第10話 僕の人生
会社からの帰り道。
車を運転しながら、俺は何度も上司の言葉を思い出していた。
『昨日、断れなかったんですか?』
『それとも――断らなかったんですか?』
答えは、もう分かっていた。
俺は、断らなかった。
もちろん、友人たちにも責任はある。
「男気を見せろ」
「付き合い悪いな」
「せっかく来たんやから」
何度もそう言われた。
俺は、その言葉に弱かった。
嫌われるのが怖かった。
仲間外れになるのが怖かった。
「いい人」でいたかった。
だから断らなかった。
でも――。
最後に選んだのは、俺だった。
◇
家に着いた。
玄関を開ける。
静かだった。
いつものようにテレビをつける気にもならなかった。
冷蔵庫を開ける。
そこには、以前なら必ず入っていた酒がない。
俺は冷蔵庫を閉めた。
机の上には参考書が置いてある。
付箋だらけのページ。
書き込みだらけの問題集。
模擬試験の答案。
68%。
74%。
81%。
90%。
その数字を見ていると、胸が苦しくなった。
「俺……頑張ってたんやな」
誰もいない部屋で呟いた。
一年間。
俺は本当に頑張った。
仕事が終わってから二時間。
休日は六時間。
酒を断った。
麻雀を断った。
パチンコもやめた。
友人からの誘いも断った。
腹も少し引っ込んだ。
朝も楽になった。
借金の返済も少しずつ進んだ。
人生が変わり始めていた。
それなのに。
たった一晩。
たった一晩で、俺は昔の自分に戻った。
◇
スマートフォンが鳴った。
昨日の友人だった。
『昨日は楽しかったな!』
『またやろうや!』
俺は画面を見つめた。
以前なら、
「おう!」
と返していた。
でも、今は違った。
返信画面を開く。
文字を入力する。
『もう行かん』
送信しようとした。
指が止まった。
怖かった。
また嫌われるかもしれない。
また「付き合い悪い」と言われるかもしれない。
また「昔はそんなんじゃなかった」と言われるかもしれない。
でも――。
昨日までなら押せなかった送信ボタンを、俺は押した。
『もう行かん』
それだけ送った。
すぐに返信が来た。
『なんや急に』
続けて、
『一回くらいええやん』
『仲間やろ』
『そんな真面目になってどうすんねん』
昔なら、ここで折れていた。
俺はスマートフォンを机の上に置いた。
返信しなかった。
◇
窓の外を見る。
夜だった。
静かな街だった。
俺は椅子に座った。
そして、これまでの人生を考えた。
結婚したかった。
資格も取りたかった。
仕事でも、もっと認められたかった。
借金だって減らしたかった。
健康にもなりたかった。
そして――。
つばさと一緒になりたかった。
でも、全部、
「いつか」
だった。
資格は、
「そのうち取ればいい」
結婚は、
「友達が女の子を紹介してくれる」
借金は、
「いつか返せばいい」
健康は、
「もう少し歳を取ってから考えればいい」
勉強は、
「今日は付き合いがあるから」
全部、後回しにした。
そして、そのたびに俺は言った。
「まあ、ええか」
たった四文字。
でも、その四文字を何千回、何万回と言い続けた結果――。
俺の人生には、4,000万円の借金が残った。
資格は取れなかった。
結婚もできなかった。
酒で身体を壊しかけた。
そして、ようやく掴みかけた一年間の努力まで、自分で手放した。
「……俺やん」
声が漏れた。
「俺がやってたんや」
友達だけのせいにしていた。
確かに、利用されたこともあった。
金を出させられたこともある。
無理に飲まされたこともある。
「男気」を利用された。
「仲間」という言葉も利用された。
でも――。
俺は何度も自分から財布を出した。
自分から酒を飲んだ。
自分から麻雀の席に座った。
自分からパチンコ店に入った。
自分から時間を差し出した。
誰かに人生を奪われたんじゃない。
俺自身が、毎回、差し出していた。
◇
翌朝。
目覚ましが鳴った。
俺は起きた。
久しぶりに、酒のない朝だった。
頭は重くない。
吐き気もない。
カーテンを開ける。
朝日が入ってくる。
俺は机の前に座った。
参考書を開く。
試験は、もう終わった。
合格したかどうかも分からない。
でも――。
俺は勉強をやめなかった。
昨日までの俺なら、
「試験も終わったし、もうええか」
と言っていたかもしれない。
でも、今日は違った。
ペンを握った。
「次は、落とさん」
何のために勉強するのか。
誰かに褒めてもらうためじゃない。
会社のためでもない。
つばさのためでもない。
友人たちに見返すためでもない。
自分のためだった。
◇
数日後。
上司に呼ばれた。
「よしおさん」
「はい」
「試験の結果は、まだ先ですね」
「そうですね」
「どうでした?」
「分かりません」
「そうですか」
上司は少し笑った。
「でも、今回のことをきっかけに、また勉強を続けてください」
「……はい」
「資格だけじゃないですよ」
「え?」
「借金も、生活も、人間関係も」
俺は黙って聞いた。
「一つずつ整理しましょう」
「……はい」
「52歳でも遅くないです」
その言葉に、胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
「ただし――」
上司が少し笑った。
「もう試験前日に麻雀はやめてください」
「……はい」
「あと、酒も」
「……はい」
「今度こそ、自分で断ってください」
「分かりました」
俺も笑った。
◇
その夜。
俺はスマートフォンを手に取った。
つばさの連絡先が残っている。
メッセージを送ろうと思った。
でも、やめた。
「変わった自分を見てほしい」
そんな気持ちが少しあった。
でも、それは違うと思った。
俺が変わるのは、つばさに認めてもらうためじゃない。
誰かに愛してもらうためでもない。
自分の人生を、自分で生きるためだ。
スマートフォンを置く。
そして、俺は机に向かった。
52歳。
人生の半分以上を過ぎた。
借金はまだ4,000万円近くある。
試験に受かったかどうかも分からない。
恋人もいない。
家族もいない。
何も解決していない。
それでも――。
今日から、自分で決める。
飲みに行くのか。
断るのか。
金を使うのか。
返済するのか。
勉強するのか。
遊ぶのか。
誰と付き合うのか。
誰と離れるのか。
全部、自分で決める。
俺は、ようやく分かった。
人生を変えるというのは、
何か特別なことをすることじゃない。
毎日の小さな選択を、
自分のために選び直すことなんだ。
俺は52歳になって、
ようやく――
「断る」という言葉を覚えた。
そして、もう一つ。
「自分の人生は、自分で生きる」
という当たり前のことを、
初めて理解した。




