語り部の教室
マーサの教室は廃墟の一角にあった。
コンクリートの壁に囲まれた小さな部屋だ。天井の一部が崩落しており、そこにトタン板を被せて雨を凌いでいる。窓はなく旧世界の蛍光灯の残骸が天井からぶら下がっているが、とうに壊れている。代わりに獣脂の灯りが三つ壁際に置かれていた。薄暗い部屋の中に子供たちが7人座っている。
マーサ・ウィンターは教室の前に立ち、杖を黒板代わりの壁に当てた。
白髪を頭の上で丸く結い上げた小柄な老女だ。何枚も重ね着した古着の上に手編みのマフラーを巻いている。背筋だけは真っ直ぐに伸びていて、その手が壁に灰色のチョークで文字を書いた。
「今日は算術の続き。前回の掛け算を覚えてるかい」
子供たちが声を揃えた。7かける8は56。9かける6は54。暗唱の声が狭い部屋に反響する。一番後ろの小さい子は口だけ動かしており、数は合っていない。隣の子に肘で小突かれ、慌てて声を大きくした。マーサはそれを見て見ぬふりをした。
カイは教室の入口に立ってその光景を眺めていた。
マーサの教室には以前から時折顔を出している。自分が子供だった頃にもこの同じ床に座って読み書きと算術を教わった。マーサが旧世界の教科書の写しを膝に広げ、一人で続けている。写しの紙は何度も手で擦られて角がやわらかく丸まっていた。
「さて、今日は特別な授業をしよう」
マーサが杖を壁に立てかけ、よっこいしょ、と声に出して子供たちの前に腰を下ろした。獣脂の灯りが皺だらけの顔を下から照らしている。
「昔の話をしようか。旧世界の話だ」
子供たちの目が変わった。
旧世界の話はマーサの教室で一番人気の授業だ。
「昔、この大地には道路というものがあった」
マーサは膝の上で両手を組み、ゆっくりと話し出した。
「アスファルトという黒い石を敷き詰めた道がどこまでも真っ直ぐに伸びて、人は鉄殻に乗らずに遠くまで行けた。自動車という乗り物があってね。鉄殻よりずっと小さい。人が四人座れるだけの箱に車輪がついて、道路の上を走った」
「鉄殻より速いの?」
「もっとずっと速い時もあったよ。でもね、戦うためのものじゃなかった。人を運ぶためのものだった。家族で乗ってね、遠くまで遊びに行くんだ」
子供たちがざわめいた。「戦わない鉄の乗り物なんてあるの」と前のほうの子が口を尖らせた。
リックが手を上げた。
「マーサ婆ちゃん。ゼロ・デイ以前にはチョコレートが毎日食べられたって本当?」
マーサが微笑むと目尻の皺が深くなった。
「食べられたよ。甘くてね。口の中で溶けるんだ。今の灰域では想像もつかない味だった」
「キャンディより甘い?」
「比べものにならないよ。カラス商隊キャンディの十倍は甘い」
子供たちの目が丸くなった。十倍、と誰かが繰り返し、別の子が「百倍だってさ」と勝手に話を盛ってまたざわめく。リックは本気で悔しそうな顔をして、さっき市場でしまった飴をポケットの上からそっと押さえた。
マーサの話は続いた。電気が夜を昼のように照らしたこと。蛇口をひねれば透明な水が出たこと。病気になれば白い部屋に行けば治ったこと。子供たちは口を半分開けて聞いている。カイは後ろの壁際で灯りに照らされたマーサの横顔を見ていた。これを全部この人は本当に見たのだ。
* * *
授業が終わって子供たちが駆け出していった後、マーサはカイを呼び止めた。
「ちょっとおいで。あんたに見せたいものがある」
教室の奥にある小さな棚からマーサは古い帳面を取り出した。布で何重にも包んであり、解くのに少し手間取っている。中から出てきたのは黄ばんだ紙の束だった。一枚目に丸い字で名前が書かれている。テオ・セヴァル。
「あんたの父さんはね、この教室の最初の生徒だったんだ」
カイは帳面を見つめた。見覚えのある父の字だ。作業場に残されたメモ書きと同じ、癖のある丸い字だった。
「テオがここに来たのは10歳くらいだったかねえ。戦災孤児で、灰域をふらふら歩いてるところを拾った。痩せて、目ばっかり大きくてね。字も読めなかった。算術も知らなかった。でもね」
マーサの目が遠くなった。
「よく笑う子だった。何が楽しいのか、いつもニコニコしてた。廃墟の中を走り回って、鉄屑を拾っちゃ、これは何々だって言い張ってね。がらくたばっかりだったよ。それを宝物みたいに抱えて帰ってくるんだ」
カイは黙って聞いていた。父が走り回って笑う姿などカイは一度も見た覚えがない。記憶の中のテオ・セヴァルはいつも静かで工具を握っており、たまに不器用に肩を叩いてくれる大きな手だった。マーサの語る子供が自分の知っている父と同じ人間とは思えない。それでも黄ばんだ紙の丸い字だけは見覚えがあった。
「戦場がそれを奪った」
マーサが組んだ手にわずかに力を入れた。
「傭兵になって戻ってくるたびに、笑顔が減っていった。最後の頃は、あんたの前でだけ笑ってたよ」
気づくとカイの拳が握り締められていた。
「あんたは笑い方を忘れるんじゃないよ」
マーサはカイの顔を見上げた。黒い目が獣脂の灯りの中で光っている。
「真似なんかしなくていい。あんたはあんただよ」
それだけ言ってマーサはまた帳面のほうへ向き直った。カイは何も言えなかった。喉の奥に言葉にならないものが詰まっていて、頷くことしかできなかった。
* * *
教室の外に出るとリックが残殻を遠くから眺めていた。
集落の外縁に置かれたカイの残殻。寄せ集めの装甲板、錆苔のこびりついた関節、欠けた胴体装甲。まともな鉄殻とは呼べない代物で、雨が降れば関節の隙間に水が溜まり、晴れれば赤い錆が一段増える。それでもリックの目はそれを見つめて輝いている。
「カイ兄、あれっていつか動かしていいの?」
「お前にはまだ早い」
「でも鉄殻に乗りたい。強くなりたい」
リックの目はまっすぐで何の翳りもなかった。
リックは鉄殻の何を知っている。ガルドが溶接の後に酒を煽る理由を。クレアが鉄殻の話題になると黙り込む理由を。父が帰ってこなかった理由を。何も知らないままその目であれを見ている。胃の底がわずかに重くなった。
「リック」
「ん?」
「鉄殻に乗るのと、強くなるのは違う」
リックは首を傾げた。カイ自身もうまく続きを言えなかった。
「よく分かんないけど、カイ兄が言うならそうなのかな」
リックは笑って走っていった。カイはその背中を見送り、教室の方を振り返った。マーサはもう中に戻っている。
* * *
マーサが去り際にいつもと違う声で呟いた。
カイが教室に工具を届けに戻った時のことだ。頼まれていた小ぶりの金槌を棚に置くと、マーサは窓のない壁に背を預けて空を見上げていた。天井の隙間から覗く灰色の空。子供たちはとうに帰っており、獣脂の灯りも一つだけ残して消されている。
「最近、夢見が悪くてね」
いつもの講釈の調子ではなかった。低くて独り言に近い。
「大崩落の前も、こんな空気だった」
カイは何も言えなかった。あれを生き延びた老女が「あの頃と同じだ」と呟く。返す言葉が見つからなかった。
つられて空を見上げた。灰色は変わらない。風の匂いも鴉の声もいつもと同じだ。
カイはマーサの横に並び、もう一度だけ天井の隙間を見上げた。




