Ψの壁の前で
焚き火の炎が揺れている。
ガルドは火を見つめたまま、赤葉の煙草を咥えていた。煙が細く夜空に昇る。施設を出てから3時間。カイとリオンは残殻の整備に戻り、トワは周囲の警戒に出ている。ガルドだけが、動かずに火の前に座っていた。
あの部屋の電源が生きていた理由を、ガルドは知らない。
だが推測はできる。
グランヴェルト時代、鋳脈のリレー素子を設計していた頃の記憶が蘇る。リレー素子に使う素材の中に、旧世界から回収した特殊な合金が含まれていた。その合金の出処を、ガルドは詳しく知らされなかった。「必要な素材だ。それだけ知っていればいい」とヴィルヘルム・ブラントは言った。
だが一度だけ、ヴィルヘルムが酒の席で口を滑らせたことがある。
あれは焦土紀16年の冬だった。鋼城計画の初期段階で、動力源の選定について深夜まで会議が続いた日だ。報告書を提出し終えた後、ヴィルヘルムが珍しく執務室に酒を出した。ガルドとテオと三人で飲んだ。
ヴィルヘルムは一杯だけ飲み、目を閉じて言った。
「ヘリオスの遺産がなければ、鋳脈は作れなかった」
テオとガルドは顔を見合わせた。ヘリオスとは何だ。ヴィルヘルムはそれ以上語らず、酒を片付けて退室した。
あの一言が、ガルドの中にずっと残っている。
今日、あの施設で見たもの。
30年以上電源が生きている機器。壁に鋳込まれたΨの記号。地下に降りるほど上がる温度。そしてカイの冴覚が異常に鋭くなった事実。
ガルドはリレー素子の設計者だ。素材の特性は体で覚えている。あの合金に微弱な電流を流すと、周囲の空気に説明のつかない変化が起きることがあった。センサーの数値が一瞬跳ね上がる。計測誤差として処理していたが、頻度が高すぎた。
あの施設の地下にあるものが、リレー素子に使われた素材と同じ系統のものだとすれば。
カイの感覚が鋭くなったのは、偶然ではないかもしれない。
* * *
ガルドは懐からテオのメモを取り出した。
折り畳まれた紙片。テオの筆跡。インクは褪せているが、文字は判読できる。
テオがケストレルの格納庫に残していたものの一つ。ガルドはまだカイに見せていない。
「イグニスは火ではない。火の前にあるもの――」
メモはそこで途切れている。テオは何かに気づき、それを書き留めようとした。だが最後まで書けなかった。あるいは、最後まで書く言葉を見つけられなかったのかもしれない。
イグニス。
ラテン語で「火」を意味する言葉。テオはそれを知っていた。あの施設の奥で何かを見つけ、それが「ヘリオス」とヴィルヘルムが呼んだものに繋がると直感したのだろう。
ガルドにはテオほどの直感がない。だが技匠としての経験がある。
あの施設に残っていたものが何であれ、テオはそれを知った上で、鋼城の設計データを持ち出して逃げた。テオが隠した「鋼城の設計データ」は、単なる兵器の図面ではないかもしれない。鋼城を動かすもの。鋼城の心臓部に関わる、何か。
ガルドは煙草の火を踏み消した。
新しい一本に火を点ける気にはなれなかった。
* * *
足音がした。リオンが近づいてくる。
セルヴィスの軍服を脱いだリオンは、暗色の戦闘服に灰域の砂埃を被って、管区の軍人には見えなくなっていた。だが背筋の伸ばし方だけは変わらない。訓練で叩き込まれた姿勢は、服を替えても抜けない。
「少し聞きたいことがある」
リオンが焚き火の反対側に腰を下ろした。
「聞け」
「あの施設で、あなたは何かを知っていた。壁の記号を見た時の表情は、初めて見る人間のものではなかった」
ガルドは火を見つめた。この若い軍人は目がいい。戦場で鍛えた観察眼が、ガルドの内側を覗こうとしている。
「全部は言えない。まだ確かめていないことが多すぎる」
「では、確かめたことだけでいい」
「一つだけ」
ガルドは膝の上に両手を置いた。
「セルヴィスで『イグニス』という言葉を聞いたことはあるか」
リオンは首を横に振った。
「ない。何のこと」
「何でもない」
リオンの目が細くなった。何でもないはずがないと言いたげだ。だが追及はしなかった。ガルドが「言えない」と言った時は、理由があることを理解している。
沈黙が落ちた。
焚き火の薪が爆ぜる音だけが、夜の灰域に響いた。
「カイの感覚が、あの施設の中で変わっていた」
リオンが静かに言った。
「気づいたか」
「私にも冴覚がある。カイの呼吸が変わったのが分かった。通常より浅く、速い。冴覚が深く入った時の呼吸だ。だが戦闘中でもないのに、あの深さは異常だった」
「ああ。異常だ」
「原因は」
「分からん。だが、あの施設の奥に何かがある。三10年間動き続けている何かが、カイの冴覚に影響を与えた可能性がある」
リオンの瞳が、焚き火の光を受けて揺れた。紺色の目の奥に、計算と不安が交差している。
「あなたが地下3階で引き返させた理由は、それか」
「それもある」
「それ以外の理由は」
「テオが同じ場所を通ったはずだ。テオはあの扉の向こうを見た。見た上で、先に進んだ。テオが進んだなら、今の俺たちに必要なのはあの扉の中身じゃない。テオがその先で何をしたかだ」
リオンは頷いた。論理的な説明だった。だがガルドの声には、論理以上の重さがあった。
ガルドは再びメモを見下ろした。テオの文字。荒い筆跡の中に、切迫した何かが滲んでいる。
「イグニスは火ではない。火の前にあるもの――」
その続きを、ガルドは読むことができない。テオだけが知っていた何かがある。テオが命をかけてグランヴェルトから持ち出したものは、鋼城の設計図面だけではなかったのかもしれない。
東の空が、僅かに白み始めていた。
ガルドは工具箱を引き寄せ、蓋を開けた。テオの工具箱。中に並ぶ道具の一つ一つに、テオの指の跡が残っている。
テオの足跡を追う旅は、まだ終わっていない。
むしろ今日、始まったばかりかもしれなかった。
イグニス -- 旧世界の研究機関が発見した未知のエネルギー現象。その独占を巡る暗闘が大崩落を加速させた。




