リオンの|灰域《アッシュランド》
星が多すぎる。
リオンは仰向けに寝転がり、灰域の夜空を見上げていた。フォートレスでは見えなかった星の群れが灰色の空の裂け目から溢れ出ている。街灯がなく、光害もない。見捨てられた大地の上でだけ空はこれほど鮮やかに見えるのだ。
皮肉だと思った。セルヴィス管区の夜空は安全で清潔だが、何も見えない。
野営地の焚き火が低く燃えている。赤葉の枯れ枝がときおり小さな音を立てて爆ぜた。カイが交代で番をしており、残殻のそばに腰を下ろしてテオの地図を膝の上に広げている。携帯灯の光で地図を読む横顔が灰域の暗がりに浮かんでいた。
リオンは体を起こした。灰域の地面は硬く、寝返りを打つたびに背中の骨が石を拾う。フォートレスの兵舎のベッドが懐かしいとは思わなかったが、体は正直で腰が痛む。
「眠れないのか」
カイが視線を地図から上げずに言った。
「少し」
「灰域パンが胃にもたれてるんだろ。最初はそうだ。3日で慣れる」
リオンは苦笑した。灰域パンの硬さには慣れ始めているが、その味の素朴さはまだ舌が受け入れきれていない。フォートレスのレーションも味気ないと思っていたものの、灰域の食事はその更に下を行く。塩と乾燥した穀物の粉と水だけで作られたパンに、干し肉の塩気を合わせて食べるのだ。栄養はあるが、味はない。
だが共同窯で焼かれたパンを分け合う食事には、レーションにはない温もりがあった。
リオンはカイの隣に座った。2メートルの距離を1メートルに詰めて。
「地図に何か新しいものは」
「テオの矢印が二つ目の施設から先に続いている。南東方向。アイアンウェルの手前で矢印が途切れてる」
「途切れている?」
「地図の端に到達してるんだ。テオが持っていた地図の範囲を超えた。ここから先は、テオが別の地図を使ったか、地図なしで進んだか」
カイが地図を折り畳んだ。紙の端が摩耗して折り目に沿って裂けかけている。何度も開いては閉じた痕跡が残る、テオの手が何百回と触れた紙だ。
沈黙が落ちた。
焚き火の音だけが灰域の夜に響いている。
* * *
リオンは自分の手を見た。
灰域の砂埃で汚れた指先は、爪の間に茶色い土が入り込んでいる。フォートレスでは考えられなかったことだ。毎朝の身だしなみ検査に引っかかるだろう。爪の汚れや靴底の泥、制服の皺など、全てが減点対象だった。
今となってはそのどれも意味を持たない。爪が汚れていても誰も何も言わず、靴底には灰域の泥がこびりついている。制服は荷物の底に押し込んだままだ。今着ているのはストーンクロスの市場で物々交換した暗色の戦闘服で、灰域の既製品である。サイズは少し大きいが動きやすい。
灰域に来て何日が経っただろうか。
最初の3日間は体が持たなかった。灰域の水は浄水結晶で処理しても微かに土の味がするし、食事は量が少なく質は論外だ。朝は寒さで目が覚め、昼は砂塵で目が痛み、夜は焚き火の煙で喉が焼ける。
だが4日目から変わり始めた。水の味に気づかなくなり、食事の量にも体が合わせた。砂塵の中での呼吸法も体が覚えている。リオンの体は訓練の成果として順応を始めていた。セルヴィスの正規訓練にある野外生存課程が効いているのだ。
とはいえ適応と受容は違う。体は灰域に慣れたが、心はまだ揺れている。
「トワ」
少し離れた場所で横になっていたトワが片目を開けた。
「ん」
「あなたは灰域で何年暮らしている」
「7年ぐらいだ。クレスタの傭兵ギルドを辞めてから」
「慣れるものか。この暮らしに」
トワは両目を開けて星空を見上げた。
「慣れるかどうかじゃない。ここにいるかどうかだ。いると決めたら、慣れるも慣れないもない。ただ生きるだけだ」
リオンにはその言葉の重さが分かった。選択の問題なのだ。灰域にいることを選んだ人間と灰域しか知らない人間とでは、同じ場所にいても見えているものが違う。
「お前、軍人にしちゃ適応が早い」
「管区の人間がみんな軟弱だと思わないでほしい」
「思ってないさ。ただ、管区の連中は灰域を『人が住む場所じゃない』と思ってるだろう。お前は違う。ここを見て、『人が住んでいる場所だ』と理解してる。その差はでかい」
リオンは黙った。トワの言葉は正確だった。灰域は思っていたよりも人が住む場所だった。荒れていて貧しく危険だが、そこには人がいる。笑い、怒り、食べ、眠り、朝を迎えている。セルヴィスが「保護」の名の下に踏み潰そうとしているのはその全てだ。
* * *
深夜になり、トワが番を引き継いでカイが眠りについた。
リオンはまだ起きていた。膝を抱えて焚き火の残り火を見つめている。赤い炭が風に煽られるたびに脈打つように明滅する。
カイの寝顔を見た。
灰域の砂埃に汚れた頬や左頬の薄い傷跡、そして閉じた目の周りには疲労の影がある。テオの地図を胸ポケットに入れたまま眠っていた。
この人は戦闘員ではないとリオンは思った。
カイの本質は整備士だ。工具を握る手つきや機体の不調を音で聞き分ける耳、部品の摩耗を指先で感じる感覚。その全てが「作る側」の人間のものだ。それでも守るために戦っている。守りたいものがあるから本来の場所を離れ、操縦桿を握っているのだ。
その不器用さがリオンの胸の奥を突く。
リオンは再び自分の手を見た。灰域の砂埃で汚れた手は、軍人のものではなくただの人間の手だ。
私はまだセルヴィスの人間なのか。
答えは出ないし、出なくてもいい。今はここにいる。ただそれだけだ。
焚き火の最後の炭が静かに灰へ沈んだ。
東の空はまだ暗い。だが暗闇の中にも灰域の夜明けの予兆がある。空気の温度がほんの僅かに変わるのだ。灰域の朝は温度の変化から始まる。光よりも先に空気が教えてくれる。
リオンは灰域に来て初めて、朝が来るのを待ち遠しいと思った。




