テオの音声
夜の格納庫に、カイの足音だけが響いていた。
アイアンウェルの住民は寝静まっている。鋳造工房の炉の火が落とされ、残り火の赤い光だけが壁に揺れている。外は初冬の風が吹き、格納庫のシャッターが時折がたつく。その奥で、ケストレルが暗がりに立っていた。鉄紺色の装甲が、残り火の光を鈍く反射している。
ガルドがコックピットの前にいた。
整備台の縁に腰を下ろし、煙草を吸っている。今度は火がついている。煙が暗い天井に向かって細く立ち上っている。ガルドの顔は煙の向こうにあり、表情が読みにくかった。
「来たか」
カイが近づくと、ガルドは小さな金属片を差し出した。旧世界の記録媒体。親指の爪ほどの大きさの、黒い長方形。表面に微細な端子が並んでいる。30年前の規格だ。
「ケストレルの記録装置から抜いた。テオの音声データだ。全部じゃない。お前に聞かせていい部分だけ、切り出した」
カイは受け取った。掌の上で、金属片が体温を吸って温まっていく。軽い。こんな小さなものに、父の声が入っている。
「再生する」
ガルドがコックピットの通信パネルに記録媒体を差し込んだ。カチ、と小さな音。パネルのインジケーターが緑に点灯し、スピーカーからノイズが走った。
そして、声が聞こえた。
「――ガルド。この音声を聞いているということは、俺は戻れなかったんだろう」
カイの全身が止まった。
呼吸が止まった。心臓が一拍跳ねて、そのまま凍りついたように動かなくなった。
父の声だった。7年間、記憶の中でだけ聞いていた声。もっと低かった気がする。もっと太かった気がする。だが違った。テオ・セヴァルの声は、記憶の中の声よりも柔らかかった。疲れていた。穏やかで、静かで、奥底に諦めのような、あるいは覚悟のような何かを含んでいた。
「ケストレルをカイに渡してくれ。ただし、鋳脈は使わせるな。あいつにはあれを背負わせたくないんだ」
ノイズが入った。音声が途切れ、戻る。ざらついたノイズの隙間に、テオの息遣いが聞こえる。
「あいつには――俺みたいになってほしくないんだ。右耳が聞こえなくなった時、俺は怖かった。朝起きて、右側が静かだった。風の音が聞こえない。鳥の声が聞こえない。片側の世界が消えたみたいだった。指先の感覚がなくなった時、工具が握れなくなった時、あいつの頭を撫でてやれなくなるんじゃないかと思った。カイの髪の手触りが分からなくなる日が来るんじゃないかと。鋳脈はそういうものだ。少しずつ体を奪っていく。少しずつ、自分が自分でなくなっていく」
間があった。テオが息を吸う音が聞こえた。深く、ゆっくりと。
「カイは冴覚を持っている。たぶん、俺よりも強い。あいつが3つの時に廃墟で鉄骨が落ちてきた。俺が叫ぶ前にあいつは横に転がっていた。3歳だぞ。あの時から分かっていた。だからこそ、鋳脈に頼らせるな。あいつの目と耳と勘で、十分だ。ガルド、お前ならそういう機体を作れる。鋳脈なしでも戦えるケストレルを。頼む」
音声が途切れた。ノイズだけが流れる。スピーカーが砂嵐のような音を吐き続け、やがてそれも消えた。
それで終わりだった。
カイの頬を、一筋の涙が流れた。
止められなかった。止める気もなかった。7年間。父の声を聞いていなかった7年間。夢の中で聞いた気がする声は、いつも曖昧で、目が覚めると消えていた。だがこれは本物だ。この声は、この格納庫の空気を確かに震わせた。
声をかけることもできない。相手はもういないかもしれない。7年前に、この機体のコックピットに座って、この言葉を録音した父。その時、コックピットの外には何が見えていたのだろう。灰域の荒野か。灰色の空か。それとも、ラストヘイムの方角を見ていたのか。
「親父は――」
声が掠れた。喉の奥が詰まっている。
「生きているのか」
ガルドは煙草の火を見ていた。赤い点が指先で揺れている。
「分からない。だが死んだ証拠もない」
「分からないのか」
「分からない。テオは最後の仕事に出て、それきりだ。死体も、遺品も、目撃情報もない。消えたんだ。灰域のどこかに。俺が探せる範囲は全部探した。見つからなかった」
ガルドの声に、抑えた痛みが滲んでいた。7年間、この男もまた探し続けていたのだ。
カイはケストレルの操縦桿に手を置いた。
金属の冷たさが掌に伝わる。この操縦桿は父の手の形に馴染んでいた。ガルドがカイの手に合わせて調整しても、グリップの根元に、長年の使用で磨り減った凹みが残っている。テオの親指が押し当てられていた場所だ。長年、この場所を握り続けた手。その手は今、どこにあるのか。
「この機体で、親父が見たものを見に行く」
カイは操縦桿を握った。凹みに自分の親指が重なった。
「テオのデータがどこにあるか。鋼城の設計図が何なのか。親父が命を賭けて守ろうとしたものが何なのか。この目で確かめる」
ガルドは煙草を短くなるまで吸い、最後の煙を細く吐いた。煙が天井に消えていく。
「ケストレルは明日、動ける状態になる」
それだけ言って、整備台を降りた。工具箱を肩に担ぎ、格納庫の出口に向かう。背中が暗がりに消えていく。革のブーツが床を叩く音が、遠ざかっていく。
カイは一人、コックピットに残った。
計器の灯りを消し、目を閉じた。暗闇の中に、父の声が残っている。耳の奥で、何度も繰り返す。
「あいつには、俺みたいになってほしくないんだ」
カイは拳を握った。掌の中で、操縦桿の凹みが指に当たっていた。父の指の跡。そこに、自分の指を重ねている。




