砲声の兆し
早朝、カイは見張り台に登った。
集落の外縁にある崩れかけた建物の最上階。鉄骨の手すりが半分失われた足場から南の地平線が見渡せる。風が強く、ゴーグルが鎖骨にぶつかり作業着の裾がはためいた。
南の地平線に煙が見えた。
一筋ではない。複数の地点から黒い煙が細く立ち昇っている。火事ではなく戦闘の残り火だ。建物が燃え、鉄殻の残骸が煤煙を上げている。
リックに借りた双眼鏡を目に当てた。レンズの端が欠けて右端の視界が歪む。ピントを合わせる輪も渋く、指の腹で何度か回してようやく像を結んだ。それでも煙の位置と数は確認できた。南南東に三筋、南西に一筋。距離は推定30キロから40キロ。手すりを握る手のひらに冷たい鉄錆の感触が残った。
作業場に降りるとガルドが既に通信機を操作していた。
タリアの通信小屋から持ち出した受信機を改造し、手動で周波数を回している。ヘッドフォンを片耳に当てながら、もう片方の耳でカイの足音を聞き分けた。
「南の煙を見たか」
「見た。複数箇所だ」
ガルドは頷き、受信機のダイヤルを微調整して通信波を拾っている。
「暗号化通信が二系統。一つはセルヴィスの軍用周波数帯。もう一つはクレスタの傭兵が使う非暗号の短波通信。内容は聞き取れないが、頻度が高い。交戦中か、直後だ」
ガルドの顔は険しかった。煙草を咥えているが火はついておらず、いつまでも吸わずにいる。
「やってるな。近い」
* * *
ゲオルグが緊急の住民集会を開いた。
広場の中央に集まったのは全員ではなく、子供と老人を住居に残した動ける大人だけの60人ほどだ。ゲオルグが広場の石の上に立ち、低い声で状況を説明した。
「南方でセルヴィスとクレスタの交戦が続いている。距離は30キロ以上あるが、接近の可能性がある。備えが必要だ」
住民たちの間にざわめきが走った。
ロイドが一歩前に出て帳簿を手に声を張る。
「備蓄の確認をする。水は一人あたり一日2リットルで7日分。食料は乾燥豆と干し肉で5日分。これを基準に、避難用の荷を準備してくれ」
住民たちが動き始めた。ロイドの数字には迷いがなく、聞いた者から順に水袋や麻袋を集めに散っていった。
「避難経路は旧世界の排水路を使う」
ゲオルグが続けた。
「地下の通路は鉄殻が通れない。子供と老人を優先して移動させる。避難先は北東の廃工場跡。あそこには水場がある」
タリアが手を上げた。
「通信傍受を続けます。交戦の方角と規模を推定できれば、いつ動くか判断する材料になる」
ゲオルグが頷くと、タリアは通信小屋へ駆け戻った。
カイは住民たちの顔を見渡した。
荷をまとめ始めた老女の手は震えていなかったが、その隣で若い母親が子の名を一度だけ上ずった声で呼んだ。誰も騒ぎ立てはしない。30年前にも焼かれた場所だ。荷を結ぶ手つきに淀みのある大人は誰もいなかった。
* * *
午後、カイは集落の外縁を巡回して防衛上の死角を確認した。
崩れた建物の壁はそのまま障壁になるが、南側の空き地だけは別だ。あらためて立ってみるとその口の広さが嫌に目についた。ここを鉄殻に抜かれれば集落の中心まで遮るものがない。
カイは残殻の格納場所へ向かった。
寄せ集めの装甲板に覆われたカイの残殻。左腕は別の機体から移植しており、胴体装甲は3枚のうち1枚が欠けている。関節のあちこちに錆苔がこびりついてまともな鉄殻とは呼べないが、灰域ではこれが命綱になる。
コックピットに座り、起動手順を確認した。
動力炉の暖機に三分。操縦桿のキャリブレーションとペダルの遊び。ここまでは体が覚えているが、通信機の周波数を戦闘帯に合わせる段で指が一度止まった。この帯域を本当に使う日が来るとはどこかで思っていなかったのだ。
燃料を無駄にはできないため起動はせず、手順だけ確かめていつでも動ける状態にしておく。
操縦桿を握る手が汗ばんでいた。
戦ったことはない。人間と撃ち合った経験は皆無で、廃材回収の折に野生動物や機械の暴走を相手にした程度だ。ガルドに叩き込まれたのは整備と移動の技術であって戦うための技術ではない。
正直に言えば来てほしくなかった。この機体が役に立つ日などずっと先でいいと思っていた。それでもここにこれがある。
* * *
その日の夕方に初めて砲声が聞こえた。
遠いが確かに大気を震わせている。低く重い音だ。雷とは違う、一定間隔で繰り返される打撃音。鉄殻の主砲の発射音だとガルドが言った。
集落の住民が足を止めて南の空を見た。閃光はまだ見えず音だけだ。誰かが手にしていた水袋を取り落としたが、それを拾おうとする者はしばらく誰もいなかった。
タリアが通信小屋から走り出てきた。
「方角は南南東。距離は推定20キロ以下まで近づいてる。通信量が増えてる。複数の部隊が動いてる」
ガルドが赤葉に火をつけ、今度は深く吸い込んで長く煙を吐き出した。
「機体の反応が散発的だ。一方的な戦闘じゃない。互いに動き回ってる。追撃戦だ」
追撃戦。敗走する部隊を追う側が灰域を通って移動しており、その経路にラストヘイムがある。
カイは残殻のコックピットに座り、操縦桿を握った。
エンジンはまだかけないが、指先が操縦桿の感触を確かめている。力を抜け。ガルドが繰り返した言葉を心の中で反芻した。
また響いた砲声は前回より近い。
うなじがすっと冷えた。廃墟で布袋を取り落としたあの感覚がまた背中の下から這い上がってくる。今度は遅く、じわじわと腹の底に溜まっていく。操縦桿を握った指が自分の意思とは別に力をこめていた。
来る。
* * *
夜半、砲声が明確になった。
南の空に閃光が走った。一瞬ではなく、断続的に白い光が地平線の向こうで明滅しては、そのたびに集落の窓ガラスがびりびりと震えた。
空気が変わっていた。風に混じる匂いが違う。鉄錆と砂の匂いに焦げた金属の刺激臭が混じっている。カイはこんな匂いを嗅いだことがなかった。
ガルドが片手にヘッドフォン、もう片方に地図を持って作業場から駆け出てきた。
「南南東、推定15キロ。こっちに向かってる」
ガルドの声からいつもの煙草混じりの掠れが消えていた。
ゲオルグが住居から出てきて、懐中時計を握ったまま南の空を見据えた。
「避難準備を始めろ」
ゲオルグの声が夜の集落に響いた。穏やかさはもうどこにもなかった。
ロイドが走った。住居を一軒ずつ拳で叩いて回り、寝ている者を起こして避難の段取りを早口で告げていく。あちこちの窓に慌ただしく灯りが点り始めた。
タリアが通信小屋から叫んだ。「暗号通信の頻度が跳ね上がってる。少なくとも3部隊が交戦中」
クレアが医療キットを抱えて診療所から出てきた。いつもの夜ならとうに誰もが眠っている時刻だった。
カイは残殻のコックピットで操縦桿を握り締めていた。
機関温度計が青を示している。燃料残量76%。さっきから同じ数字ばかり何度も確かめている。本当は確かめる必要などとっくにないのに。喉がからからに渇いて唾を飲もうとしたが、飲むものがなかった。
砲声が夜空を割った。閃光が集落の壁を白く染め、すぐに消えた。
カイは息を吐くのを忘れていた。




