潜入者
リオン視点。灰域への潜入。
アッシュゲートの夜は、星の光すら拒んでいるように暗かった。
リオン・アスフォードは暗闘色の戦闘服に身を包み、フードを深く被って荒れ地を歩いていた。セルヴィスの軍服は脱いだ。畳んでバックパックの底に押し込んである。ブーツだけが支給品のままだった。
背後に、管区の境界灯が遠ざかっていく。
黄色い光が等間隔に並ぶ線。あの線の内側が秩序の世界で、外側が見捨てられた大地。リオンはその線を越えた。
「こっちだ。足元に気をつけろ」
前を歩く男の声。低く、軽薄さの裏に鋭さがある。ルイ・ヴェルデ。クレスタの情報屋。アイリスが手配した案内人だった。
ルイは27歳の青年で、夜目が利く猫のように暗闘の中を迷いなく歩いた。短い金髪が月明かりに光っている。腰には旧式の拳銃が一丁。軽装だが、動きに無駄がない。この男は灰域の境界を何度も越えている。
「ここから先は旧世界の下水道の跡を通る。管区の地下排水システムの延長で、地上の警備が届かない」
「あなたはアイリスの何だ」
「依頼人だ。金次第で動く。それ以上の関係はない」
ルイは振り向かずに答えた。
「だが、あんたの動機には多少の関心がある。セルヴィスの将校が脱走して灰域に入る。浄化計画を止めたいと言っている。止められるとは思わんが、面白い賭けだ」
「賭けではない」
「全ての行動は賭けだ。確実なのは、何もしないことだけだ。何もしないことには、何も賭ける必要がない」
旧世界の下水道は、腰を屈めれば通れる高さだった。壁面にコンクリートのひび割れが走り、地面は湿った泥が溜まっている。リオンのブーツが泥を踏む音が、狭い空間に響いた。暗闘の中、ルイの足音だけが目印だった。
30分ほど歩いた。
地上に出る出口は、旧世界の排水溝の蓋だった。ルイが鉄の蓋を持ち上げると、冷たい風が吹き込んできた。灰域の風。砂と鉄錆の匂い。
地上に出た。
管区の境界灯はもう見えない。灰色の荒野が月明かりの下に広がっていた。灰原草の白い穂が風に揺れ、遠くで何かの獣の鳴き声が聞こえた。
* * *
管区の整然とした街並みが終わり、荒廃した景色が始まる。
リオンは立ち止まり、周囲を見回した。旧世界のコンクリート構造物が砕けた残骸。鉄骨がむき出しになった壁面。アスファルトが割れた道路の上に、灰原草が茂っている。
こちら側は、見捨てられた世界だ。
リオンは自分の呼吸を意識した。胸が締まる。軍服を脱いだ体が、管区の空気と違う空気を吸っている。同じ酸素のはずなのに、重い。この大気には、30年分の放棄と忘却が溶けている。
「ストーンクロスに行け」
ルイが言った。
「灰域の中心はあそこだ。首長のバートン・セオは元クレスタの管区長で、政治的な判断ができる人間だ。あんたの情報を最も有効に使えるのは、あの男だろう」
「あなたはここまでか」
「俺の仕事は境界を越えさせることだ。その先は自分で歩け」
ルイはポケットからカラス商隊のキャンディを取り出し、一つをリオンに投げた。
「灰域で腹が減った時に舐めろ。蜂蜜と干し果物を固めてある。エネルギーになる」
リオンはキャンディを受け取った。蜂蜜の甘い匂いがした。
「感謝する」
「金で返せ。次に会う時は、クレスタの通貨で」
ルイは手を振ると、暗闇の中に消えた。音もなく。情報屋という生き物は、現れる時も消える時も、気配を殺す。
* * *
一人になった。
リオンは灰域の荒野に立っていた。月明かりが灰色の大地を照らしている。影が長く伸びる。自分の影と、灰原草の影と、朽ちた鉄骨の影。
ポラリスがない。
リオンの手足のように動く銘殻が、管区の格納庫に置いてある。エマが整備データを持たせてくれた。だが機体そのものはない。今の自分は、鉄殻を持たない一人の人間だ。管区の市民よりも脆い。銃一丁と地図と、浄化計画の文書のコピー。それだけが武器だった。
東に歩き始めた。
ストーンクロスは東南東、直線距離で200キロ以上。徒歩では10日以上かかる。途中で何かの集落に辿り着ければ、移動手段を得られるかもしれない。得られなければ、歩き続けるだけだ。
灰域の夜は寒かった。
管区の建物の中にいれば感じない寒さが、体に染みる。外套のフードを引き上げ、歩調を速めた。体を動かし続けなければ、体温が下がる。灰域の住民が、この寒さの中で毎日を過ごしている。管区のヒーター付きの部屋で暮らしていた自分とは、根本的に違う世界。
足元に何かが転がった。
立ち止まって拾う。旧世界の空き缶。ラベルは完全に剥がれていたが、缶の形は原形を留めていた。30年以上前のゴミが、まだここにある。旧世界が残したものは、ゴミさえも消えない。
缶を置いて歩き出した。
前方に、旧世界の道路標識が傾いて立っていた。文字は錆びて読めない。だが矢印だけは分かる。東を指している。リオンはその矢印に従って足を進めた。
管区の地図は正確で、道路は番号で管理されていた。灰域には番号がない。錆びた標識が指す先に、何があるかは歩いてみなければ分からない。
それでも歩く。カイ・セヴァルの集落の人々が毎日歩いているのと同じ大地を、セルヴィスの将校だった女が歩く。
* * *
夜が深くなった。
灰域狼の遠吠えが、北の丘陵から聞こえた。一頭ではない。群れの声だ。リオンは腰の銃に手を添えた。拳銃一丁で灰域狼の群れは相手にできない。距離を保つしかない。
前方に、朽ちた旧世界の建物が見えた。壁が半分崩れたコンクリートの構造物。屋根は残っている。あの中に入れば、風と獣から身を守れる。
歩調を速めた。灰域狼の声が近づいている気がした。気のせいかもしれない。だが灰域では、気のせいで油断した者から死ぬ。
建物に辿り着いた。入口のドアは失われていたが、壁が三方を囲んでいる。奥に進むと、旧世界のスチール棚が倒れたまま残っていた。かつて何かの店だったのだろう。棚の影に身を潜め、外套を引き寄せた。
銃を膝の上に置き、建物の入口を見張る。灰域狼が来たら、銃声で威嚇するしかない。
寒さが骨に沁みた。こういう夜を、カイは何度過ごしてきたのだろう。ガルドは。トワは。あの人たちは、この寒さの中で笑い、食事をし、生き延びてきた。
リオンは外套の中で膝を抱えた。
軍人としての訓練が体を支えている。寒冷地での生存訓練は受けた。だが訓練と実地は違う。訓練には終わりがある。ここには終わりがない。
目を閉じる余裕はなかった。灰域狼の声がまだ聞こえる。だが建物の中までは来ない。焚き火を起こせれば獣を遠ざけられるが、煙は位置を知らせる。今は隠れていた方がいい。
夜が明けるまで、あと6時間。
リオンは銃を握ったまま、暗闇の中で夜明けを待った。前方に、残殻の影が見える。灰域の住民か。味方か、敵か。
リオンは腰の銃に手をかけた。




