旧世界の研究施設
壁の向こうから風が吹いている。
それだけでカイの肌は粟立った。地下施設の奥から吹く風には外気にはない温度がある。30年以上閉ざされていたはずの空間から流れる空気が微かに温かい。
テオの地図に記された矢印を辿り、4人はストーンクロスの南東30キロに位置する旧世界の研究施設に足を踏み入れていた。
鉄殻では入れない。入口の防爆扉は幅3メートルだが、人間が一人ずつ横向きに通れる程度の隙間が空いている。誰かがこじ開けた痕跡だ。蝶番の錆は古く10年以上前に開かれたものに見える。
「テオの手口だ」
ガルドが扉の端を照らした。蝶番の錆の中に精密工具で削った痕がある。
「あいつは扉を壊さない。蝶番を外す。施設の構造を傷つけずに中に入る技匠の流儀だ」
カイは黙って頷いた。父がここを通り、同じ扉を同じやり方で開けたのだ。
施設内は暗く、リオンが携帯灯を点けると、白い光の円が灰色のコンクリート壁を舐めるように照らし出した。
廊下の幅は2メートル。天井は高く配管が蜘蛛の巣のように走っている。壁面にはケーブルの束が這い、一部は断線して垂れ下がっていた。床には埃が厚く積もり、四人の足跡だけが黒い線を引く。
「空気が死んでない」
トワが鼻を鳴らした。
「30年密閉されてりゃ、空気が腐ってもおかしくない。だが息はできる。どこかに通気口が生きてる」
確かにカビの匂いはするが、窒息するような淀みはない。廊下を進むにつれて温度がわずかに上がっていくのをカイの肌は感じ取っていた。
* * *
最初の部屋は何かの実験室だった。
金属製の長机が並び、その上には旧世界の器具が散らばっている。ガラス容器は割れて破片が床に落ち、埃の中で鈍く光っていた。壁面の計器盤にリオンが近づく。
「電源が入っている」
四人が同時に足を止めた。
計器盤の端にある小さなランプが緑色の光を灯している。微弱だが確かに点いていた。30年以上前の施設で電源が生きているのだ。
ガルドが無言で計器盤を調べる。指が操作盤の表面を辿り、端子の配列を確認していく。
「蓄電池じゃない。この消費電力で30年は保たない」
「なら何で動いてる」
トワの問いにガルドは答えなかった。
カイはその部屋に入った瞬間から違和感を覚えていた。
空気が違う。耳の奥の圧力が変わったような潜水した時に似た感覚があり、音が遠い。自分の足音が綿に包まれたように鈍く聞こえた。
そして――感覚が鋭くなっていた。
壁の向こうから虫の這う音がする。コンクリートの内側を何かが極めて小さな足で移動している音が聞こえるのだ。
空気の流れの微細な変化が皮膚の産毛を通じて伝わってくる。廊下の先にある扉が僅かに開いていることや、そこから流れる空気の温度がこの部屋より0.5度ほど高いことまで分かる。
カイは自分の手を見た。震えてはいないが、感覚の密度が普段の数倍に跳ね上がっていた。
「リオン。この壁に何か刻んである」
トワの声で意識が引き戻される。
壁面に記号が刻まれていた。
等間隔に三つ。
Ψ。
ギリシャ文字のプサイ。上向きの三叉の形をした記号がコンクリートの壁に直接刻印されている。塗料ではなく型枠の段階で壁面に鋳込まれたもので、施設の建設時からこの記号は存在していたのだ。
「見たことがある?」
カイがリオンに問うた。
「いいえ。セルヴィスの記録にも、この記号は載っていない」
リオンは携帯灯でΨの記号を照らした。刻印の深さは均一で5センチ間隔の正確な配置だ。研究施設の管理標識の類だろうが何の施設を示すのかは分からない。
ガルドが記号の前で立ち止まっていた。その横顔をカイは見る。何かを知っている顔だったが、ガルドは口を開かなかった。
* * *
奥の通路を進んだ。
施設は地下に3層の構造を持ち、カイたちがいるのは地下1階だ。階段を降りるにつれて温度が上がり、地下2階の廊下は外気より明らかに暖かかった。
「暖房が生きてるはずがない」
トワが壁に手を当てる。
「だがコンクリートが温かい。地熱でもない。この辺りに火山はない」
カイの冴覚は地下2階に降りた時点で更に鋭くなっていた。
自分の心拍が聞こえる。一分間に72回と規則正しい。その間にリオンの心拍も聞こえる。68回。トワは76回でガルドは64回。
4人の心臓の音が静かな地下施設の中で異なるリズムを刻んでいる。
聞こえるはずのない音が聞こえるのだ。
カイは額に手を当てた。頭痛はないし視界も正常だ。ただ感覚の閾値が下がっている。普段なら脳が無視する微細な情報が全て意識に上がってくる。
地下2階の突き当たりに端末のある部屋があった。
旧世界のコンピュータだ。画面は死んでいるが本体の小さなランプが一つだけ点いている。ここでも電源が生きていた。
リオンが端末を操作してキーボードを叩く。何度か試みると画面に文字の断片が表示された。旧世界の言語だ。読めない箇所が多いもののいくつかの単語は判別できた。
「『反応』。『触媒』。『場』。研究記録の断片のようだが……」
リオンが眉を寄せる。
「何の研究なのか、これだけでは分からない」
ガルドの表情がさらに硬くなった。
* * *
地下3階へ降りる階段の前でカイは足を止めた。
階段の壁にもΨの記号がある。今度は一つではなく、壁の両面に等間隔で連なっていた。施設の深部に向かうほどこの記号の密度が上がっている。
地下3階の最奥部に重い扉があった。
防爆扉よりも厚い。表面に大きなΨの記号が鋳込まれ、その下に旧世界の文字が数行刻まれているが読めない。
カイはその扉に手を触れた。
金属の表面が微かに振動していた。低い低い周波数。人間の可聴域を下回る振動が掌を通じて腕に伝わってくる。機械が動いているのだ。この扉の向こうで、何かが30年以上動き続けている。
「ここから先はやめておこう」
ガルドの声だった。
カイが振り返るとガルドの顔からは血の気が引いていた。カイが今まで見たことのない表情だ。恐怖ではない。ガルドの目の奥にあるのはもっと根深い何か。知っている者だけが浮かべる重い緊張だった。
「理由を教えてくれ」
「理由は言えない。だが俺を信じろ」
カイはガルドの目を見た。嘘をついている目ではないが、全てを語っている目でもない。
トワが壁に背を預けて言った。
「技匠がやめろと言ったら、やめる。それが灰域のルールだ」
リオンもガルドの判断に頷く。この場にいる全員がガルドの直感を信用していた。
地下3階を引き返し地下1階に戻った。
カイの感覚が階を上がるにつれて元に戻っていく。壁の虫の音は聞こえなくなり他人の心拍も消えた。まるで水面から顔を上げたように通常の感覚が戻ってくる。
「気のせいか」
カイは呟いた。
「いいや」
ガルドが短く答える。それ以上は言わなかった。
施設の出口に向かう途中、カイは壁の低い位置に刻まれた文字を見つけた。
工具で刻んだ小さな文字。「T.S.」。
そしてその隣には南東を指す矢印がある。
テオ・セヴァルの頭文字だ。父はここを通り、何かを確認してさらに先に進んだのだ。
カイの心臓が速く打った。この施設の中で経験した異常な感覚が何だったのかはまだ分からない。だが父も同じものを感じたはずだ。そして父はその先にあるものを探しに行った。
矢印の指す方角をカイは睨んだ。南東。テオが歩いた道の続きがそこにある。




