第8話 前日の電話
車のエンジンをかけた。
時計は午後10時40分。
本来なら、もう寝ている時間だった。
明日は朝から試験。
受験票もある。
筆記用具も用意した。
参考書も一通り確認した。
一年間、準備してきた。
それなのに――。
俺は今、友人のところへ向かっている。
「人が死ぬかもしれん……」
電話で聞いた言葉が、頭から離れなかった。
何が起きたんや。
事故か?
金の問題か?
誰かが怪我したのか?
俺が行かなかったら、本当に取り返しのつかないことになるんじゃないか。
そんなことを考えているうちに、目的地に着いた。
◇
玄関を開ける。
「よしお!」
友人が出てきた。
「大丈夫なんか?」
「ああ、来てくれたか」
「何があったんや?」
「まあ、上がってくれ」
「いや、その前に説明してくれ」
「中におるから」
嫌な予感がした。
居間に入る。
そこには、友人の奥さんが座っていた。
腕を組み、明らかに機嫌が悪い。
「……何や、これ」
「いや……」
友人が頭を掻いた。
「ちょっと夫婦で揉めててな」
「…………」
俺は何も言えなかった。
「これだけ?」
「まあ……」
「人が死ぬかもしれんって言うたやろ」
「いや、言葉のあやや」
「言葉のあや?」
頭の中が真っ白になった。
「俺、明日試験やぞ」
「分かってるって」
「一年間、勉強してきたんや」
「知ってる」
「それでも呼んだんか?」
「……悪かったって」
俺は時計を見た。
午後11時12分。
「俺、帰るわ」
立ち上がった。
玄関へ向かう。
そのときだった。
「まあまあ、せっかく来たんやから」
別の友人が言った。
「一局だけやろうや」
「いや、帰る」
「明日試験なんやろ?」
「そうや」
「なら、一局やって寝たらええやん」
「無理や」
「よしお、昔は朝までやってたやん」
「昔とは違う」
自分でも驚くほど、はっきり言った。
「俺は変わったんや」
一瞬、部屋が静かになった。
「……変わった?」
「ああ」
「資格の勉強してるからって?」
「そうや」
「真面目になったなあ」
笑い声が起こった。
俺は笑えなかった。
「俺、本気で取りたいねん」
「分かってるって」
「この一年、飲みにも行かんかった」
「そういや、最近付き合い悪かったな」
「麻雀もパチンコも行ってない」
「だから今日はええやん」
「なんでやねん」
「せっかく来たんやから」
その言葉が、胸に引っかかった。
昔からそうだった。
断るたびに言われてきた。
――せっかく来たんやから。
――一杯くらい。
――一局だけ。
――男気見せろ。
そして俺は、いつも折れた。
「……一局だけやぞ」
俺は椅子に座った。
◇
麻雀が始まった。
牌を握る。
久しぶりだった。
「よしお、やっぱり上手いやん」
「まあな」
昔なら楽しかった。
でも今日は違った。
時計ばかり気になった。
11時50分。
12時20分。
午前0時を過ぎた。
「もう帰るわ」
「ええやん、あと一局」
「明日試験や」
「一杯くらい飲めや」
「酒はいらん」
「付き合い悪いな」
また、その言葉。
俺は黙った。
「よしお、昔はもっと豪快やったやん」
「……」
「男気あったやろ」
グラスが目の前に置かれた。
「ほんまに一杯だけや」
「いらん」
「ええから」
「明日、試験やって言ってるやろ」
「分かってるって」
友人が笑った。
「落ちたらまた受けたらええやん」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……また?」
「そうや」
「一年間勉強してきたんやぞ」
「分かってる」
「俺がどれだけやったか知ってるんか?」
「知ってるって」
「なら――」
言葉が続かなかった。
俺はグラスを見つめた。
そして――。
「……一杯だけ」
酒を口にした。
◇
午前1時。
まだ麻雀は続いていた。
午前2時。
「よしお、もう一杯」
「……いらん」
「まあまあ」
グラスを渡される。
俺は飲んだ。
午前3時。
頭が重くなってきた。
「もう帰る……」
そう言った。
「あと一局だけ」
「……」
「せっかく来たんやから」
また、その言葉。
俺は牌を握った。
午前3時40分。
数字が頭に入らない。
「次、何切るんや……」
自分でも分からなくなってきた。
笑い声が聞こえる。
酒の匂いがする。
昔と同じだった。
何も変わっていない。
違うのは――。
俺だけが、一年間変わろうとしていたことだった。
時計を見る。
午前4時18分。
「……明日」
俺は呟いた。
「明日、試験や……」
「大丈夫やって」
「朝まで寝たらええやん」
「もう朝やろ」
笑い声。
俺も笑おうとした。
でも、笑えなかった。
俺の一年間が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
◇
午前5時。
俺は立ち上がろうとした。
足元がふらつく。
「よしお、大丈夫か?」
「……大丈夫や」
大丈夫じゃなかった。
頭が痛い。
吐き気がする。
口の中が酒臭い。
それでも帰ろうとした。
鞄を手に取る。
その中には、明日の――いや、今日の受験票が入っていた。
受験票を見た。
名前。
試験会場。
受験番号。
一年間、何度も見た紙だった。
「……俺、何してるんや」
誰にも聞こえない声で呟いた。
スマートフォンを見る。
午前5時17分。
外はもう明るくなり始めていた。
今日は試験の日。
俺が一年間待っていた日。
人生を変えるつもりだった日。
俺は受験票を握りしめた。
そのとき、頭の中に上司の言葉が浮かんだ。
『よしおさん。明日だけは絶対に行ってください』
『誰かに誘われても、断ってください』
『よしおさんの人生ですから』
俺は目を閉じた。
「……ごめんな」
誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。
そして俺は――。
酔いと眠気で重くなった身体を引きずるようにして、試験会場へ向かった。




