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『52歳の僕が、23歳の君に振られた理由』  作者: こうた


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9/10

タイトル未定2026/09/15 12:47

第9話 せっかく来たんやから


 朝の空気が冷たかった。


 車の窓を少し開ける。


 吐き気がした。


「……気持ち悪い」


 酒が残っている。


 頭も重い。


 目の奥が痛い。


 眠い。


 それでも、試験会場へ向かった。


 一年間。


 この日のために勉強してきた。


 酒を断った。


 麻雀を断った。


 パチンコを断った。


 友人からの誘いも断った。


 模擬試験の点数も、68%から90%まで上がった。


 何度も参考書を開いた。


 仕事で疲れていても、机に向かった。


 だから――。


「今日だけは……」


 そう思った。


「今日だけは、ちゃんと受けよう」


     ◇


 会場に着いた。


 駐車場に車を停める。


 エンジンを切った。


 しばらく動けなかった。


「眠い……」


 目を閉じると、そのまま眠ってしまいそうだった。


 顔を上げる。


 会場へ向かう受験者たちが歩いている。


 若い人。


 自分と同じくらいの年齢の人。


 参考書を持った人。


 最後まで問題集を確認している人。


 みんな、今日のために準備してきたんだろう。


 俺も、その一人だった。


 ……昨日までは。


「よしおさん?」


 突然、後ろから声がした。


 振り返る。


「……あ」


 会社の若い社員だった。


「おはようございます」


「ああ……おはよう」


「よしおさんも受験ですか?」


「そうや」


 彼は俺の顔を見て、少し眉をひそめた。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫や」


「顔色、悪いですよ」


「ちょっと寝不足なだけや」


「昨日、勉強してたんですか?」


 俺は答えられなかった。


 その瞬間。


 彼の視線が止まった。


「……よしおさん」


「ん?」


「昨日、飲んでました?」


「……」


 俺は目を逸らした。


「ちょっとだけや」


「昨日って……」


「うん」


「試験前日ですよね?」


「……そうや」


 彼は何も言わなかった。


 ただ、少し困ったような顔をした。


「よしおさん、ずっと頑張ってたじゃないですか」


「……」


「模試、90%まで上がったって聞きました」


「まあ……」


「だから、僕……」


 彼は言葉を止めた。


「何?」


「いや……すみません」


「何や?」


「……頑張ってください」


「ああ」


 彼は先に会場へ入っていった。


 俺はその背中を見送った。


 胸が痛かった。


     ◇


 試験が始まった。


「始めてください」


 問題用紙をめくる。


 一問目。


 読んだ。


 頭に入らない。


 もう一度読む。


 眠い。


 二問目。


 また読む。


 昨日までなら、分かったはずの問題だった。


「……なんやこれ」


 頭がぼんやりしている。


 酒のせいなのか。


 睡眠不足のせいなのか。


 両方だった。


 それでも必死に解いた。


 分かる問題を探す。


 覚えていることを思い出す。


 途中で何度も時計を見た。


 時間だけが進んでいく。


 最後まで解いた。


 見直した。


 でも、自信がなかった。


「終了してください」


 鉛筆を置いた。


 終わった。


 一年間の努力が。


 たった一晩で、こんなにも不確かなものになった。


     ◇


 会場を出る。


 外は晴れていた。


 気持ちいい天気だった。


 俺だけが、どんよりしていた。


 若い社員が声をかけてきた。


「よしおさん」


「ん?」


「お疲れさまでした」


「ああ」


「どうでした?」


「分からん」


「そうですか……」


 彼は少し迷ってから言った。


「昨日のこと、上司には言わないほうがいいですか?」


 俺は黙った。


「……いや」


 小さく首を振った。


「言ってくれ」


「え?」


「俺が何したか、ちゃんと伝えてくれ」


「でも……」


「ええねん」


 俺は笑った。


「俺がやったことやから」


 彼は黙って頷いた。


     ◇


 その日の夕方。


 会社に戻った。


 上司がいた。


「よしおさん」


「はい」


「試験、お疲れさまでした」


「……はい」


「どうでした?」


「分かりません」


「そうですか」


 上司は椅子を引いた。


「座ってください」


 俺は座った。


「昨日、何してました?」


 心臓が跳ねた。


「……」


「田中さんから聞きました」


 俺は下を向いた。


「飲んでました」


「はい」


「麻雀もしてました」


「はい」


「朝まで……」


「そうですか」


 怒られると思った。


 机を叩かれるかもしれない。


「何やってるんですか」


そう言われると思っていた。


 でも、上司は怒鳴らなかった。


 しばらく黙っていた。


 そして静かに言った。


「よしおさん」


「はい」


「僕は、この半年間のよしおさんを見てきました」


「……」


「仕事が終わってから勉強してましたよね」


「はい」


「飲みの誘いも断ってました」


「はい」


「麻雀も断ってました」


「……はい」


「朝、現場に来るのも以前より楽そうでした」


 俺は黙って聞いていた。


「模擬試験も90%まで上がった」


「……はい」


「だから、僕は本当に期待していました」


 胸が痛くなった。


「でも……」


 上司は一度、言葉を止めた。


「昨日の話を聞いて、残念でした」


「……すみません」


「謝ってほしいわけじゃありません」


「え?」


「よしおさんが誰に謝るかは、僕には関係ありません」


 上司はまっすぐ俺を見た。


「ただ、一つだけ聞きたいです」


「……何ですか?」


「昨日、断れなかったんですか?」


 俺は答えられなかった。


「それとも――」


 上司が続けた。


「断らなかったんですか?」


 胸を突かれた。


 俺は俯いた。


「……断れませんでした」


「本当に?」


「……」


「よしおさん」


 静かな声だった。


「昨日、誰かに無理やり酒を口に入れられましたか?」


「……いや」


「無理やり麻雀の席に座らされましたか?」


「……いや」


「車に押し込まれて連れて行かれましたか?」


「違います」


「じゃあ――」


 上司はそれ以上言わなかった。


 俺自身に答えさせようとしていた。


「……俺が行きました」


「はい」


「俺が座りました」


「はい」


「俺が飲みました」


「はい」


 声が震えた。


「俺が……帰らなかった」


 上司は黙っていた。


 その沈黙が、一番苦しかった。


「よしおさん」


「はい」


「この一年、あなたがどれだけ頑張っていたか、僕たちは知っています」


 俺は顔を上げた。


「だからこそ、残念です」


 その言葉が、胸に刺さった。


 怒鳴られるよりも。


 責められるよりも。


 ずっと苦しかった。


「……すみません」


 俺はもう一度、そう言った。


 上司は小さく頷いた。


「今日はもう帰ってください」


「はい」


「ゆっくり休んでください」


「……はい」


 俺は立ち上がった。


 会社を出る。


 外はもう暗かった。


 スマートフォンを見る。


 友人からメッセージが来ていた。


『昨日は楽しかったな!』


『またやろうや!』


 俺はその画面をしばらく見つめた。


 怒りはなかった。


 憎しみもなかった。


 ただ――。


 自分が情けなかった。


 そして、初めて気づき始めていた。


 俺の人生を壊したのは、友人だけじゃない。


 誘われるたびに、


「まあ、ええか」


と言ったのも俺だった。


 帰ろうと思ったのに、


「せっかく来たんやから」


と言われて残ったのも俺だった。


 酒を飲んだのも。


 麻雀をしたのも。


 試験前日に人生で一番大切な一年間を手放したのも――。


 全部、俺だった。

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