虫の知らせ
廃墟群の奥はラストヘイムの住民でも滅多に踏み込まない場所だ。崩落の多い区画で回収できる廃材はまだ残っているが、その分だけ足を取られる。手前の区画はもう漁り尽くした。残っているのはこういう危ない奥だけだった。
足元は瓦礫だらけで錆びた金属片が靴底を突いてくる。光は天井の隙間から細く差し込むだけだ。頭上には折れた鉄骨が幾本もぶら下がっている。カイは歩きながら一度だけ見上げ、束の継ぎ目が錆で痩せているのを目に留めた。崩れるならあのあたりからだ。
カイとリックはこの区画の廃材回収に来ていた。
「カイ兄、ここ入れるよ」
リックが狭い隙間を指差した。大人が入れない幅だ。リックの小柄な体なら横向きに滑り込める。
「何が見える」
「配管の束。銅線がまだ残ってる。あと、なんか四角い箱」
「箱は触るな。先に配管を出せ」
リックが隙間に体を滑り込ませて配管を一本ずつ引っ張り出した。継ぎ目に瓦礫が噛んでいるのを向こうで小さく舌打ちしながら外している。出てきた銅線は酸化して緑青を吹いているが、表面を爪で擦ると下から赤い銅の地肌が覗いた。これなら磨けば使える。
カイは受け取った配管を一本ずつ手のひらで量った。重いものは肉が厚くまだ芯が生きている。軽くて妙に乾いた音がするものは内側まで錆が回って使い物にならない。指の腹に伝わる重さと叩いた時の響きで、ガルドに教わったとおりに選り分けていく。
作業は順調だった。
リックが狭い場所を漁り、カイが選別する。使えるものは右の布袋、駄目なものは足元へ。袋がだんだん肩に食い込むほど重くなっていく。廃墟の中は埃っぽく、踏むたびに鉄錆の粒子が舞い上がって喉の奥を刺した。カイはゴーグルを下ろして口元を布で覆い直す。それでも舌に金気の味が残る。
半刻も続けるとリックの手も顔も真っ黒だった。本人は構わず隙間から見つけた配管を得意げに掲げてみせる。いいの拾ったと何度も言う。その半分は使い物にならない錆鉄だったがカイはいちいち指摘しなかった。黙って受け取って量り、使えるものだけを布袋へ落としていった。
そのときカイの体が凍りついた。
前触れはなかった。
うなじの毛が逆立ち、喉が縮んだ。指先が布袋を取り落とし、両足が勝手に逃げる構えを取っていた。理由は何もない。あの不安に似た、もっと切迫した何かだった。
「止まれ」
カイはリックの腕を掴んだ。声が自分のものとは思えないほど低かった。
リックが目を丸くした。「え、なに」
「動くな」
その語気にリックがびくりと固まる。
ひと呼吸の間を置いて頭上で金属の軋む音がした。
ぎち、と一度。それから堰を切ったように一気に。さっき継ぎ目を見上げたあの鉄骨だった。錆びた束が重力に負けて折れ、コンクリートの塊を巻き込んで落ちてくる。二人がいた場所を直撃した。地面が突き上げるように揺れ、粉塵が壁に弾けて一気に舞い上がる。
カイはリックを抱えてすでに数歩後ろへ跳んでいた。いつ動いたのか自分でも分からない。気づいた時にはリックの首根っこを掴んで後ろへ引き倒し、自分の体でその上に覆いかぶさっていた。落ちてきた瓦礫の破片がほんの足先のところで止まっている。
粉塵が収まるまで二人は動けなかった。覆いかぶさった背中に細かな砂礫がぱらぱらと降ってくる。
カイの心臓が喉の奥で暴れ、息を吸うたびに肺が痛んだ。曇ったゴーグルの内側で自分の荒い息だけが響く。リックを掴んだ指はしばらく自分の意思では開かなかった。手のひらの下でリックの薄い肩が小刻みに震えていた。
ようやくリックの声がした。掠れて少し震えている。
「カイ兄……なんで分かったの」
カイは答えられなかった。分かって動いたわけではない。
「勘がいいんだね、カイ兄」
リックは粉塵の中でもう笑おうとしていた。死にかけたことなどすぐに忘れる顔だ。カイはその頭を一度乱暴に押さえつけた。お前を巻き込んだのは自分だという言葉が喉まで出かかったが、結局何も言えなかった。勘で済ませてくれるならそのほうがずっと楽だった。本当のところ自分の体に何が起きたのかカイにも見当がつかない。
* * *
帰り道は旧世界の排水路を通った。
天井の低いコンクリートの通路が集落の地下を縫っている。頭上に拳一つ分しか余裕がなく、カイはどこで首を縮めればいいか目より先に体で覚えていた。子供の頃から数えきれず通った道だ。壁に等間隔で並ぶボルトに指先がいつものように触れていく。
リックが壁を撫でながら歩いている。
「ここのコンクリート、全然崩れてないね」
「上の建物は戦争でみんな潰れたけど、地下は残ってる」
「すごいなあ。こんなの、今は作れないよね」
カイは頷いた。だが半分しか聞いていなかった。指先が触れていくボルトの冷たさもリックの弾む声もいつもより遠くに感じる。さっき廃墟で体を貫いたあの感覚がまだ尾を引いていた。あれは何だったのか。考えても答えの出口は見えなかった。
* * *
作業場に戻ったカイは回収した配管を分別棚に積みながらガルドに廃墟での出来事を話した。
ガルドは残殻の関節をばらす手を止めず、赤葉の煙を吐きながら聞いていた。鉄骨が落ちる二秒前に体が動いたというくだりまで来たとき、その手がふと止まった。カイが話し終えてもしばらく何も言わない。火の消えかけた煙草の先だけが薄く赤く灯っている。
やがてガルドは握っていた工具を作業台に置いた。煙草を口元から離す。
「冴覚、という言葉を聞いたことがあるか」
カイは首を横に振った。聞いたことのない言葉だった。
「冴覚」
ガルドが繰り返した。その声にはいつもの飄々とした軽さがなかった。
「何だ、それ」
ガルドは答えなかった。赤葉に火をつけ直して深く煙を吸った。吐き出した煙が天井に昇っていく。
「いずれ話す。今はまだいい」
また同じ言葉だ。工具箱の中の金属部品の時と同じ「まだ早い」。
「ガルド」
「なんだ」
「俺の中で、何が起きてるんだ」
ガルドはカイの目をしばらく見た。何か言いかけてまた赤葉をくわえ直す。工具箱を閉じたあの日もガルドはこういう目をしていた。
「お前は自分の体を信じろ。体が止まれと言ったら、止まれ。それだけでいい」
それ以上は何も言わなかった。
* * *
夜、カイは眠れなかった。
集落の物音はとうに絶え、隣の小屋でゲオルグの寝息だけがかすかに聞こえる。カイは毛布の下で自分の手を開いたり閉じたりしていた。リックの腕を掴んだ手。掴んだ感触がまだ指の腹にはっきりと残っている。
あの瞬間、体の奥で何かが叫んだ。叫ばれたほうのカイにはそれが何なのかいまだに分からない。自分の体の中に自分の知らない部屋が一つあり、そこの住人が勝手に扉を叩いた。そんな感じだった。
窓の外は暗い。灰色の闇の中に鉄殻の残骸のシルエットが浮かんでいる。風が吹いて廃材の壁が僅かに軋んだ。その音のたびにカイの指が知らず力をこめた。
目を閉じた。冴覚。聞いたことのない言葉が頭の中で回り続けている。ガルドは知っている。何を知っていて何を黙っているのか。
答えは出なかった。手のひらの感触だけが夜の底でなかなか消えなかった。




