第13話 一枚の扉を直す
剣聖バルド・グレンが王都の『ガラン家具工房』で見習いとして働き始めてから、数日が経過した。
この日、俺は定期報告と監視を兼ねて、昼過ぎに工房へと顔を出した。
「おう、適応室の旦那か。ちょうどいいところに来たな」
頭に手ぬぐいを巻いた親方が、鉋の刃を研ぎながら俺に声をかけてきた。
「今日は工房の中での作業じゃねえ。これから得意先の『現場』に出るんだ。バルドの奴も連れて行くから、旦那もついてきな」
「現場? 出張修理か何かですか」
「ああ。お得意さんから、玄関の扉が歪んで閉まりにくいって相談があってな」
親方が顎でしゃくった先には、首からタオルを下げ、木屑まみれの分厚いエプロンを着込んだバルドの姿があった。彼の背中にはあの物騒な大剣ではなく、ノコギリや金槌がぎっしり詰まった『職人の道具箱』が背負われている。
「親方。準備は完了した。いつでも出撃できる」
「だから出撃じゃねえっての。……まあいい、行くぞ」
親方を先頭に、俺とバルドは王都の下町を歩き出した。
すれ違う市民の中には、バルドの巨体と鋭い眼光を見て「剣聖様だ」と気づいて道を譲る者もいた。だが、背中に大工道具を背負い、親方の後ろを大人しくついていく姿は、魔王軍を震撼させた狂戦士というよりは、ただの「体の大きな見習い職人」に見えなくもなかった。
目的の現場は、王都の端にある小さな古い民家だった。
「やあ、ガランさん。忙しいのにごめんねぇ」
出迎えてくれたのは、腰の曲がった人の良さそうな老女だった。
「いやいや、いいってことよ。ばあさん、扉の調子が悪いんだって?」
「そうなんだよ。ここ数日、扉が枠に引っかかって、力一杯押し込まないと鍵がかからないのさ。隙間風も入ってくるし、困っちまってねぇ」
老女が指差した木製の玄関扉は、確かに少し傾いているように見えた。
親方は扉を何度か開け閉めし、木枠の音を確認してから、後ろに控えていたバルドに視線を向けた。
「おい、バルド。お前さん、この扉がなんで閉まらねえのか、わかるか?」
「……観察しろ、ということだな」
バルドは静かに頷き、扉の前に立った。
以前の彼なら、目の前で「扉が閉まらない」という問題(障害)が発生した時点で、間違いなく「ならば木枠ごと切り落とすか、扉を破壊して新しいものを付け直せばいい」という戦場の思考に直結していただろう。
だが、工房での初日に「欠点を残せ」と怒鳴られて以来、彼はすぐには刃物を抜かなくなった。
バルドはじっと扉を見つめ、蝶番の金属部分に触れ、木枠の隙間に指を滑らせる。
彼の研ぎ澄まされた剣士としての眼力が、今度は敵の急所ではなく、木材の構造に向けられていた。
「……わかるぞ」
バルドが、低くつぶやく。
「蝶番の上のネジが緩み、扉全体の『重心』が右下にズレている。さらに、昨今の春の湿気で木材の下部がわずかに膨張し、木枠との『間合い』が完全に潰れている。結果、扉の右下が枠に干渉し、摩擦を生んでいるのだ」
「へえ……」
親方が、感心したように口笛を吹いた。
「大正解だ。お前さん、やっぱりモノの重心と構造を見切る目だけは一流だな」
「相手の動き(建付け)の不自然さを読み取るのは、私の本分だからな」
バルドは真顔で答えた。剣の達人にとって、数ミリの間合いのズレや重心の傾きを見抜くことなど、呼吸をするのと同じくらい容易いことなのだろう。
「よし。原因がわかったなら、直し方もわかるな? やってみな」
親方の指示を受け、バルドは背中の道具箱を下ろした。
「……承知した」
バルドはまず、懐から小さなドライバーを取り出し、蝶番の緩んだネジを締め直して扉の重心を本来の位置に戻した。
次に、彼が手に取ったのは『小鉋』と『紙やすり』だった。
「干渉している箇所を、削る」
親方に当たりを確かめてもらい、バルドは扉の下端に鉋を当て、スッ……と音を立てて削り始めた。
その手つきに、俺は思わず息を呑んだ。
力任せではない。鉋の刃が木材の表面を滑るスピードも、刃を押し付ける力加減も、信じられないほど均一だった。
シュッ……。シュッ……。
紙一枚の厚さにも満たない薄い木屑が、まるで雪のようにふわりと落ちる。
戦場で、敵の鎧の隙間を寸分違わず切り裂いてきた、あのミリ単位の剣技の精密さ。それが今、この小さな玄関先で、「木材を削り、形を整える」ための技術として見事に転用されていた。
「……よし。どうだ」
バルドは何度か鉋をかけた後、今度は紙やすりで表面を滑らかに仕上げた。
そして、扉の取っ手を握り、静かに押し込む。
カチャリ。
先ほどまでは力一杯押し込まなければ閉まらなかった扉が、引っかかる音もなく滑らかに動き、小気味よい音を立てて枠に収まった。
「……完璧だ。間合いの干渉は完全に消滅した」
バルドが満足げに頷くと、ずっと作業を見ていた老女がパッと顔を輝かせた。
「まあ! すごいわ! 新品みたいにスムーズに動くじゃないの!」
老女は扉を何度か開け閉めし、本当に嬉しそうに笑った。
「ありがとう、職人さん! あんた、体が大きいから最初は少し怖かったけど、すっごく器用で丁寧な仕事をするんだねぇ。さすがガランさんのところのお弟子さんだわ!」
老女の言葉に、バルドはピクリと肩を震わせた。
「……職人、さん?」
バルドが目を丸くして老女を見下ろす。
老女はバルドが『剣聖』であることなど全く気付いていない様子だった。彼女の目には、バルドの凄まじい戦闘力も、戦場での恐ろしい武勲も映っていない。
ただ、「自分の困りごとを直してくれた、腕のいい修理工」として、純粋な感謝を向けているのだ。
「い、いや。私は、その……親方の指示通りにやったまでだ」
バルドは、戦勝の褒賞を受けた時にも見せなかった、ひどく照れくさそうな、戸惑った顔をして後頭部を掻いた。
彼が今まで浴びてきたのは、「魔獣を一刀両断したことに対する、驚愕と恐怖の入り混じった歓声」ばかりだったはずだ。
だが今、彼は『誰も驚かない普通の仕事』を完遂し、ささやかな日常の感謝を受け取っていた。
俺は壁によりかかりながら、破壊の化身だった男が、少しずつ『職人の顔』になりつつあるのを見て、内心で小さくガッツポーズをした。
「お疲れさん。よくやったな、バルド」
老女の家を出て、夕焼けに染まる王都の道を歩きながら、親方がバルドの背中を叩いた。
「重心を見抜く力も、削る手つきも文句なしだ。お前さん、本当に木工の才能があるかもしれねえぞ」
「……過分な評価だ。だが、悪くない気分だ」
バルドが真面目な顔で頷く。
すると親方は、腰の革袋からチャリンと音を立てて数枚の硬貨を取り出し、バルドの大きな手のひらに乗せた。
「ほらよ。修理代とは別に、ばあさんがお前さんへって渡してきた礼だ。給料は実習の締め日にまとめて払うから、これは受け取っときな」
バルドの手に乗せられたのは、くすんだ色の銅貨が三枚だった。
「これは……?」
「扉を直したお前さんへの、お客からの礼だよ」
バルドは立ち止まり、手の中の銅貨をじっと見つめた。
魔王討伐の英雄である彼らには、王国から戦功に対する固定の『功労手当』が毎月支払われている。凱旋した時には、褒賞として金貨の山も受け取っているはずだ。
それに比べれば、銅貨三枚など、道端の石ころのような価値しかないだろう。
だが、バルドはまるで国宝級の魔剣でも見るかのように、真剣な眼差しでその銅貨を陽の光に透かしていた。
「……おい。もしかして、少なすぎて文句があるのか?」
俺がからかうように尋ねると、バルドはゆっくりと首を横に振った。
「いや……」
彼は銅貨をそっと握りしめ、その感触を確かめるように目を閉じた。
「今まで私が得てきたのは、何かを殺し、切り捨てることで得た褒賞だった。……だが、これは違う。私が何かを『直し』、『残した』ことで得たものだ」
バルドは目を開き、夕陽に照らされた自分の手と、親方の背中を交互に見た。
「不思議なものだな、レグ。……この小さな銅貨三枚が、魔王を討った時の金貨の山よりも、ずっと重く感じる」
「……そうか」
俺は短く答えた。
バルドは三枚を、普段の財布とは別の小袋へ入れた。
「結び目は緩くしておけよ」
「わかっている。使うための金だからな」
そう言いながら、袋を二度、確かめていた。




