二つ目の施設
テオの矢印が指した先に、もう一つの施設があった。
前の施設から南東に15キロ。旧世界の道路跡を辿り、崩れた陸橋の下をくぐって辿り着いた場所は、外から見れば灰原草に覆われた丘にしか見えなかった。だが丘の南面に、コンクリートの壁面が露出している。
入口は前の施設より大きい。幅5メートルの防爆扉が、半ば開いた状態で固定されている。扉の表面に鋳込まれた文字は風化して読めないが、Ψの記号だけは鮮明に残っていた。
「先に入った奴がいる」
トワが扉の隙間を調べた。
「蝶番の錆の削り方はテオのものだ。だがそれとは別に、扉の端にバールで抉った跡がある。これは別の人間だ」
ガルドが跡を確認した。
「グランヴェルトの工具痕だ。俺が育てた世代の技匠が使う型のバールの跡」
カイとリオンが顔を見合わせた。グランヴェルトの先遣部隊がここにも来ていた可能性がある。
施設の中に入った。
前の施設より規模が大きい。入口から続く廊下は幅4メートル。天井も高く、かつては大型の機材を搬入していたことが窺える。壁面のΨ記号は前の施設と同じだが、間隔が狭い。3メートルおきに刻まれている。
非常灯が灯っていた。
天井の端に設置された小さな照明が、橙色の光を落としている。明るくはないが、携帯灯なしでも歩ける程度の照度がある。30年間、灯り続けている。
「前の施設より状態がいい」
リオンが壁面の計器類を確認した。
「電源系統が生きている。それだけでなく、換気系統も動いている。空気の流れがある」
確かに、廊下を微風が流れていた。施設の奥から入口に向かって、一定の速度で。換気扇が回っている音は聞こえないが、何らかの空気循環システムが稼働している。
* * *
地下への階段を降りた。
この施設は地下3階まである。前の施設と同じ構造だが、各階の面積が倍以上ある。研究区画が複数に分かれ、通路で接続されている。
地下1階の研究区画を調べた。旧世界の実験器具が整然と並んでいる。前の施設とは違い、ここでは機材が散乱していない。撤退した研究者が、ある程度の秩序を保って施設を離れた痕跡がある。
テオの足跡を探した。地下1階の通路の壁に、小さな「T.S.」の刻印が見つかった。矢印は下を指している。父は地下の深部に向かった。
地下2階に降りると、温度の変化が始まった。
前の施設と同じだ。外気より明らかに暖かい。だが今回はさらに顕著だった。コンクリートの壁に手を触れると、体温に近い温もりが掌に伝わる。
「妙に暖かくないか」
トワが首筋の汗を拭った。
「前の施設でも感じたが、ここはもっとひどい。地下で暖房が30年動いてるなんて、どんな動力を使えばそうなる」
ガルドが黙って壁を見つめていた。その目が、何かの確信に近づいている色をしていた。
カイの冴覚が、再び変化し始めた。
前の施設で経験したのと同じ感覚。世界の解像度が上がっていく。壁の継ぎ目の0.1ミリの段差が見える。コンクリートの微細な気泡の配列が、一つ一つ判別できる。
音が聞こえる。
リオンの呼吸。1秒に1回。吸気と呼気の間に0.3秒の間がある。トワの革靴の底が床に触れるたびに、靴底のパターンが微細な摩擦音を立てる。ガルドの工具ベルトで、スパナが微かに揺れて金属音を発している。
情報の洪水だ。脳が処理しきれない量の知覚データが、五感を通じて流れ込んでくる。
だが今回は、もう一つの変化があった。
灰色が落ちかけた。
視界の端から、色彩が薄れ始めた。壁の灰色が均一化し、携帯灯の光だけが橙色に浮かび上がる。灰色の静寂の入口。戦闘中でもないのに、冴覚が発動の寸前まで研ぎ澄まされている。
カイは意識的に呼吸を整えた。深く吸い、ゆっくり吐く。色が戻ってくる。感覚の濃度が、わずかに下がった。
「セヴァル」
リオンが小声で呼んだ。
「大丈夫だ」
「顔が白い」
「大丈夫だ。先に進む」
* * *
地下2階の奥に、端末の並ぶ部屋があった。
旧世界のコンピュータが6台。うち2台のモニターに、薄い光が灯っている。画面に文字が表示されていた。
リオンが慎重にキーボードを操作した。画面の文字がスクロールする。旧世界の言語だ。リオンはセルヴィスの士官教育で旧世界の言語の基礎を学んでいる。完全には読めないが、断片的に拾える。
「『プロジェクト』。『観測データ』。『場の強度』。『被験者の応答速度』……」
リオンが声に出して読み上げた。
「研究記録だ。何かの観測実験を行っていた。被験者がいたということは、人体実験を含む研究だったことになる」
「何の研究だ」
カイの問いに、リオンは首を振った。
「分からない。ただ、一つ気になる単語がある。何度も繰り返されている」
「何だ」
「読めない単語だが、この綴りは……」
リオンが画面を指差した。文字の配列を追う。
「ラテン語の語根にギリシャ文字の接頭辞がついている。壁の記号と同じ。Ψ」
ガルドが端末の前に立った。画面を凝視し、それから目を閉じた。顔の筋肉が強張っている。
「ガルド」
カイが呼んだ。
「先に進む。地下3階を確認する」
ガルドの目が開いた。前の施設で引き返させた時と同じ緊張が、顔に浮かんでいる。
「前と同じだ。奥には行かない方がいい」
「テオは行った。壁にT.S.の刻印がある。下を指して」
「テオは――」
ガルドの声が途切れた。テオは行った。テオはこの施設の最深部を見た。そしてその上で、南東に向かった。
「テオがどこまで見たか、確認したい」
カイの声は静かだった。要求ではなく、意志の表明だった。
ガルドは長い沈黙の後、頷いた。
「ただし、扉は開けない。外から見るだけだ」
* * *
地下3階の最奥部。
重い扉が、そこにあった。
前の施設と同じだ。だが、こちらはさらに大きい。高さ3メートル、幅4メートル。表面にΨの記号が鋳込まれている。記号の大きさは直径50センチ。その下に、旧世界の文字が3行。
そしてこの扉は、開いていなかった。前の施設でも開いていなかった。テオはこの扉を開けずに、外側だけを確認して先に進んだのか。それとも開けて、閉じ直したのか。
カイは扉に手を触れた。
前の施設と同じ振動。低周波の、人間の可聴域を下回る脈動。だがこちらはより強い。掌だけでなく、腕を伝って肩まで振動が届く。何かが動いている。扉の向こうで、何かが30年以上、脈打ち続けている。
カイの冴覚が、扉に触れた瞬間に跳ね上がった。
灰色が落ちた。
一瞬だけ、世界から色が消えた。携帯灯の橙色だけが残り、他の全てが灰色のモノクロームに沈んだ。扉の表面のΨの記号が、灰色の中で僅かに色づいて見えた。赤でも橙でもない。名前のない色。見たことのない色。
そして音が消えた。
リオンの呼吸も、トワの足音も、ガルドの工具の金属音も。全てが水底に沈んでいく。
残ったのは、自分の心臓の音。
そして――扉の向こうから伝わる、低い脈動。
カイは手を離した。
色が戻った。音が戻った。額に冷たい汗が浮いていた。
「引き返す」
カイ自身がそう言った。ガルドに言われる前に。
あの扉の向こうにあるものは、今の自分には早い。そのことだけが、掌の記憶として残った。
4人は施設を出た。
外の空気が、肺に痛いほど冷たかった。灰域の風が、施設の中で上がった体温を奪っていく。
東の丘陵の向こうに、テオの矢印が続いている。施設の中身ではなく、テオがその先で何をしたか。それが今、追うべきものだ。




