第7話 変わる
つばさに振られてから、半年が過ぎた。
俺の生活は、相変わらずだった。
朝は眠い。
仕事では疲れる。
帰れば借金のことを考える。
友人から電話が来れば、断れない。
そして休日になると、酒、麻雀、パチンコ。
そんな毎日だった。
ある日、仕事を終えて会社を出ようとしたときだった。
「よしおさん」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、若い上司が立っていた。
「なんや?」
「少し話していいですか?」
「ああ」
会議室に入る。
上司は一枚の紙を机に置いた。
資格試験の案内だった。
「今年、受けませんか?」
「……1級?」
「はい」
俺は苦笑した。
「無理やろ。俺、全然勉強できてへんし」
「でも、取ったほうがいいです」
「分かってる」
「よしおさん」
「ん?」
「このままだと、何も変わらないですよ」
その言葉に、胸が痛くなった。
「……」
「仕事はちゃんとしてます。でも、資格の話になると、いつも『そのうち』ですよね」
「そうやな」
「一度、本気でやってみませんか?」
俺は紙を見つめた。
1級土木施工管理技士。
何度も挑戦しようと思って、何度も諦めた資格。
「……俺でも取れるかな」
「できますよ」
その一言が、不思議と心に残った。
◇
その日、家に帰った。
いつものように酒を飲もうとした。
冷蔵庫を開ける。
缶ビールを手に取る。
だが――。
つばさの言葉を思い出した。
«「私は、自分の人生を自分で決めたいんです」»
俺は缶ビールを冷蔵庫に戻した。
机に座る。
参考書を開く。
最初は何も分からなかった。
専門用語。
施工管理。
法令。
品質管理。
安全管理。
覚えることが多すぎる。
「こんなん、無理やろ……」
参考書を閉じたくなった。
それでも、閉じなかった。
一時間。
たった一時間だけ勉強した。
翌日も。
その翌日も。
◇
友人から電話が来た。
『よしお、今日飲みに行こうや』
「今日は無理や」
『なんで?』
「勉強する」
『資格なんか取ってどうすんねん』
「必要やから」
『また真面目になってるやん』
「悪いけど、今日は行かへん」
『付き合い悪いな』
胸が痛くなった。
いつもの俺なら、
「ごめん、行くわ」
と言っていた。
でも、その日は違った。
「じゃあな」
電話を切った。
手が震えていた。
たったそれだけのことなのに、ものすごく疲れた。
「……断れた」
俺は小さく笑った。
◇
数日後。
また電話。
『麻雀あるで』
「行かへん」
『なんでや?』
「勉強するから」
『一日くらいええやろ』
「その一日を積み重ねて、俺は今まで何もできへんかったから」
電話の向こうが静かになった。
『……何や、急に』
「俺、資格取りたいねん」
『まあ好きにしたら?』
電話が切れた。
以前なら、その言葉だけで不安になった。
仲間から嫌われたのではないか。
付き合いが悪いと思われたのではないか。
でも、その日は違った。
机に向かった。
◇
半年後。
体重が少し落ちた。
酒を飲まなくなったからだ。
腹も少しだけ引っ込んだ。
顔のむくみも減った。
朝、目が覚めたときの気分も違った。
借金はまだ4,000万円近く残っている。
何も解決していない。
それでも、少しずつ返済している。
そして何より――。
勉強時間が増えていた。
平日は二時間。
休日は六時間。
最初は一時間でも苦痛だった。
それが、少しずつ習慣になった。
模擬試験を受ける。
結果を見る。
68%。
「……あと少しや」
次は74%。
その次は81%。
そして――。
90%。
「……90?」
何度も答案を見直した。
間違いではない。
90%。
俺は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
52歳。
今まで何も成し遂げられなかったと思っていた俺が、
初めて自分で積み上げた数字だった。
◇
その頃には、友人たちからの連絡はほとんどなくなっていた。
最初は寂しかった。
でも、一ヶ月。
二ヶ月。
三ヶ月。
連絡がなくても、何も困らなかった。
むしろ時間が増えた。
金も減らなくなった。
酒も飲まなくなった。
朝も楽になった。
借金の返済にも少しずつ余裕ができた。
俺は思った。
――もしかしたら。
俺は、今まで自分で自分を苦しめていたのかもしれない。
◇
試験まで、あと一週間。
俺は最後の追い込みをしていた。
若い上司が声をかけてくれた。
「よしおさん、ここまでよく頑張りましたね」
「ありがとう」
「本番、いけますよ」
「絶対受かる」
俺は笑った。
人生で初めて、そう言い切れた。
そして、試験前日。
俺は机の上を整理した。
参考書。
受験票。
筆記用具。
全部揃っている。
時計を見る。
午後10時。
「今日はもう寝よう」
布団に入る。
目を閉じる。
明日の試験のことを考える。
一年間頑張った。
明日で終わる。
そして、人生を変える。
そう思った。
そのとき――。
スマートフォンが鳴った。
画面を見る。
名前が表示されていた。
一年間、一度も連絡してこなかった友人。
「……なんや?」
電話に出る。
『よしお……』
声が妙に震えていた。
『大変なことになった』
俺は起き上がった。
「何があった?」
『説明してる暇ない』
「どういうことや?」
『頼む。今から来てくれ』
「いや、明日試験やねん」
『試験どころちゃう』
「何があったんや?」
電話の向こうから、低い声が聞こえた。
『人が死ぬかもしれんくらいの問題や』
俺は凍りついた。
手にしていたスマートフォンが重く感じた。
「……分かった」
俺は立ち上がった。
その瞬間――。
一年間守ってきた俺の人生が、
また少しずつ、
誰かの言葉に引っ張られ始めていた。




