リーヴの鷹嗣
食堂の白い蛍光灯が味のない食事を照らしている。
リーヴ・シェイドは金属製のトレイの上の食事を見下ろした。焼いた鶏肉と茹でた豆、パンが一つに水。コルヴァスの基地の食堂はセルヴィスの中では質が良い方だった。壁に掛かった時計が19時を指している。夕食の時間だ。
フォークで鶏肉を切り、口に運んだ。
噛んで飲み込む。鶏肉の繊維が喉を通る感触や温度はあるが、味がない。昨日まではかすかに塩味を感じていた。舌の奥の方で何かが触れるような触れないような感覚があったが、今日はそれもなくなっていた。味覚の境界線がまた一歩後退した。
向かいの席でハル・ブレントが笑っている。
「リーヴ隊長、それ鶏肉っすよ。もっと美味そうに食べてくださいよ」
「食べている」
「顔が怖いっす。せっかくの鶏肉が泣きますよ」
ハルはフォークで自分の皿の豆を突きながら屈託なく笑った。コルヴァスの中でハルだけがこういう空気を作れる。鋳脈を持たない一般操手だからこそ、鋳脈者の暗さに引きずられない。
ハルの隣でダリオ・クインが通信機の音量を上げた。
「……すまん。もう一度」
オペレーターの声が繰り返す。ダリオは眉を寄せ、右耳に手を当てて左手で周囲の音を遮るように通信機へ耳を近づけた。聴覚にノイズが入り始めているのだ。本人は「最近、耳鳴りがする」と軽く言っていたが、リーヴはそれが何を意味するか知っている。ダリオの鋳脈は聴覚系への負荷が高い型で、音響センサーのフィードバックを聴覚神経で受ける設計になっている。その神経が摩耗し始めている。
「了解した」
ダリオが通信を切り、額の汗を拭ってリーヴに報告する。
「ケネス参謀長から直接命令だ。灰域浄化の前線指揮を、コルヴァスが取る」
ハルがフォークを止めた。
「俺たちが先鋒ってことっすか」
「そうだ」
リーヴは黙ってコルヴァス・ブラックを口に運んだ。基地の食堂にだけ置かれている極濃のコーヒーだ。通常の3倍の豆を使い、砂糖もミルクも入れないためカフェインの苦味だけが舌に残る。温かい。温度だけが分かる液体だ。味覚がまだ残っていた頃はこのコーヒーの苦味が好きだったが、今は熱さと舌に触れる液体の質感しか伝わらない。
「灰域浄化って結局何するんすか。集落を潰すんすか」
ハルが聞いた。声のトーンは軽いが目は笑っていない。
「抵抗する武装勢力の排除。集落への直接攻撃は作戦規定に含まれない」
「規定に含まれなくても、現場じゃ何が起きるか分からないっすよね」
リーヴは答えなかった。ハルの言葉は正しい。規定と現実の距離をリーヴは知っている。自分もかつては規定に従って行動し、規定の外で起きたことを見て見ぬ振りをしてきたのだ。
* * *
午後のブリーフィングルーム。
ケネス・アスフォードの映像が壁面モニターに映っている。白髪交じりの髪を整えて軍服の襟を正した参謀長の顔は、いつも通り感情を見せなかった。背後にはセルヴィスの紋章が掛かっている。
「コルヴァスに前線指揮権を委任する。作戦目標は三つ。一、灰域南部の武装傭兵団の掃討。二、グランヴェルト先遣部隊の動向監視。三、旧世界施設に散在する技術資産の確保」
リーヴは背筋を伸ばし、両手を背中で組んで立ったまま聞いていた。
「リーヴ。灰域南部にカイ・セヴァルがいる」
「把握しています」
「テオ・セヴァルの息子だ。冴覚持ちとの報告がある。第一次接触時の映像記録は確認した」
「確認済みです。第1部隊接触時に交戦しました」
ケネスの表情が微かに動き、唇の端が引き締まる。
「あの少年の処遇は一任する。殺す必要はない。だが、セルヴィスの利益に反する行動を取るなら、排除を躊躇するな」
「了解」
通信が切れた。モニターが暗くなり、ブリーフィングルームには蛍光灯の光だけが残った。
リーヴは廊下を歩いた。ブーツの音がコンクリートの壁に反響する。コルヴァスの基地はセルヴィスの最前線に近く、壁には結露の跡があって空気が冷たい。暖房設備はあるが廊下までは届かない。
カイ・セヴァル。
鋳脈なしの残殻であの反応速度。リーヴの遊肢の軌道をかすかに読んでいた。完全には読めていないが、読もうとしていた。あの目。灰色の瞳の奥に何かを見定めようとする光があった。冴覚の素養だけでは説明がつかない。あの少年は戦闘の中で学んでいる。一手ごとに相手のパターンを体に刻み込んでいくのだ。
もし鋳脈を施されたら。
冴覚と鋳脈の両方を持つ操手という自分と同じ条件になる。だがあの少年の冴覚は自分よりも伸びしろがある。14歳で鋳脈を受けた自分と違い、まだ体が壊れていない。新品の神経に鋳脈を接続すれば自分を超えるかもしれない。
その想像がリーヴの胸の奥を冷たくした。恐怖ではない、もっと複雑な何か。自分の選択を肯定するために、カイには鋳脈を受けてほしくないという矛盾した感情だ。
* * *
格納庫は静かだった。
リーヴの銘殻ソルスティスが暗がりの中に立っている。黒を基調とした装甲に逆関節の脚部。背部の遊肢懸架アームには4基の遊肢が折り畳まれている。格納庫の天井灯は点灯しておらず、足元のフロアライトだけがソルスティスの脚部を照らしていた。
リーヴは整備台に上がり、遊肢のメンテナンスを自分の手で始めた。
技匠に任せることもできるが、リーヴは遊肢だけは自分で触る。自分の体の延長であり、他人に自分の腕を整備させるようなものだからだ。
一番遊肢のセンサーパネルを開き、レンズを布で拭いて推進ノズルの詰まりを確認する。ノズルの内壁にこびりついている炭化した推進剤の残渣をピンセットで丁寧に除去する。二番遊肢も同じ手順だ。前回の出撃時に土煙を浴びたせいで、レンズの汚れが一番より多い。三番遊肢は推進剤の残量が他より少ないため、次の出撃前に補充が必要だ。そして四番遊肢。
三番遊肢のセンサーパネルを閉じる時、左手の指先が滑った。
パネルの縁に触れているはずなのに感触がない。目で見れば指はパネルに触れており、金属の冷たさが伝わるはずの場所だ。だが指先が何も伝えてこない。薄い膜を一枚挟んだような遠い感覚。
触覚を失いかけているのだ。
リーヴは左手を握り、開き、また握った。
動くし力も入る。拳を作る筋肉は正常に機能しているが、指先の感覚が薄い布越しのようにぼやけている。操縦桿を握る手。この手で機体を動かし、遊肢を飛ばして敵を仕留める。この手から感覚が消えたら操縦桿の微細な振動を読み取れなくなり、鋳脈のフィードバックが左手を通じて伝わらなくなる。
「まだ動く」
声に出した。格納庫の暗がりに自分の声が吸い込まれていき、ソルスティスの黒い装甲が声を反射して微かに返した。
その言葉は誰に向けたものだったのか。自分自身か、それとも自分の中のどこかに残っている14歳の少年にか。
リーヴには分からなかった。




