見捨てられた理由
灰域は法の外。そこに暮らす人間は、どこにも属さない。
朝、ロイドがカイの住居に来た。
ノックではなく、廃材のドアを拳で叩く音で目が覚めた。まだ空が白み始めたばかりの時刻だ。カイが扉を開けると、ロイドは腕を組み、帳簿を脇に挟んでいた。いつもより顔が硬い。
「話がある。ゲオルグのところに来い」
ゲオルグの住居は、集落の中心にある廃工場の二階だった。
鉄骨の骨組みがむき出しの部屋に、ゲオルグが座っていた。膝の上に懐中時計を置き、傍らに遺灰酒の瓶がある。68歳の大男は、カイとロイドを見ると「まあ、座れ」と言った。
ロイドがカラス商隊から聞いた情報を話した。
南の集落が壊滅した件だ。名前はカレルの杜。ラストヘイムから南に40キロ。カラス商隊の中継地点の一つで、30人ほどが暮らしていた小さな集落だ。
「潰されたのは、セルヴィスとクレスタの傭兵部隊の交戦が灰域にまで及んだからだ」
ロイドの声は事務的だったが、指先が微かに震えていた。
「セルヴィス防衛機構とクレスタ資源同盟。統治機構体同士の争いが、灰域で起きてる。俺たちの土地で」
「なぜ俺たちが巻き込まれなきゃならない」
ロイドの言葉にゲオルグは答えなかった。懐中時計の蓋を開き、中を見つめた。文字盤は止まっている。亡き妻の形見だ。
「カイ、お前はここに座って聞いていけ」
ゲオルグの声が変わった。穏やかさの底に、重いものが沈んでいる。
「灰域が見捨てられたのは、焦土紀元年の最初の日だ」
ゲオルグは遺灰酒を一口飲み、話し始めた。
「大崩落が終わった時、焼け跡の上に立ち上がったのは国家じゃなかった。統治機構体だ。セルヴィス、グランヴェルト、クレスタ。あいつらは戦火の中で生き残った連中が作った組織で、旧世界の領土を管区として分割した」
ゲオルグの目が、カイを見た。
「管区の中にいる人間は管区民だ。法の保護がある。配給がある。医療がある。だが管区の外、灰域にいる人間は何だと思う」
「無籍民だ」
ロイドが低い声で答えた。
「統治機構体は管区を作り、灰域を無主地と宣言した」
ゲオルグが頷いた。
「灰域の住民はどこの管区にも属さない。戸籍がない。法律上、存在しない人間だ。人間ではないとは言っていない。ただ、どこの人間でもないだけだ」
言葉は淡々としていた。だがカイは、その淡々とした声の奥に30年分の怒りが沈んでいるのを感じた。
「焦土条約、という取り決めがある」
ゲオルグは続けた。
「統治機構体同士の交戦において、管区民の保護は義務とされている。だが灰域は無主地だ。灰域での交戦は、条約の対象外になる。つまり灰域で何が起きても、誰も責任を取らない」
カイの拳が、膝の上で握り締められた。
「カレルの杜を潰した連中は、罰を受けないのか」
「受けない。灰域は法の外だ」
沈黙が落ちた。
遺灰酒の瓶が、ゲオルグの膝の横で揺れていた。窓の外から、子供の声が聞こえる。リックたちが廃材の間を走り回っている。その笑い声が、この部屋の重さと対照的だった。
* * *
ゲオルグの住居を出た後、カイは集落の中を歩いた。
広場では女たちが布を縫い合わせている。壊れた水道管を直す男がいる。子供たちが鉄屑を拾って遊んでいる。
200人の集落。地図に載らない場所。法の外の人間たち。
それでも朝が来れば水を汲み、パンを焼き、子供に読み書きを教え、壊れた屋根を直す。その営みが、焦土紀元年からずっと続いている。
クレアの診療所の前を通りかかった時、中から声が聞こえた。
クレア・アシュバーンがゲオルグの診察をしている。ゲオルグの背中を触診しながら、小言を言っていた。
「脊椎の圧迫が進んでるわ。安静にしなさい」
「安静にしてたら集落が回らん」
「回らなくても死ぬよりマシでしょう」
クレアの声は冷静だが、語気が強い。丸眼鏡の奥の目は厳しかった。
カイが入口に立つと、クレアが振り返った。
「何か用?」
「いや。通りがかっただけだ」
クレアは頷き、ゲオルグの背中に湿布を貼り直した。その手つきは丁寧で、慣れている。ラストヘイムでただ一人の医師。41歳。痩身で、黒髪をうなじの高さで束ね、白衣の代わりに薄汚れたベージュのコートを羽織っている。
「クレアさん」
「何」
「管区の人間だったんだろ」
クレアの手が、一瞬だけ止まった。
首筋に、小さな刺青が見えた。数字の並び。消そうとして火傷させた痕が、完全には消えていない。
「昔の話よ」
それだけ言って、クレアは湿布を貼り終えた。表情は変えなかった。だがカイは、その「昔の話」が一言で済むような過去ではないことを感じていた。
この集落には、語られない過去を持つ大人が多い。ガルドも、クレアも、ゲオルグも。それぞれが何かを背負って灰域に辿り着き、ラストヘイムに根を下ろした。その過去を詮索しないのが、灰域の礼儀だ。
* * *
夜、広場でゲオルグが一人酒を飲んでいた。
焚き火の残り火が赤く燻ぶり、老人の横顔を照らしている。懐中時計を握りしめ、唇が微かに動いていた。声は聞こえない。だがカイには、それが名前を呟いているのだと分かった。亡き妻の名前だ。
カイはそれを遠くから見て、何も言えずに立ち去った。
住居に戻る途中、南の空を見上げた。
灰色の闇の向こうに、何があるのか。統治機構体の戦闘が近づいている。カレルの杜は潰された。次はどこだ。
守るべきものが、ここにある。
ゲオルグが懐中時計を握る手。マーサが子供に字を教える声。タリアが通信機を弄る横顔。リックが双眼鏡を覗き込む目。ロイドが帳簿に記す数字。ガルドが赤葉の煙を吐く横顔。
だがそれを脅かす力は、途方もなく大きい。
鉄殻が集落を踏み潰す。それだけで30人の暮らしが消える。灰域には、それを止める力がない。法もない。軍もない。あるのは廃材の壁と、寄せ集めの残殻と、200人の人間だけだ。
カイは自分の手を見た。
鉄粉と錆で汚れた、17歳の修理工の手。
この手で、何ができる。
無籍民――統治機構体のいずれの管区にも戸籍を持たない灰域の住民の法的地位。焦土条約における保護対象外とされ、灰域での軍事行動は事実上の無法状態にある。




