タイトル未定2026/09/15 12:47
第9話 せっかく来たんやから
朝の空気が冷たかった。
車の窓を少し開ける。
吐き気がした。
「……気持ち悪い」
酒が残っている。
頭も重い。
目の奥が痛い。
眠い。
それでも、試験会場へ向かった。
一年間。
この日のために勉強してきた。
酒を断った。
麻雀を断った。
パチンコを断った。
友人からの誘いも断った。
模擬試験の点数も、68%から90%まで上がった。
何度も参考書を開いた。
仕事で疲れていても、机に向かった。
だから――。
「今日だけは……」
そう思った。
「今日だけは、ちゃんと受けよう」
◇
会場に着いた。
駐車場に車を停める。
エンジンを切った。
しばらく動けなかった。
「眠い……」
目を閉じると、そのまま眠ってしまいそうだった。
顔を上げる。
会場へ向かう受験者たちが歩いている。
若い人。
自分と同じくらいの年齢の人。
参考書を持った人。
最後まで問題集を確認している人。
みんな、今日のために準備してきたんだろう。
俺も、その一人だった。
……昨日までは。
「よしおさん?」
突然、後ろから声がした。
振り返る。
「……あ」
会社の若い社員だった。
「おはようございます」
「ああ……おはよう」
「よしおさんも受験ですか?」
「そうや」
彼は俺の顔を見て、少し眉をひそめた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫や」
「顔色、悪いですよ」
「ちょっと寝不足なだけや」
「昨日、勉強してたんですか?」
俺は答えられなかった。
その瞬間。
彼の視線が止まった。
「……よしおさん」
「ん?」
「昨日、飲んでました?」
「……」
俺は目を逸らした。
「ちょっとだけや」
「昨日って……」
「うん」
「試験前日ですよね?」
「……そうや」
彼は何も言わなかった。
ただ、少し困ったような顔をした。
「よしおさん、ずっと頑張ってたじゃないですか」
「……」
「模試、90%まで上がったって聞きました」
「まあ……」
「だから、僕……」
彼は言葉を止めた。
「何?」
「いや……すみません」
「何や?」
「……頑張ってください」
「ああ」
彼は先に会場へ入っていった。
俺はその背中を見送った。
胸が痛かった。
◇
試験が始まった。
「始めてください」
問題用紙をめくる。
一問目。
読んだ。
頭に入らない。
もう一度読む。
眠い。
二問目。
また読む。
昨日までなら、分かったはずの問題だった。
「……なんやこれ」
頭がぼんやりしている。
酒のせいなのか。
睡眠不足のせいなのか。
両方だった。
それでも必死に解いた。
分かる問題を探す。
覚えていることを思い出す。
途中で何度も時計を見た。
時間だけが進んでいく。
最後まで解いた。
見直した。
でも、自信がなかった。
「終了してください」
鉛筆を置いた。
終わった。
一年間の努力が。
たった一晩で、こんなにも不確かなものになった。
◇
会場を出る。
外は晴れていた。
気持ちいい天気だった。
俺だけが、どんよりしていた。
若い社員が声をかけてきた。
「よしおさん」
「ん?」
「お疲れさまでした」
「ああ」
「どうでした?」
「分からん」
「そうですか……」
彼は少し迷ってから言った。
「昨日のこと、上司には言わないほうがいいですか?」
俺は黙った。
「……いや」
小さく首を振った。
「言ってくれ」
「え?」
「俺が何したか、ちゃんと伝えてくれ」
「でも……」
「ええねん」
俺は笑った。
「俺がやったことやから」
彼は黙って頷いた。
◇
その日の夕方。
会社に戻った。
上司がいた。
「よしおさん」
「はい」
「試験、お疲れさまでした」
「……はい」
「どうでした?」
「分かりません」
「そうですか」
上司は椅子を引いた。
「座ってください」
俺は座った。
「昨日、何してました?」
心臓が跳ねた。
「……」
「田中さんから聞きました」
俺は下を向いた。
「飲んでました」
「はい」
「麻雀もしてました」
「はい」
「朝まで……」
「そうですか」
怒られると思った。
机を叩かれるかもしれない。
「何やってるんですか」
そう言われると思っていた。
でも、上司は怒鳴らなかった。
しばらく黙っていた。
そして静かに言った。
「よしおさん」
「はい」
「僕は、この半年間のよしおさんを見てきました」
「……」
「仕事が終わってから勉強してましたよね」
「はい」
「飲みの誘いも断ってました」
「はい」
「麻雀も断ってました」
「……はい」
「朝、現場に来るのも以前より楽そうでした」
俺は黙って聞いていた。
「模擬試験も90%まで上がった」
「……はい」
「だから、僕は本当に期待していました」
胸が痛くなった。
「でも……」
上司は一度、言葉を止めた。
「昨日の話を聞いて、残念でした」
「……すみません」
「謝ってほしいわけじゃありません」
「え?」
「よしおさんが誰に謝るかは、僕には関係ありません」
上司はまっすぐ俺を見た。
「ただ、一つだけ聞きたいです」
「……何ですか?」
「昨日、断れなかったんですか?」
俺は答えられなかった。
「それとも――」
上司が続けた。
「断らなかったんですか?」
胸を突かれた。
俺は俯いた。
「……断れませんでした」
「本当に?」
「……」
「よしおさん」
静かな声だった。
「昨日、誰かに無理やり酒を口に入れられましたか?」
「……いや」
「無理やり麻雀の席に座らされましたか?」
「……いや」
「車に押し込まれて連れて行かれましたか?」
「違います」
「じゃあ――」
上司はそれ以上言わなかった。
俺自身に答えさせようとしていた。
「……俺が行きました」
「はい」
「俺が座りました」
「はい」
「俺が飲みました」
「はい」
声が震えた。
「俺が……帰らなかった」
上司は黙っていた。
その沈黙が、一番苦しかった。
「よしおさん」
「はい」
「この一年、あなたがどれだけ頑張っていたか、僕たちは知っています」
俺は顔を上げた。
「だからこそ、残念です」
その言葉が、胸に刺さった。
怒鳴られるよりも。
責められるよりも。
ずっと苦しかった。
「……すみません」
俺はもう一度、そう言った。
上司は小さく頷いた。
「今日はもう帰ってください」
「はい」
「ゆっくり休んでください」
「……はい」
俺は立ち上がった。
会社を出る。
外はもう暗かった。
スマートフォンを見る。
友人からメッセージが来ていた。
『昨日は楽しかったな!』
『またやろうや!』
俺はその画面をしばらく見つめた。
怒りはなかった。
憎しみもなかった。
ただ――。
自分が情けなかった。
そして、初めて気づき始めていた。
俺の人生を壊したのは、友人だけじゃない。
誘われるたびに、
「まあ、ええか」
と言ったのも俺だった。
帰ろうと思ったのに、
「せっかく来たんやから」
と言われて残ったのも俺だった。
酒を飲んだのも。
麻雀をしたのも。
試験前日に人生で一番大切な一年間を手放したのも――。
全部、俺だった。




