見捨てられた理由
朝、ロイドがカイの住居にやって来た。
ノックではなく廃材のドアを拳で叩く音で目が覚めた。まだ空が白み始めたばかりの時刻で、こんな朝早くに人が来ることなど滅多にない。カイが寝起きの顔で扉を開けると、ロイドが腕を組んで帳簿を脇に挟んだまま立っていた。いつもより顔が硬く目の下の隈がいっそう濃い。
「話がある。ゲオルグのところに来い」
それだけ言って返事も待たずに踵を返す。カイは上着を引っかけて後を追った。
ゲオルグの住居は集落の中心にある廃工場の二階だった。
鉄骨の骨組みがむき出しの部屋にゲオルグが座っていた。膝の上には懐中時計が置かれ、傍らには遺灰酒の瓶がある。白髪交じりの大男は肩を丸めたままカイとロイドを見て「まあ、座れ」と言った。
ロイドがカラス商隊から聞いた話を切り出した。
「カレルの杜が、潰された」
南にある集落の名だった。カイが顔を上げるとロイドは一度言葉を切ってから続けた。
「南に40キロ。商隊の中継地で、30人ばかりが住んでた」
「潰されたのは、セルヴィスとクレスタの傭兵部隊の交戦が灰域にまで及んだからだ」
ロイドの声は事務的だったが帳簿を挟んだ脇の指先が微かに震えていた。
「セルヴィス防衛機構とクレスタ資源同盟。統治機構体同士の争いが、灰域で起きてる。俺たちの土地で」
「なぜ俺たちが巻き込まれなきゃならない」
ロイドの言葉にゲオルグは答えず、懐中時計の蓋を開いて中を見つめた。止まった文字盤は亡き妻の形見だ。
「カイ、お前はここに座って聞いていけ」
立ちかけていたカイはその一言で腰を戻した。ゲオルグがこんな言い方をするのを初めて聞いた。
「灰域が見捨てられたのは、焦土紀元年の最初の日だ」
ゲオルグは遺灰酒を一口飲んで話し始めた。
「大崩落が終わった時、焼け跡の上に立ち上がったのは国家じゃなかった。統治機構体だ。セルヴィス、グランヴェルト、クレスタ。あいつらは戦火の中で生き残った連中が作った組織で、旧世界の領土を管区として分割した」
ゲオルグの目がカイを見た。
「管区の中にいる人間は管区民だ。法の保護がある。配給がある。医療がある。だが管区の外、灰域にいる人間は何だと思う」
「無籍民だ」
ロイドが低い声で答えた。
「統治機構体は管区を作り、灰域を無主地と宣言した」
ゲオルグが頷いた。
「灰域の住民はどこの管区にも属さない。戸籍がない。法律上、存在しない人間だ。人間ではないとは言っていない。ただ、どこの人間でもないだけだ」
カイはその言葉をうまく飲み込めなかった。生まれてからずっとこの土地にいて自分が「いない」ことになっているなど考えたこともない。朝に水を汲み夜には鍋を囲む。それは確かにあるのに紙の上ではないのだという。
ゲオルグの言葉は最後まで淡々としていた。ただ遺灰酒の瓶を握る手だけが節が白くなるほど力んでいる。
「焦土条約、という取り決めがある」
ゲオルグは続けた。
「統治機構体同士の交戦において、管区民の保護は義務とされている。だが灰域は無主地だ。灰域での交戦は、条約の対象外になる。つまり灰域で何が起きても、誰も責任を取らない」
カイの拳が膝の上で握り締められた。
「カレルの杜を潰した連中は、罰を受けないのか」
「受けない。灰域は法の外だ」
沈黙が落ちた。
ゲオルグはまた懐中時計の蓋を開けて止まった文字盤に目を落としている。ロイドは帳簿の角を意味もなく指でなぞっていた。
窓の外から子供の声が聞こえてくる。リックたちが廃材の間を走り回り、何かを取り合っては笑ってまた駆けていく。その声だけが静まった部屋にひとつずつ届いた。カイは子供たちの声を遠くに聞きながら膝の上の自分の拳を見つめていた。
* * *
ゲオルグの住居を出たカイは集落の中を歩いた。
広場では女たちが布を縫い合わせ、壊れた水道管には男が屈み込んでいる。子供たちは拾った鉄屑を誰のものかで言い合っていた。この一人ひとりが紙の上では存在しないのだという。さっきの部屋で聞いた話と目の前の洗濯物とがうまく同じ世界の出来事に思えない。カイは足を止めずただ歩いた。
クレアの診療所の前を通りかかった時、開いた戸の中から声が聞こえた。薬草と消毒薬の匂いが外まで漂ってくる。
クレア・アシュバーンがゲオルグの診察をしていた。話を終えて先に部屋を出たゲオルグがそのまま診てもらいに寄ったらしい。クレアはゲオルグの背中を触診しながら小言をこぼしている。
「脊椎の圧迫が進んでるわ。安静にしなさい」
「安静にしてたら集落が回らん」
「回らなくても死ぬよりマシでしょう」
クレアは少しも譲らずゲオルグの背中を指で押して痛む箇所を一つずつ確かめていく。そのたびにゲオルグが小さく唸った。丸眼鏡の奥の目は厳しいのに、湿布を当てる手つきは皺を伸ばすように一度ずつ撫でつけている。
カイが入口に立つとクレアが振り返った。
「何か用?」
「いや。通りがかっただけだ」
クレアは頷くとゲオルグの背中に湿布を貼り直した。その手つきは丁寧で慣れている。痩身で黒髪をうなじの高さで束ね、白衣の代わりに薄汚れたベージュのコートを羽織っている。ラストヘイムでただ一人の医師だった。
「クレアさん」
「何」
「管区の人間だったんだろ」
クレアの手が一瞬だけ止まった。湿布を持つ指が宙で固まる。
束ねた黒髪の隙間から覗く首筋に小さな刺青が見えた。細かな数字の並びだ。その上には皮膚を焼いて潰そうとした痕が重なっている。爛れて引き攣れた跡の下からそれでも数字の輪郭がうっすらと透けていた。
「昔の話よ」
それだけ言ってクレアは湿布を貼り終えた。表情は変えなかった。カイはそれ以上何も聞けなかった。聞いてはいけない気がしてただ会釈をして診療所を出た。
* * *
夜、広場でゲオルグが一人酒を飲んでいた。
焚き火の残り火が赤く燻って老人の横顔を照らしている。懐中時計を握りしめたまま微かに唇が動いていた。声は聞こえないが同じ短い形を何度も繰り返している。
見てはいけないものを見た気がしてカイは足音を殺してその場を離れた。それでも唇の動きが目の裏に残った。
住居に戻る途中で足が止まり南の空を見上げた。
いつもなら気にも留めない方角だ。だが今夜はその闇の向こうから目が離せなかった。あの先のどこかで統治機構体の傭兵が今も撃ち合っている。カレルの杜は潰され、次がどこかは誰にも分からない。
さっき見たゲオルグが何かを繰り返していた唇。昼間に廃材の間を笑って走り回っていたリックの声。鉄殻が一台この集落へ来ればそれだけで全部が終わってしまう。法も軍も止める手立てもここにはない。あるのは廃材の壁と寄せ集めの残殻だけだ。
頭の中はうまくまとまらない。怒ればいいのか怖がればいいのかも分からない。ただ聞かなければよかったと一瞬よぎってそんな自分が嫌になった。
カイは自分の手を見た。
鉄粉と錆で汚れた何の力もない手だ。
この手で何ができる。




