表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
灰を踏む者たち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

61/153

潜入者

リオン視点。灰域への潜入。

アッシュゲートの夜は、星の光すら拒んでいるように暗かった。

 リオン・アスフォードは暗闘色の戦闘服に身を包み、フードを深く被って荒れ地を歩いていた。セルヴィスの軍服は脱いだ。畳んでバックパックの底に押し込んである。ブーツだけが支給品のままだった。


 背後に、管区の境界灯が遠ざかっていく。

 黄色い光が等間隔に並ぶ線。あの線の内側が秩序の世界で、外側が見捨てられた大地。リオンはその線を越えた。


「こっちだ。足元に気をつけろ」


 前を歩く男の声。低く、軽薄さの裏に鋭さがある。ルイ・ヴェルデ。クレスタの情報屋。アイリスが手配した案内人だった。


 ルイは27歳の青年で、夜目が利く猫のように暗闘の中を迷いなく歩いた。短い金髪が月明かりに光っている。腰には旧式の拳銃が一丁。軽装だが、動きに無駄がない。この男は灰域(アッシュランド)の境界を何度も越えている。


「ここから先は旧世界の下水道の跡を通る。管区の地下排水システムの延長で、地上の警備が届かない」

「あなたはアイリスの何だ」

「依頼人だ。金次第で動く。それ以上の関係はない」

 ルイは振り向かずに答えた。

「だが、あんたの動機には多少の関心がある。セルヴィスの将校が脱走して灰域(アッシュランド)に入る。浄化計画を止めたいと言っている。止められるとは思わんが、面白い賭けだ」

「賭けではない」

「全ての行動は賭けだ。確実なのは、何もしないことだけだ。何もしないことには、何も賭ける必要がない」


 旧世界の下水道は、腰を屈めれば通れる高さだった。壁面にコンクリートのひび割れが走り、地面は湿った泥が溜まっている。リオンのブーツが泥を踏む音が、狭い空間に響いた。暗闘の中、ルイの足音だけが目印だった。


 30分ほど歩いた。

 地上に出る出口は、旧世界の排水溝の蓋だった。ルイが鉄の蓋を持ち上げると、冷たい風が吹き込んできた。灰域(アッシュランド)の風。砂と鉄錆の匂い。


 地上に出た。

 管区の境界灯はもう見えない。灰色の荒野が月明かりの下に広がっていた。灰原草の白い穂が風に揺れ、遠くで何かの獣の鳴き声が聞こえた。



 * * *



 管区の整然とした街並みが終わり、荒廃した景色が始まる。

 リオンは立ち止まり、周囲を見回した。旧世界のコンクリート構造物が砕けた残骸。鉄骨がむき出しになった壁面。アスファルトが割れた道路の上に、灰原草が茂っている。


 こちら側は、見捨てられた世界だ。


 リオンは自分の呼吸を意識した。胸が締まる。軍服を脱いだ体が、管区の空気と違う空気を吸っている。同じ酸素のはずなのに、重い。この大気には、30年分の放棄と忘却が溶けている。


「ストーンクロスに行け」

 ルイが言った。

灰域(アッシュランド)の中心はあそこだ。首長のバートン・セオは元クレスタの管区長で、政治的な判断ができる人間だ。あんたの情報を最も有効に使えるのは、あの男だろう」

「あなたはここまでか」

「俺の仕事は境界を越えさせることだ。その先は自分で歩け」


 ルイはポケットからカラス商隊のキャンディを取り出し、一つをリオンに投げた。

灰域(アッシュランド)で腹が減った時に舐めろ。蜂蜜と干し果物を固めてある。エネルギーになる」

 リオンはキャンディを受け取った。蜂蜜の甘い匂いがした。

「感謝する」

「金で返せ。次に会う時は、クレスタの通貨で」


 ルイは手を振ると、暗闇の中に消えた。音もなく。情報屋という生き物は、現れる時も消える時も、気配を殺す。



 * * *



 一人になった。

 リオンは灰域(アッシュランド)の荒野に立っていた。月明かりが灰色の大地を照らしている。影が長く伸びる。自分の影と、灰原草の影と、朽ちた鉄骨の影。


 ポラリスがない。

 リオンの手足のように動く銘殻(めいかく)が、管区の格納庫に置いてある。エマが整備データを持たせてくれた。だが機体そのものはない。今の自分は、鉄殻(てっかく)を持たない一人の人間だ。管区の市民よりも脆い。銃一丁と地図と、浄化計画の文書のコピー。それだけが武器だった。


 東に歩き始めた。

 ストーンクロスは東南東、直線距離で200キロ以上。徒歩では10日以上かかる。途中で何かの集落に辿り着ければ、移動手段を得られるかもしれない。得られなければ、歩き続けるだけだ。


 灰域(アッシュランド)の夜は寒かった。

 管区の建物の中にいれば感じない寒さが、体に染みる。外套のフードを引き上げ、歩調を速めた。体を動かし続けなければ、体温が下がる。灰域(アッシュランド)の住民が、この寒さの中で毎日を過ごしている。管区のヒーター付きの部屋で暮らしていた自分とは、根本的に違う世界。


 足元に何かが転がった。

 立ち止まって拾う。旧世界の空き缶。ラベルは完全に剥がれていたが、缶の形は原形を留めていた。30年以上前のゴミが、まだここにある。旧世界が残したものは、ゴミさえも消えない。


 缶を置いて歩き出した。

 前方に、旧世界の道路標識が傾いて立っていた。文字は錆びて読めない。だが矢印だけは分かる。東を指している。リオンはその矢印に従って足を進めた。


 管区の地図は正確で、道路は番号で管理されていた。灰域(アッシュランド)には番号がない。錆びた標識が指す先に、何があるかは歩いてみなければ分からない。


 それでも歩く。カイ・セヴァルの集落の人々が毎日歩いているのと同じ大地を、セルヴィスの将校だった女が歩く。



 * * *



 夜が深くなった。

 灰域(アッシュランド)狼の遠吠えが、北の丘陵から聞こえた。一頭ではない。群れの声だ。リオンは腰の銃に手を添えた。拳銃一丁で灰域(アッシュランド)狼の群れは相手にできない。距離を保つしかない。


 前方に、朽ちた旧世界の建物が見えた。壁が半分崩れたコンクリートの構造物。屋根は残っている。あの中に入れば、風と獣から身を守れる。


 歩調を速めた。灰域(アッシュランド)狼の声が近づいている気がした。気のせいかもしれない。だが灰域(アッシュランド)では、気のせいで油断した者から死ぬ。


 建物に辿り着いた。入口のドアは失われていたが、壁が三方を囲んでいる。奥に進むと、旧世界のスチール棚が倒れたまま残っていた。かつて何かの店だったのだろう。棚の影に身を潜め、外套を引き寄せた。


 銃を膝の上に置き、建物の入口を見張る。灰域(アッシュランド)狼が来たら、銃声で威嚇するしかない。


 寒さが骨に沁みた。こういう夜を、カイは何度過ごしてきたのだろう。ガルドは。トワは。あの人たちは、この寒さの中で笑い、食事をし、生き延びてきた。


 リオンは外套の中で膝を抱えた。

 軍人としての訓練が体を支えている。寒冷地での生存訓練は受けた。だが訓練と実地は違う。訓練には終わりがある。ここには終わりがない。


 目を閉じる余裕はなかった。灰域(アッシュランド)狼の声がまだ聞こえる。だが建物の中までは来ない。焚き火を起こせれば獣を遠ざけられるが、煙は位置を知らせる。今は隠れていた方がいい。


 夜が明けるまで、あと6時間。

 リオンは銃を握ったまま、暗闇の中で夜明けを待った。前方に、残殻(ざんかく)の影が見える。灰域(アッシュランド)の住民か。味方か、敵か。


 リオンは腰の銃に手をかけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ