三つ目の集落
旧世界のトンネルが山肌に口を開けていた。
コンクリートの内壁が剥落し、鉄筋がむき出しになっている。入口の上部には「A12」の文字が残っていた。旧世界の高速道路のトンネルだ。かつて車が通った場所に今は人が住んでいる。だがトンネルの構造自体は生きていた。30年の風雪に耐えた旧世界の土木技術である。コンクリートのアーチが崩れることなく山の重量を支え続けている。
灰谷。
人口約30人の小集落だ。トンネルの内部を住居に改修してあり、壁面にはランタンの灯りが並んでいる。入口には鉄板で作った門があり、その脇に顔布を巻いた少年が立っていた。番人なのだろう。10歳か11歳の手に旧世界のレンチを握っているのは、武器のつもりらしい。カイの残殻を見上げて目を丸くしていた。
「通り客か」
女の声がトンネルの奥から聞こえた。
女長リーナ。40代半ば。痩せた体に厚手の外套を重ね着している。外套のあちこちに継ぎが当てられ、色の違う布が混在していた。灰色がかった茶色の髪を後ろに束ねている。顔には深い皺が刻まれ、目の下には隈があった。眠れていないのだろう。カイの年齢の倍以上を灰域で生きてきた顔だ。
「ストーンクロスに戻る途中だ。一晩、場所を借りたい」
カイが言うと、リーナはケストレルを見上げた。鉄紺色の装甲に逆関節の脚部。残殻ではない鉄殻、それも銘殻だと分かったのだろう。彼女の目が細くなった。
「銘殻に乗る灰域者は珍しい。名は」
「カイ。カイ・セヴァル」
リーナの表情が微かに動き、皺の奥の目が鋭くなった。
「セヴァル。テオの」
「知っているのか」
「知らない灰域者はいないよ。テオ・セヴァルは灰域の英雄だ。統治機構体に背いて、灰域のために戦った男。その息子なら、門を閉める理由はない」
トンネルの内部に入った。
壁面のランタンが暖かい光を投げており、風が遮断されて外よりも温かい。トンネルの構造が断熱材の役割を果たしているのだ。旧世界のコンクリート壁には子供が描いた絵がある。鉄殻や灰域鴉、そして太陽の絵だ。灰域の子供が描く太陽は黄色ではなく灰色だった。灰色の空しか知らない子供たちが太陽を灰色に塗る。カイもそうだった。ラストヘイムの学校でマーサに「太陽は本当は黄色いんだよ」と教えられたのだ。
集落の半数が灰肺を患っていた。
咳が聞こえる。トンネルの奥から途切れない咳の音が反響してくる。肺の奥から粘液を吐き出すような重く湿った咳だ。リーナが案内した部屋には、布団に横たわる老人がいた。顔布が汚れている。本来は白い顔布が灰色に変色し、ところどころに鉄錆色の斑点があった。灰肺。灰域の風塵に含まれる鉄粉と化学物質が肺を侵す病だ。管区なら治療法があるが、灰域にはない。
「顔布が足りない」
リーナが言った。声は淡々としているが、その奥には疲労が滲んでいた。
「新しい顔布は半年前に10枚手に入れた。もう全部使い切った。洗って使い回しているが、フィルター機能はとっくに死んでいる。つけていないのと変わらない」
「クレアのところに薬を頼んだが、届かない。配達の傭兵が途中でやられたのかもしれない」
灰域衛生団の救急箱がトンネルの壁に掛けてあった。金属製の箱は立派で、赤い十字の印が入り、側面には「灰域衛生団」の文字が刻まれている。クレスタが資金を出し、灰域の集落に配布している人道支援物資だ。だが蓋を開けると中身はほぼ空だった。包帯が一巻きと消毒液の空瓶、それに解熱剤が三錠。30人の集落に対してこれだけだ。箱ばかりが立派で中身が追いついていない。クレスタにとって、灰域への支援は政治的なポーズでしかないのだろう。
リオンは黙って救急箱の中を見ていた。
紺色の瞳に感情が渦巻いている。管区なら治せる病気で人が死んでいく。リオンが生まれ育ったセルヴィスの管区では、灰肺の治療薬は基地の医務室に常備されていた。兵士もその家族も誰でも使える。基地の外の管区民であっても申請すれば支給される。灰域との差がこれだ。同じ人間が同じ病気にかかっても、管区にいるか灰域にいるかで生死が分かれてしまう。
「セヴァル」
リオンが低い声で言った。声のトーンが変わっていた。軍人の報告口調ではない、もっと静かな個人としての声だった。
「薬を分けられるか」
「持っている分は少ないが」
カイは携行していた医療キットから、灰肺の症状を和らげる粉末薬を二包取り出した。クレアがラストヘイムを発つ時に持たせてくれたものだ。「使わないに越したことはないけど」とクレアは言っていた。使わずに済めばいいと思っていた薬が、今ここで役に立つ。
リーナは薬を受け取り、一瞬だけ目を閉じた。皺だらけの手が粉末薬の小さな包みを握りしめている。
「ありがとう」
その二文字に、灰域の重さがすべて乗っていた。
ガルドはトンネルの外で住民の残殻の簡易整備を手伝っていた。2機ある残殻のうちの一機が、関節の固着で動けなくなっている。ガルドは工具を借りて関節を開き、固まった潤滑油を掻き出した。真っ黒な油が砂のように硬くなっていた。
「冬前にやっておかないと、春まで動かせなくなる。潤滑油が完全に固まったら、関節ごと交換するしかなくなる」
住民に整備の手順を教えながらガルドの手が動いている。技匠の手だ。どこにいても何をしていても壊れたものを直す手。灰域の集落で銘殻を直すのも、名もない残殻の関節を掃除するのも、ガルドにとっては同じ仕事だった。
* * *
夕食はトンネルの奥で取った。灰域パンと錆鉄キノコの粉末スープだ。薄く、塩も足りない。キノコの粉末が溶けきらずに底に沈んでいる。だが温かかった。
リーナがカイに聞いた。
「セルヴィスが来たら、ここはどうなる」
カイは正直に答えた。
「分からない。でも、備えた方がいい」
「備えるも何も、ここには残殻が2機しかない。一機は動けない。もう一機の操手は灰肺だ。咳き込みながら操縦桿を握れるわけがない。戦えない」
リーナは灰域パンを千切りながら言った。水分が少なく、硬いパンだ。
「ここは見捨てられた場所だ。統治機構体にも、灰域の傭兵にも。誰の目にも留まらない。それが安全だった。目立たなければ、誰も来ない。誰も来なければ、殺されない。でも戦争が近づけば、見捨てられた場所にも火が飛ぶ」
カイは何も言えなかった。守ると言い切れる力が今の自分にあるのか。ケストレルに乗っていても、一人で守れる範囲には限界がある。ラストヘイムがあり、ストーンクロスがあり、灰谷がある。灰域には守らなければならない場所が多すぎた。
翌朝、集落を発つ時に子供たちが手を振った。
トンネルの入口に並んで小さな手を振っている。番人の少年は昨日よりも胸を張って立っていた。一人の少女がカイに向かって叫んだ。
「また来てね」
カイは振り返らずに歩いた。振り返ったら立ち止まってしまいそうだった。ケストレルの足が凍った地面を踏みしめ、3本爪の足跡を残していく。




