ガルドの過去
焚き火の炎が、三人の顔を橙色に染めていた。
ストーンクロスへの帰路。日没と共に野営を始めた。灰原草の枯れ穂を集めて火を起こし、乾燥肉を炙る。肉から脂が滴り、炎がじゅっと鳴った。初冬の夜気が冷たい。吐く息が白くなり始めている。空には星がまばらに見えていた。灰域の夜空は管区の都市部より暗い。光害がない分、星が見える。
ガルドは焚き火の向こう側に座り、煙草を咥えていた。炎の光が皺の深い顔を照らしている。44歳。目尻と口元の皺が、炎の揺らぎに合わせて影を作っている。テオと同い年だったら、テオも同じような顔をしていたのだろうか。カイはそんなことを考えた。
「ガルド」
カイが呼んだ。焚き火の向こうで、ガルドの目が動いた。
「親父に鋳脈を入れたのは、あんただろう」
焚き火が爆ぜた。薪の中で樹液が弾ける音。小さな火の粉が舞い上がり、闇に消えた。
ガルドの表情は変わらなかった。煙草の煙を細く吐き、焚き火を見つめている。数秒の間。それから、低い声で。
「ああ」
トワは少し離れた場所で、残殻の足元に背を預けて座っていた。灰域煙草の赤い火が、暗がりで小さく光っている。聞こえる距離にいるが、口を挟まない構えだった。
「グランヴェルトの神経工学部門に入ったのは、16の時だ」
ガルドが話し始めた。焚き火に向かって、低い声で。誰に語るでもなく、焚き火に語りかけるように。
「大崩落の真っ最中だった。技術のある人間は片っ端から徴用された。俺には鋳造と回路設計の腕があった。親父が鍛冶師で、10歳から金属を叩いていた。回路は独学だ。旧世界の技術書を拾って覚えた。それだけで、最前線の研究部門に放り込まれた」
焚き火の炎が揺れた。風が変わったのだ。南から北へ。灰原草の穂が音もなく傾いた。煙が北に流れていく。
「鋳脈の最初の目的は医療だった」
ガルドの声が低くなった。煙草を指の間で回しながら。
「義肢のフィードバック。失った手足の感覚を取り戻す技術。リレー素子を神経に接続して、義肢のセンサーから信号を送る。義手で物を掴んだ時に、硬さや温度を感じられるようにする。そういう技術だった。大崩落で手足を失った人間が山のようにいた。その人たちを助けるための技術だ」
「医療技術だったのか」
「最初はな。だが戦争中だ。軍が目をつけるのに、一年もかからなかった。義肢の感覚フィードバック。それを鉄殻に転用すれば、操手は機体を自分の体のように感じられる。反応速度が上がる。戦闘力が跳ね上がる。軍にとっては夢のような話だ」
鋳脈の軍事転用。義肢の感覚フィードバックを、鉄殻のセンサー系統に接続する。操手の体と機体の感覚を繋ぐ。人間を、兵器の一部にする。
「俺は反対した」
ガルドの声に、抑えた怒りが混じった。煙草を握り締め、フィルターが潰れた。
「人間の神経に機械のセンサーを接続すれば、神経が壊れる。データが足りない。動物実験では3年で神経劣化が始まった。人間ならもっと早いかもしれない。もっと時間をかけて研究すべきだと言った。安全性を確認するまで、人間に使うべきではないと」
「通らなかったのか」
「戦争中に反対は通らない。前線では操手が死んでいく。毎日、名前も知らない操手が棺に入って戻ってくる。鋳脈があれば生存率が上がる。上がる分だけ、死ぬ人間が減る。数字で押し切られた。俺の懸念は『将来の可能性』でしかなかったが、前線の死者は『今日の現実』だった」
テオと出会ったのは、その頃だ。
「テオは少年兵だった。17か18だったと思う。灰域の出身で、どこかの傭兵部隊に拾われて、前線に送り込まれていた。冴覚の素養があった。身体能力も高い。だが機体が悪かった。型落ちの汎殻で、整備も碌にされていない。関節の潤滑油が変色していた。あれで戦場に出していたのかと、整備班を怒鳴りつけた」
ガルドは煙草を指で弾き、火種が弧を描いて闇に消えた。
「俺はテオの専属技匠になった。最初はただの仕事だった。だがテオは面白い男だった。不器用で、真っ直ぐで、冗談が下手で。笑い方が不恰好だった。口の端だけ上がって、目が笑わない。でもたまに、本当に面白い時だけ、目が細くなった」
ガルドの口元が、ほんの一瞬だけ緩んだ。焚き火の光の中で、一瞬だけ若い頃のガルドが見えた気がした。
「テオに鋳脈を施したのは、俺だ。テオが22の時。俺も同い年だった。自分の手で、リレー素子をテオの頸椎に埋め込んだ」
カイは黙って聞いていた。焚き火の炎が、カイの暗い灰色の瞳に映っている。怒りではなく、理解しようとする顔だった。ガルドはそれを見て、僅かに息を吐いた。
「テオの冴覚が鋳脈と合わさった時、戦闘力は跳ね上がった。冴覚による先読みと、鋳脈による感覚拡張。テオは化け物のように強くなった。グランヴェルト随一のエースだ。俺の作った機体と、俺の入れた鋳脈が、テオを最強にした。俺は誇らしかった。自分の技術が形になった。人を救える力になった。そう思っていた」
ガルドは新しい煙草に火をつけた。マッチの炎が顔を照らした。皺の奥に、暗い影が落ちている。
「だが代償は、すぐに来た」
* * *
「最初に右耳が聴こえなくなった」
ガルドの声が、焚き火の音に混じった。薪が爆ぜる音。風が灰原草を撫でる音。その中に、ガルドの声がある。
「テオは25の時だ。鋳脈を入れて3年目。右耳の高域が聴こえなくなった。風の音が聞こえないと言っていた。風が右側から吹いても気づかない。いつの間にか髪が揺れている。それだけだ、と笑った。それから右手の指先。30の時には、小指と薬指の感覚がほぼなくなっていた。工具を落とすようになった。半田ごてを握っても、握っている感覚が薄い。力を入れすぎて基板を壊すことがあった」
カイは拳を握っていた。爪が掌に食い込んでいた。
「俺はそれを10年間見ていた。テオの体が壊れていくのを。右耳の聴覚。右手指先の感覚。一つずつ失っていった。冴覚持ちの鋳脈者は劣化が早い。冴覚が脳への負荷を増やし、鋳脈のフィードバックと合わさって神経を二重に削る。通常の鋳脈者の3倍から5倍の速度だとクレアが言っていた。一つ失うたびに、テオは一瞬だけ黙り込んで、それから笑った」
ガルドの声が掠れた。
「『ガルド、お前の作った装置は優秀だよ。壊れ方が上品だ』って。一気に全部壊れるんじゃなくて、少しずつ、一つずつ奪っていく。だから慣れられる。慣れてしまう。それが一番恐ろしい」
焚き火の炎が低くなった。薪が灰に変わりつつある。橙色の光が弱くなり、三人の顔が闇に半分沈む。
カイは目を閉じた。瞼の裏に、父の声が蘇る。「あいつには、俺みたいになってほしくないんだ」。今なら分かる。その言葉の重さが。右耳の聴覚を失い、右手の指先の感覚を失い、それでも笑っていた父。息子の頭を撫でる手の感触が消えていくことを恐れていた父。
トワが無言で薪を焚き火に足した。枯れた灰原草の束を崩さないように、そっと火の中に置く。炎が再び立ち上がり、三人の影が地面に長く伸びた。
ガルドは焚き火を見つめたまま、最後の煙を吐いた。白い煙が夜の空気に溶けていく。
「俺はテオを壊した。自分の作った技術で、親友の体を壊した。止めるべきだった。だが止められなかった。戦場はテオを必要としていた。テオが戦えば、他の操手が死なずに済む。テオ一人の体と引き換えに、十人、二十人の命が助かる。そしてテオ自身が、戦うことを選び続けた。俺に止める権利があったのか。今でも分からない」
沈黙が落ちた。焚き火の爆ぜる音だけが、灰域の夜に響いている。星が瞬いた。風が止んだ。灰原草の穂が静かに立っている。




