口角を上げた。
「私はただ、水の流れを邪魔しないように、管にかかるストレスを魔力で少しだけ『均した』だけよ。あなたたちが昨日の夜、泥まみれになって鉄管を繋ぎ直すのを見てわかったの。インフラは、力でねじ伏せるものじゃない。寄り添って、調整するものなんだって」
その言葉に、技師長は深く息を吐き出し、そして、深く頭を下げた。
「……恐れ入った。大魔導士様。あんたの魔法は、本物だ」
朝のピーク時間が過ぎ、ティナが調整値を制御盤の自動運転へ移し、通常の蓄魔石で動くことと、異常時には元の低圧運転へ戻せることを技師たちと確かめてから、俺たちは給水局を後にした。
王都の大通りは、すでに多くの市民で賑わっていた。
八百屋の店先では、店主が勢いよく出る水で野菜を洗い、井戸端では主婦たちが「今日はやけに水がよく出るねえ」と笑い合いながら洗濯をしている。
だが、その光景の中に、ティナの魔法の痕跡を見つけることはできなかった。
空を焦がす炎も、大地を揺るがす爆発もない。だから、通りを歩く誰も、彼女が徹夜で王都の水を守り抜いたことなど知る由もなかった。
「おい、ティナ」
俺は、ふらふらと歩く彼女の背中に声をかけた。
「誰も魔法を見ていないし、拍手もない。お前がやった偉業に、誰も気づいちゃいないぞ」
つい先日までなら、本人から成果を説明しに行ったかもしれない。
最大火力の魔法で敵を殲滅し、味方から圧倒的な称賛と畏敬を集めること。それが戦場における彼女の「報酬」だったからだ。
俺の意地悪な問いかけに、ティナは立ち止まり、朝日を浴びる王都の街並みを見渡した。
「……レグ。当たり前じゃない」
彼女は振り返り、ひどく疲れ切った顔で、だが最高に誇らしげな笑顔を見せた。
「インフラが完璧に機能している時、人はその存在を意識しないのよ。誰も私の魔法に気づかず、誰も私に感謝せず、ただ『普通に水が出る』と思って笑っている」
彼女は自分の指先を太陽の光に透かした。
「それが、私の制御が完全に成功したっていう何よりの証拠だわ。……ふふっ。爆発も光もない、誰にも気づかれない魔法。これが、私の新しい最高傑作よ」
その言葉を聞いて、俺は思わず小さく吹き出した。
ティナは空中に指で何かの式を書き、途中でやめた。水桶を運ぶ必要のなくなった子どもが、その脇を駆けていった。
「そうかよ。じゃあ、最高傑作の完成祝いに、帰ったらゼリー寄せでも食うか」
「当然よ。頭を使いすぎて糖分が足りないわ。急いで帰るわよ、レグ!」
ティナは足取りも軽く、停戦館への道を歩き出した。
技師長が、点検の時刻を忘れるなと後ろから呼んだ。
ティナは振り向かず、図面を高く掲げて応えた。




