協力の条件
残殻の左膝の関節軸受けが摩耗していた。
カイ・セヴァルはストーンクロス近郊の野営地で、機体の整備をしていた。潤滑油を交換し、軸受けのボールベアリングを一つずつ検査する。七つのうち二つに微細な傷があった。交換用の部品はない。傷を研磨して再使用するしかない。
ガルドの工具を使う。テオの工具箱に入っていた、精密やすり。灰域では手に入らない細かさの目を持つ旧世界の製品で、ガルドが大切に保管していたものだ。やすりの柄を握ると、使い込まれた木が掌に馴染む。何千回も握られた手触り。
ベアリングの傷を研磨する。微細な金属粉が指先に散る。一つ目が終わり、二つ目に取りかかった時、足音が聞こえた。
リオン・アスフォードが歩いてきた。暗色の戦闘服に外套。灰域に来てから3日目。頬のこけ方は変わらないが、歩き方に昨日よりも力がある。食事と水を摂ったからだろう。
「何か、手伝えることはないか」
カイは手を止めた。
リオンの目は真っ直ぐだった。何もしないでいることに耐えられない性格なのだろう。軍人の習性かもしれない。
カイは黙ってスパナを差し出した。
「右膝の装甲板のボルトが緩んでる。六本あるから、全部増し締めしてくれ」
リオンはスパナを受け取り、残殻の右膝に向かった。装甲板のボルトに工具を当て、締め始める。動きに迷いがない。銘殻の操手は、基本的な整備をセルヴィスの訓練で叩き込まれている。ボルトの締め加減を知っている手つきだった。
二人は並んで作業した。
カイは左膝のベアリングを研磨し、リオンは右膝のボルトを締める。工具が金属に触れる音が、静かな荒野に響いた。
* * *
ガルドが作業車の荷台から部品を運んできた。
残殻の左肩の関節モーターの予備品。アイアンウェルで手に入れたものだ。ガルドは脚立に登り、肩部の装甲パネルを外して内部機構を露出させた。
リオンはガルドの手つきを見て、手を止めた。
「あなたの整備技術は、エマ以上だ。セルヴィスの整備班長よりも精密な作業をしている」
ガルドは肩をすくめた。装甲パネルの裏側にこびりついた油汚れを、布で丁寧に拭き取りながら。
「俺は技匠だ。機体のことなら何でも分かる」
「技匠」
「銘殻には専属の技匠がつく。操手の癖に合わせて機体を調整する。操縦桿の応答速度、ペダルの踏力、計器の配置。全てを、その操手だけのために最適化する」
ガルドの手が、関節モーターの配線を確認しながら動く。太い指だが、繊細な作業をする時は別人のように静かになる。左手の中指と薬指。古い火傷の痕がある。その指先の感覚が鈍いはずなのに、微細な配線の接触不良を指の腹で感じ取っている。
リオンはカイとガルドの作業を見比べた。
カイの手つきは、ガルドに似ていた。工具の握り方。ボルトを回す時の手首の角度。部品を検査する時の目の動き。テオの不在の後、ガルドがカイを育てた。その痕跡が、工具越しの動作に刻まれている。
「セヴァル。あなたのやすりの持ち方、ガルドと同じだ」
リオンが言った。
カイは手を止め、自分のやすりを持つ手を見た。それからガルドの手を見た。確かに同じだった。親指の位置、人差し指の曲げ方。ガルドから教わった握り方が、無意識に体に染みついている。
「そうか」
カイはそれだけ言って、作業に戻った。
ガルドは何も言わなかった。だが装甲パネルを取り付ける手が、一瞬だけ止まった。
* * *
整備が一通り終わった。
三人は残殻の足元に座り、水筒の水を分け合った。灰域の午後の風が砂を運んでくる。機体の装甲に砂粒が当たって、微かな音を立てた。
「エマという人は、ポラリスの担当技匠か」
ガルドが聞いた。
「ええ。エマ・コーリン。私がセルヴィスを離脱する時に、ポラリスの全整備データを持たせてくれた」
「技匠が操手にデータを渡すのは、普通じゃない。それは信頼の証だ」
ガルドは煙草に火をつけた。赤葉の辛い煙が漂う。
「技匠と操手の関係を、グランヴェルトでは『鋼の婚約』と呼ぶ」
「婚約?」
「技匠は一人の操手のためだけに機体を作る。操手は一人の技匠にだけ機体を預ける。互いの命を預け合う関係。婚約よりも重い、と言う奴もいる。俺とテオが、そうだった」
カイは黙って聞いていた。
ガルドがテオの名前を出す時、声が僅かに変わる。低くなるのではなく、柔らかくなる。普段の飄々とした口調の下に隠れた、別の声。
リオンが言った。
「私の情報がどこまで役に立つか分からない。でも、何もしないよりはましだと思った」
カイはリオンの横顔を見た。砂埃で汚れた頬。乾いた唇。紺色の目に、疲労と決意が同居している。この女は10日歩いてここに来た。ポラリスを置いて。軍服を脱いで。セルヴィスの将校という肩書きを捨てて。
「それで十分だ」
ぶっきらぼうな言葉だった。感謝でもなく、許しでもなく。ただ事実として、今ここにいることを認める言葉。
リオンの表情が僅かに動いた。硬かった目元が、ほんの少しだけ緩んだ。届いた。言葉が。ぶっきらぼうでも、届いた。
ガルドが煙草を咥えたまま立ち上がった。
「整備は終わりだ。嬢ちゃん、手つきは悪くなかった。明日も手伝え」
「……ええ」
風が吹いた。灰原草の穂が揺れ、残殻の装甲板に砂が薄く積もった。三人はそれぞれの速度で立ち上がり、ストーンクロスに向かって歩き始めた。
カイの右手に、やすりの感触がまだ残っていた。ガルドと同じ握り方。父の親友から受け継いだ手つき。
リオンの右手にも、スパナの感触が残っていた。工具越しに触れた、灰域の機械の手触り。




