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『52歳の僕が、23歳の君に振られた理由』  作者: こうた


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8/10

第8話 前日の電話



 車のエンジンをかけた。


 時計は午後10時40分。


 本来なら、もう寝ている時間だった。


 明日は朝から試験。


 受験票もある。


 筆記用具も用意した。


 参考書も一通り確認した。


 一年間、準備してきた。


 それなのに――。


 俺は今、友人のところへ向かっている。


「人が死ぬかもしれん……」


 電話で聞いた言葉が、頭から離れなかった。


 何が起きたんや。


 事故か?


 金の問題か?


 誰かが怪我したのか?


 俺が行かなかったら、本当に取り返しのつかないことになるんじゃないか。


 そんなことを考えているうちに、目的地に着いた。


     ◇


 玄関を開ける。


「よしお!」


 友人が出てきた。


「大丈夫なんか?」


「ああ、来てくれたか」


「何があったんや?」


「まあ、上がってくれ」


「いや、その前に説明してくれ」


「中におるから」


 嫌な予感がした。


 居間に入る。


 そこには、友人の奥さんが座っていた。


 腕を組み、明らかに機嫌が悪い。


「……何や、これ」


「いや……」


 友人が頭を掻いた。


「ちょっと夫婦で揉めててな」


「…………」


 俺は何も言えなかった。


「これだけ?」


「まあ……」


「人が死ぬかもしれんって言うたやろ」


「いや、言葉のあやや」


「言葉のあや?」


 頭の中が真っ白になった。


「俺、明日試験やぞ」


「分かってるって」


「一年間、勉強してきたんや」


「知ってる」


「それでも呼んだんか?」


「……悪かったって」


 俺は時計を見た。


 午後11時12分。


「俺、帰るわ」


 立ち上がった。


 玄関へ向かう。


 そのときだった。


「まあまあ、せっかく来たんやから」


 別の友人が言った。


「一局だけやろうや」


「いや、帰る」


「明日試験なんやろ?」


「そうや」


「なら、一局やって寝たらええやん」


「無理や」


「よしお、昔は朝までやってたやん」


「昔とは違う」


 自分でも驚くほど、はっきり言った。


「俺は変わったんや」


 一瞬、部屋が静かになった。


「……変わった?」


「ああ」


「資格の勉強してるからって?」


「そうや」


「真面目になったなあ」


 笑い声が起こった。


 俺は笑えなかった。


「俺、本気で取りたいねん」


「分かってるって」


「この一年、飲みにも行かんかった」


「そういや、最近付き合い悪かったな」


「麻雀もパチンコも行ってない」


「だから今日はええやん」


「なんでやねん」


「せっかく来たんやから」


 その言葉が、胸に引っかかった。


 昔からそうだった。


 断るたびに言われてきた。


 ――せっかく来たんやから。


 ――一杯くらい。


 ――一局だけ。


 ――男気見せろ。


 そして俺は、いつも折れた。


「……一局だけやぞ」


 俺は椅子に座った。


     ◇


 麻雀が始まった。


 牌を握る。


 久しぶりだった。


「よしお、やっぱり上手いやん」


「まあな」


 昔なら楽しかった。


 でも今日は違った。


 時計ばかり気になった。


 11時50分。


 12時20分。


 午前0時を過ぎた。


「もう帰るわ」


「ええやん、あと一局」


「明日試験や」


「一杯くらい飲めや」


「酒はいらん」


「付き合い悪いな」


 また、その言葉。


 俺は黙った。


「よしお、昔はもっと豪快やったやん」


「……」


「男気あったやろ」


 グラスが目の前に置かれた。


「ほんまに一杯だけや」


「いらん」


「ええから」


「明日、試験やって言ってるやろ」


「分かってるって」


 友人が笑った。


「落ちたらまた受けたらええやん」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


「……また?」


「そうや」


「一年間勉強してきたんやぞ」


「分かってる」


「俺がどれだけやったか知ってるんか?」


「知ってるって」


「なら――」


 言葉が続かなかった。


 俺はグラスを見つめた。


 そして――。


「……一杯だけ」


 酒を口にした。


     ◇


 午前1時。


 まだ麻雀は続いていた。


 午前2時。


「よしお、もう一杯」


「……いらん」


「まあまあ」


 グラスを渡される。


 俺は飲んだ。


 午前3時。


 頭が重くなってきた。


「もう帰る……」


 そう言った。


「あと一局だけ」


「……」


「せっかく来たんやから」


 また、その言葉。


 俺は牌を握った。


 午前3時40分。


 数字が頭に入らない。


「次、何切るんや……」


 自分でも分からなくなってきた。


 笑い声が聞こえる。


 酒の匂いがする。


 昔と同じだった。


 何も変わっていない。


 違うのは――。


 俺だけが、一年間変わろうとしていたことだった。


 時計を見る。


 午前4時18分。


「……明日」


 俺は呟いた。


「明日、試験や……」


「大丈夫やって」


「朝まで寝たらええやん」


「もう朝やろ」


 笑い声。


 俺も笑おうとした。


 でも、笑えなかった。


 俺の一年間が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。


     ◇


 午前5時。


 俺は立ち上がろうとした。


 足元がふらつく。


「よしお、大丈夫か?」


「……大丈夫や」


 大丈夫じゃなかった。


 頭が痛い。


 吐き気がする。


 口の中が酒臭い。


 それでも帰ろうとした。


 鞄を手に取る。


 その中には、明日の――いや、今日の受験票が入っていた。


 受験票を見た。


 名前。


 試験会場。


 受験番号。


 一年間、何度も見た紙だった。


「……俺、何してるんや」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


 スマートフォンを見る。


 午前5時17分。


 外はもう明るくなり始めていた。


 今日は試験の日。


 俺が一年間待っていた日。


 人生を変えるつもりだった日。


 俺は受験票を握りしめた。


 そのとき、頭の中に上司の言葉が浮かんだ。


『よしおさん。明日だけは絶対に行ってください』


『誰かに誘われても、断ってください』


『よしおさんの人生ですから』


 俺は目を閉じた。


「……ごめんな」


 誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。


 そして俺は――。


 酔いと眠気で重くなった身体を引きずるようにして、試験会場へ向かった。

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